糸川は佐久間からの連絡を待った。すでに提出期限を書面で申し伝えてある。

焦ることはない。じっくり待てばよい。どちらに転んでも、俺らに失策はない。もうそろそろ一週間になる。どう足掻いても回収できるわけがない。さすれば、観念して自ら作り持ってくるだろう。植草名の三文判などこにでもあるからな。

そこいら辺は、奴だけ攻めても決断がつきにくい。よって、院長を焚きつけておいたんだ。ちょうどタイミングよく厚労省の通達とやらで呼ばれ相談されたし、その辺も奴が手を染めるよう焚きつけた。

その効果がそろそろ出る頃だ。何せ鶴の一声で、奴を植草宅へ走らせたからな。先日呼ばれた時、それとなく結果を聞いたが案の定回収できなかった。結局、どう転んでも手を染める以外ないんだ。奴がそうするよう追い詰めておいたからな。

見たことかと、鼻を動かす。

まあ、ことが旨く運べば、俺の地位も安泰だ。あわよくば、来年の人事異動で能天気部長を玉突きし、業務部長になるのも夢ではないぞ。院長にあれだけ入れ知恵してある。それが回避されれば、俺の信用もぐっと上向くだろうて。うむ、今期決算が首尾よく迎えられたら、四月の人事考課を経て六月の定期異動で昇進ということに…。

頬杖をつき、ほくそえんでいた。

こんなに旨く行きそうだとは…、俺も悪知恵が働くよの。さあ、今夜辺り恵理子を誘って楽しむとするか。あいつもなかなか味のありそうな女だから、たっぷり可愛がってやろう。佳織と違って、まだ初心だ。仕込み甲斐があるというもんだぜ。

胸の内で吐き、腕時計を見る。

「三時過ぎか、ちょうどいい。佳織も休憩中だし、今のうちに彼女の携帯電話に入れておこう」

直ぐさま恵理子の携帯に時間と待ち合わせ場所を入れる。そしてパソコンを覗いていると、返信メールが帰った。開けてみる。

「オーケーです」

喜びの絵文字が躍っていた。

薄明かりのホテルの部屋で、二つの影が怪しく浮かび上がり絡み合う。

二人っきりの秘室で情事に狂う。重なり合い果てた後暫らくそのままでいたが、恵理子が甘えた声で尋ねる。

「ねえ、課長。私と佳織さんとでは、どっちが好きなの?」

「何を言う。お前しか眼中にないさ」

「まあ、そんなこと言って。佳織さんにも同じこと言ってるんでしょ。嘘言う子には、お仕置きしてやる!」

萎えた糸川自身を、力任せに握り締めた。

「わっ、痛てっ。恵、恵里子、何すんだ!」

握る手を払いのけようとするが離さない。

「痛てて、勘弁してくれ!」

「まあ、勘弁してくれってどういうこと。やっぱり佳織さんが好きなのね。悔しい!」

更に力を込めた。

「わわあっ、痛い。悪かった、謝るから手を離してくれ!」

「嫌、嫌よ。もう、佳織さんとはエッチしないと約束して。しなければ噛み切ってやるから」

「待、待ってくれ。そんなことされたらどうにもならん。約束する。これからはお前としかしない。だから許してくれ。こんりんざい佳織とは付き合わない。本当だ!」

「嘘じゃないわね、約束してくれる?」

「おお、約束する!」

「それだったら。その証を見せて」

「何だ。その証と言うのは?」

「決まっているでしょ。さあ、もう一度抱いて?ねえ…」

鼻に抜けた。

「ああ、それなら簡単だ」

「それにもう一つお願いがあるの。何所か旅行に連れて行って。それも、海外がいいわ」

「おいおい、どういうことだ。急所を握っているからと、それは法外ではないか。エッチするのに、海外じゃなくてもいいだろ」

「あら、そんなこと言っていいの。私、課長のこと知っているんだから」

緩めそうになった手に力がこもる。

「わっ、待て。疾しいことなんかないぞ。強いて挙げれば、君らとの密会ぐらいなものだ。これとて合意の上だ。表ざたに出来ないが問題はない。お互い楽しんでいるからな。だいいち今日だって。君自身、よがり声が大きかったぞ。楽しんでいる証拠じゃないか」

「まあ、何てこと言うの。私、そんなに大きな声出してない。でも、それはそれとして。課長の秘密、知っているのよ。例えば…」

「何だよ、何だ。焦らさないで言ってみろ。それに、少し手を緩めてくれねえか」

「駄目よ、悪さするから離さないわ」

「ちぇっ、勘弁してくれよ。ずっと握られたままじゃ、どうにもならねえ」

「駄目、早く約束して」

せっつかれるが、曖昧に応じる。

「ああ…」

すると、頭に乗り強請る。

「どうしようかな。海外旅行、そうねハワイ辺りでいい。連れて行ってくれるなら離してもいいわよ」

「うんにゃ、俺を脅かす気か?」

「そんなことない。恐喝まがいなことしたってしょうがないでしょ。すべて合意の上よね、課長?」

「くそっ、参ったな。まあ、仕方ねえか。約束するよ、だから離して聞かせてくれ」

「本当、約束してくれる?」

嬉しそうに糸川の息子をこねくり回す。

「ああ、分かった。約束する」

「それじゃ話すわ。植草隆二の件よ。佳織さんも絡んでいるんでしょ。何故、私から取り上げたか調べたわ。そしたら意外なことが分かったの。そこまで言えば、ぴんと来るわよね」

「何のことだか?」

惚け、あしらう。

「確かに君から佳織へ担当を代えた。それは事実だ。だが、それ以上のことは何もない」

すると、恵理子がバラし出す。

「そうかしら、その後があるんじゃない。だって、佳織さんとはセックスフレンドでしょ。いろいろと相談しているみたいね。ベッドの中でさ。そう、オペ同意書の偽造計画も。それも相手は佐久間先生。その先生を陥れ、偽同意書を作らせる。それだけではないわよね。それをねたに彼を強請る。勿論、佐久間先生だけ相手にしていては隠しきれないから、そこで院長も巻き込み、病院全体の問題にして揺さぶる考えね。

どう、図星でしょ。佳織さんって、随分単純なことを考えるのね。そうじゃないかしら。私だったら、もっと完全な策を考え出すわ」

「うむ…、そこまで調べたのか。君は大したもんだ。日頃ぬぼっとしているようで、意外と洞察力が鋭いんだな」

「あら、褒めているの、それとも貶しているの。どちらかしら。でも、考えてみない?」

「何をだ。何が要望なんだ」

「あっ、それと。まだ秘密知っているの。そうよね、課長の場合は、協会協賛の病院経営セミナーに参加しているわよね。随分派手に名目使っているのね。ここ三年間で、空出張で五回も参加しているんだもの。これって、背任行為じゃなくって。ねえ、課長…」

「待ってくれ。俺は悪気があって空を切ったわけじゃない。ほれ、今日だって楽しませているだろ。言ってみれば、君らへの奉仕活動だ。その資金調達なんだ。分かってくれ、頼む!」

「私、課長のことが好きよ。だから何時でも結ばれたいの。それにあなたの愛を私だけに欲しいの。他の人にはあげたくないわ。だから佳織さんと別れて。それに経理部の長谷川千恵さんとも情を通じているでしょ。それも手を切って。そうしてくれたら考えてあげる」

「分かった。すべて縁を切る。そして、お前だけを愛するからバラさないでくれ。そうしないと、これからずっと可愛がってやれなくなる。なあ、恵理子。お前が好きだ。だから秘密にしてくれ」

懇願した。

「私だけを愛してくれるって、本当?嘘じゃないわね」

「ああ、本当だ。神に誓ってもいい。これからはお前だけにしか、愛を注ぐものか!」

糸川は必死だった。もしバラされたら、今まで積み重ねてきたことが、すべて水泡と帰す。示されたことが公になれば、己の未来すらなくなる。それだけは、何としても防がねばならない。

それ故、必死に機嫌をとる。言い成りになるくらい懇願した。糸川にとって、出来ることはそれしかなかった。

女とは、好いた男の懇願に弱い。それが真実でなくても、そのように仕向けられると真に受ける。糸川は最大の難関を回避すべく、必死に女の弱みに付け込んだ。それが功を奏してか、恵理子がその気になる。

「本当に、私だけを愛してくれるの…?」

「ああ、勿論だ!」

「だったら、その証をみせて」

「ああ、何でもする。お前の言うことなら何でも聞く!」

「だったら、海外旅行へ連れて行って。ハワイであなたの愛を、思う存分貰いたいの。いいでしょ。そう、浩次を私だけのものにする。もう誰にも触らせない。絶対に他の女を排除してやる」

女の性だった。愛する男を独占するための欲である。だが糸川にとって、誠に都合のいいものとなった。最大の危機を迎えたが、内心ほっとする。

情欲に溺れるほど、この女は安心して秘密を守ってくれる。これは好都合だ。こんなことでバレなければ、そりゃ、願ってもない。

胸の内でほくそえみ、耳元で囁く。

「約束する。今度の夏休みに、二人っきりでハワイに行こう。そこでおもいっきり愛し合おう。それでいいだろ」

「ええっ、本当。約束してくれるの、嬉しい…」

陥された眼差しが、盲目になっていた。

窓のない薄明かりの部屋で、熱を帯びた二人の身体が怪しく蠢く。糸川はされるままに、身体を預けた。そのうち、あまりの奉仕に考えることさえ億劫になってくる。恵理子のなす行為が、脳みそをとろけさせる程の刺激だった。

ああ、何といいものだ…。

坩堝の中で、恍惚の瞳で奉仕する恵理子を見つつ、必死に考える。

うむ、今のこいつにとって、俺の身体がなくてはならならんものになっている。となれば、冷たくあしらってはこの身が危ない。ここは何としても避けねばならん。

この際、徹底的に狂わせ落とすしかない…。海外旅行か、止むを終ん。何とかしよう。そうかと言って、ストックも底をついてきたし、新たな流用先を開拓せにゃならん。うむむ…。それにしても、恵理子のテクニックは相当なものだ。感じてきたぞ。

受身でいたが、高ぶる気持ちが犯す衝動に変わる。むっくりと上半身を起こし、恵理子の身体を離した。焦点の決まらぬ視線でいる彼女の胸に指を這わせる。

「さあ、今度は俺の番だ。快楽の坩堝へ導いてやろう」

「ああん」

鼻に抜ける喘ぎで応じる。ここで優しく囁く。

「お前は俺のものだ。もう誰にも触れさせない」

敏感に反応し、上気した顔が夢惑う。

「嬉しい。ねえ、お願い。私だけしか見ないで…」

糸川にしがみついた。

弄る手を離し、ゆっくりと重なり極限まで上り詰めていった。



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