第七章脅迫一
佐久間は、糸川からの電話を受けた。
「先生、期日が迫っていますが、例の件はどうなっていますでしょうか。私共の方も期末決算が近づいていますが?」
「…」
「先生の立場もあることですし、本来なれば期日を待って頂けなければ、そのまま提出しても構わんのですが、一応確認してからと思い、連絡させて貰ったんですがね」
含みを持たせた。
「そうだったね。仕事の方が忙しく、手間取っているんだ。もう少し待ってくれないか。必ず期日までには提出するから。頼むよ、糸川課長」
調べた素行調査を念頭に置き、困り口調で願った。
「そうですか。…と言うことは、まだ揃っていないということですね?」
「ううん、まあ…」
「それは困りましたね。先生との約束期日がありますから。ところで、先生どうなんですか。あと何日待てば宜しいですか。こちらも、立場上遅らせるわけにはいかないんで。何時になるか教えて頂けませんか?」
「ちょっと待ってくれ」
何か電話口で、手帳でもめくっているのか間を置く。
「そうだな。あと一週間ぐらい欲しいんだが」
「先生、それは困ります。決算書類の提出期限が過ぎてしまうじゃないですか」
「そうかもしれんが、なかなか難しくてね…」
「そうは言っても、出来ぬ相談ですな」
強気の物言いとなった。
「それじゃ、糸川君。三日待ってくれないか。そうすれば何とかするから」
「ええっ、あと三日ですか。締切日当日じゃないですか!」
「ああ、そうなるか…。糸川君、何とか頼む」
懇願し、更に乞う。
「それまでには必ず提出する。絶対に守るから頼むよ」
「そうですか。最悪提出期限の一日前までには欲しいところなんですが。先生のたっての頼みなれば、上司の許可を取り当日までお待ちしましょう」
「それは有り難い。糸川君、感謝するよ」
「先生、今度は絶対間違いありませんね。万が一不履行になったら、私の立場がなくなりますから。まあ、先生のご立場も考えにゃなりませんがね。何とか待ちましょう。それじゃ、宜しくお願いしますよ」
見下す口調となり、電話を切った。受話器を置くなり、糸川はしてやったりと薄笑いを浮かべ、胸中で発する。
よしっ、これでいい!
追い込んだせいか、何やら確信めいたものを掴み、「コッホン」とひとつ咳をする。その咳に反応するように、佳織が顔を上げウインクした。
まあ、これで佐久間も終わりだな。間違いなく術中に嵌まる。そのために煽ってやったんだ。医者馬鹿が、不慣れな同意書回収など出来るわけがない。
素人ごときが、ただ訪問したからとて回収できるわけなかろう。現にそうなったではないか。だいいち俺らだって、請求書を出しているが音沙汰がないんだ。おそらく奴は一人暮らしに違いない。そんなところに出向いても誰もおらんわ。そんなことも分からず院長に叱咤され、のこのこと行きおって散々な目に合っただろうて。
そんなこと、長年の経験で分かる。だから、焦らして自ら作るよう仕向けたまでのことだ。切羽詰れば、人間弱いもの。後先考えず、こちらの術中に嵌まってくるのさ。
都合よく解釈した。更にほくそ笑む。
奴は間違いなく三日後には、植草隆二の署名捺印した偽オペ同意書を持ってくるだろう。そうなれば、こっちの思う壺だ。それさえ手に入れば、俺の勝利となる。後々には偽造文章作成の当事者として責任を取って貰う。
推測が枝葉のように進む。
阿呆院長にしても同罪だ。管理責任を負って貰わにゃなるまい。そう、ことが大きくなれば病院全体が大騒ぎになり、まず協会が動き出す。そして取り巻く社会が騒ぐだろう。新聞だって、週刊誌だって放ってはおかない。そうなれば、俺のことなど何処かへ吹き飛んでしまい、塵に埋まってしまうというものよ。これでいい。これが、描くストーリーだからな。それもパーヘクトのよ。
にたつき、勝利宣言の如く親指を立てた。糸川の頭の中に、ついと言葉が浮かんでくる。
完・全・犯・罪…。
ううん、いい響きじゃないか。この言葉こそ、俺のためにあるようなものだ。人間、知恵が湧かなきゃ、こんなことできまい。真面目に生きる阿呆が馬鹿をみる。特に、あのエリートぶる医者馬鹿なんぞは典型だぜ。当直時に緊急オペを成功させ、たまたま社会的に認知されたからと逆上せ上がってからに。
佐久間をこっぴどく虚仮下ろす。
何が「糸川君、待ってくれ」だ。ああ、待うじゃないか。お前が地獄に落ちるためのパスポートを持ってくるのをよ。俺がこんなことを企んでいるとも知らずに、焦りまくりどうにもならず手を染めた偽同意書を持って来い。
それが、お前の運のつきとなる。ざまあみろってんだ。世の中のことが分からぬ微温湯に浸かったぼんぼんと違って、俺みてえな凡人が出世するには、まともな生き方していたんじゃ見込みがねえんだ。お前のような学歴をかざすエリートと違ってな。
何時の間にか机上で両肘を立て、そこに顎を乗せほくそえんでいた。その最高潮に達した時である。にやけ顔の玉山が、近づき耳元で誘う。
「課長、何かいいことでもあったんですか。お祝いに今晩一杯行きませんか?」
急だった。糸川はぎくっとして、真顔に戻り見上げた。その驚く仕草に玉山がたじろぐ。
「あの…、課長。今晩いかがかと…」
その態度にムカッときた。せっかく酔いしれている時に邪魔されたのだ。
「何だ君は、口を開けば何時もそんなことばかり言って。しっかり仕事しろ!」
睨みつけ、頭ごなしに一喝していた。
「…」
玉山は目を丸くした。あまりの勢いに、言葉が出なかった。糸川の鋭い視線に仰天する。
「す、すみません。申し訳ございません」
恐縮し、すっ飛んで自席へ戻ってしまった。口元を歪め丸くなりこっそりと周りを伺うが、同僚らは知らんぷりである。さらに糸川の視線を背中に感じ益々小さくなっていた。
すると、意図的に佳織の咳払いが「コホン」と弾いた。ふと、糸川がそちらを見る。佳織の要件は分かっていた。今晩のお誘いである。
糸川にしてみれば具合よく進行しているのも、彼女の助けがあってこそだ。当然と言ってよいほど、今の歓びを二人で分かち合わなければならない。恵理子との約束など、頭の隅に追いやった。
すると、思考は佳織のことで一杯になり、たまらず席を立ちトイレに赴き、彼女の携帯にメールを入れる。「今晩、何時ものところで待っている」と。発信ボタンを押す。すると瞼の裏に、彼女の裸体が鮮やかに写し出され、艶めかしくそして怪しく蠢く。
うむむ、こりゃたまらねえ…。
思わず手が下半身に伸び、ぎゅっと握り締め生唾を呑んだ。
おっといけねえ。こんなところで興奮するなんて、俺らしくないぜ。そんなに焦ることもない。どうせ今晩頂けるんだ。それまで我慢すればいい…。
気を引き締め胸の内で嘯く。
さて、戻って。先程楽しんでいた佐久間の行く末のことでも、今一度詮索し直すか。途中で間抜けな玉山に遮られてしまったからな。それにしても、奴にはびっくりしたぞ。予期せぬ時に、ぬうっと阿呆面を近づけ喋るんだものな。
何が「いいことあったようですね。今晩一杯どうですか?」だ。おたんこなす野郎が。お前なんかに付き合っている暇はねえ。真っ平ご免だ!。
そにしても、佳織の身体はいいな。あのしっぽりした肌は何ともいえん。ちょっと触っただけで、吸い込まれるようだ。それに誘うような喘ぎが、どうにも刺激し欲情させるんだよな。あいや、いけねえ興奮してきたぞ。こりゃ、いかん。
情欲を鎮めるのに躍起となっていた。少し落ち着いたところで、ついでに用を足しすっきり顔でトイレを出た。そして自席に着くや、また邪推を始める。
佐久間めは、今頃どうしていることやら。さぞかし悩んでいるだろうよ。ちくちくと執拗な攻めに、切羽詰り口から出まかせで「あと三日、待ってくれ」などとほざきやがって。どうせ、その場限りの言い逃れだろうて。
さっきの言い訳から、それが分かるぞ。たとえ電話でも、慌てぶりが小気味よいほど伝わってきたわ。まあ、これだけ脅かせば精神的に相当参るだろう。そうなれば、思惑通り親族の誰かが書いたように見せかけ、捺印した同意書を持ってくるはずだ。何の当てもなく、三日後などと自ら期限を切り約束したんだからな。
これぞ思う壺だぜ…。まあ、佐久間先生も難しいオペがあるだろうから、焦ってとちらないようにして貰いたいね。
デスクに片肘をつき、顎を乗せパソコンに向かっているが、視線は遠くを窺うが如く、薄笑いを浮かべ勝利感に浸っていた。
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