第六章からくり一

佐久間が、自宅に戻ったのは深夜である。朝には何時もの時間に、目覚まし時計で起こされた。暫らく意識が朦朧とするが、今日が何の日か直ぐに思い出す。

そうだ、院長の返事を貰うんだ。それに、例の件と…。

意識すると頭がしゃんとし、少なからず神経が張り詰める。

それにしても、昨晩は激しかったな。ママも随分荒れたし、あんな風になるものか。女というのは、幾つになっても我を忘れ上り詰めるもんだ。若い子も恥らうほどの大胆さだった。

うむ…、俺も満足した。また、近いうちに誘うか。あいや、そんなこと考えている場合ではない。今日は最大の難関だ。まずは朝一番で、オペ同意書に拇印を押させねばならん。早目に出勤して、看護士らがいないうちに処理してしまおう。それをせにゃ始まらん。とにかく早いとこ済ませて返事を待とう。

それさえ片づければ、後は院長の出番だ。糸川には、よしなに説得して貰わんと。昨日あれだけ説得したし、院長とて後には引けないはずだ。その辺は心得ていると思うがな。

そこで、ふと甦る。

しかし、よく考えてみると、どうも糸川の動きが解せない。やはり、何か企んでいるのかもしれん。そうだ、奴のことを調べる必要がある。蓋をして置かなきゃならぬ臭いものが出てくるかもしれんぞ。どうも臭うんだよな。奴の立場といえば、単なる業務精算課の責任者だ。給料だって、そんなに多くはあるまい。それなのに身なりは派手だし、夜な夜な女を連れて高級バーにも顔を出していると聞く。そう言えば病院内でも、二股、三股と噂が途絶えない。

それにどうも今回の件では、異常に俺に絡んでくる。さては責任転嫁しようと目論んでいるのか?それ故、隠しごとが見破られぬよう、矛先を俺に向けているのでは…。うむ、分からん。とにかく早急に身辺を探ってみよう。

思考を巡らすが、そこで推測を止め現実に戻る。

「おっと、いけねえ。ぐずぐずしていられん。早く行かなきゃ」

急き自宅を出て、病院へと向かった。案の定、当直医と数名の看護士だけである。挨拶を交し執務室に入る。見計らい植草のいる病室へと行き様子を窺がう。意を決し同意書に拇印を押させようと隆二の腕を取るが、ふと躊躇いが生じ何故だか手が止まる。

その時、はっと気づく。

待てよ、瀕死の彼に出来るのか。あの怪我の状況から、たとえ一瞬とて意識が戻ったとしても。…いや、そんなことは有り得ない。俺は、何故こんな無体なことをしようとしているのか。うむっ、どうして気がつかなかったんだ!

そうだ、白紙のままでいいじゃないか。何も拇印を押させる必要などない。そのまま白紙でいいんだ。それを糸川に脅かされ入らぬ詮索をし焦り、院長をも欺くなんて…。危うく、愚かなことをするところだった。

こんなことをすれば、偽りの同意書となる。瀕死の患者が出来ることか。これぞ窮鼠の悪巧みだ。うむ、医師である前に人間としての本文を忘れるところだった…。

正々堂々と立ち向かえばいいものを、弱い己を欺こうなんて。知らぬ間に保身ばかり考え、周りが見えなくなっていた。偽造などしたところで、必ず露見する。

佐久間は目が覚めた。そして握る隆二の手をそっと元に戻す。そして、清々しい顔で執務室に戻る。午前中に簡単な手術が一件入っていた。二時間程で終わるものである。ほっとしていた。

正直たれ!

植草の件は、これでいいんだ。カルテの経緯もそのままでいい。院長への進言は、とりあえずそのままにしておき、興信所へ依頼し結果を待ってから対処しよう。

そう決意しオペに臨み終了後、院長からの電話を待つが午前中に連絡はなかった。気にかけるが、こちらから連絡するわけにもいかず、忙しく医療執務をこなしながら待った。昼が来た。どうしてかと憶測する。

他に火急の用事でも入ったのか。そのために連絡してこないのだろうか…。

勝手に解釈し、昼食後外来患者の診察や回診などで忙殺されていた。結局、夕方になっても連絡はなかった。

しかし、遅いな。今日の一番でくれるはずだったのに。

院長を欺いたことに後ろめたさを抱きつつ、連絡しようと内線番号を押し始めるが、何故か途中で止めた。

やはり待とう。こんな時に電話したとて、放たれた矢は戻らん。

そんな結論を出す。結局、その日はなかった。漫然とした心持ちで家路に着く。

明日まで待とう。さすれば連絡が来るだろう。欺かれたまま、糸川に対する説得策を考えているのだろうか…。

翌朝起きた時、直ぐに昨日のことが甦る。そこそこに朝食を済ませ、早めに出勤した。午前中のオペ予定はなかった。回診は午後と決まっている。執務室で院長からの電話を待つが、結局午前中には架かってこなかった。久々に気分転換を兼ね昼飯を食いに院外に出た。

どうして連絡をくれんのか。昨日は架けられなかったにせよ、今日はそんなことあるまい。電話するのは、院長自らでなくてもいいはずだ。そのために秘書がいる。それもない。ひょっとして、何かあったのでは…。もしかして、先に糸川を説得しているのか。昨日は出来ずとも、今日の午前中はそうしているかも知れない。それで電話をくれないんだ。多分そうだろう。話はややこしくなるが、それならそれで仕方ない。

それにしても、糸川が要請に応じるだろうか。けれど、もしかしたら奴のことだ。逆手に取り勿怪の幸いと、俺を貶める策でも吹き込んでいるかも知れない。

うむ、これは少々考えが甘かったかな。あの時、余りにも切羽詰って邪策を考え、強引に押し通してしまったが、よくよく考えれば、奴の素行や臭い匂いを先に調べてからにすればよかった。しっかり証拠を押さえ、院長に進言すべきだった。けれど、単なる噂や業務の手抜きだけでは、奴の急所を掴んだことにはならない。

でも、あの時は。ああするしかなかったんだ。ああ欺くしか凌げなかった。目先しか見えなくなっていたとはいえ、愚かなことをしたと今は反省している。弱い自分を叱咤しほぞを噛む思いでいた。

「でも、これでいいんだ」と自身に言い聞かせる。

昼飯を済ませたところで、喫茶店に入りコーヒーを飲みながらじっくり反芻してみた。

そうだ、この際。大急ぎで奴の身辺を興信所で調べて貰わなきゃ。それにしても、執拗にオペ同意書の回収を迫るのは、一体何のためだ。よもや決算対策ではあるまい。

すると、疑念がふつふつと湧き上がる。

そうか、もしかしたら。奴は己の暗部を隠すために、周りの感心を逸らそうと画策しているのか。それでその標的となり仕掛けられ、罠に嵌まり奴の思惑通りに俺が偽造オペ同意書の作成することを狙っているのか。

確かに、植草の件は他の患者と状況が違い過ぎる。もう四ヶ月近くなるのに、誰一人として見舞いに来ないし、病状経過についての問い合わせもない。たとえどのような理由にせよ、大怪我して入院していれば親子だ。来るか問い合わせはあろう。

万が一、親がいずとも親戚などの親族はいるだろう。仮に何らかのクレームをつけるにしても、三ヶ月以上経っているではないか。病院に誰かが連絡を取るはずだが、それがないのは。うむ、もしかして…。そうだとすれば、連絡するはずもない。益々、糸川から臭い匂いがしてくる。

これは何としても、早く尻尾を掴まねば。さもなくば悪知恵の働く男だ。どんな逆襲を仕掛けてくるか分からんぞ。

佐久間は直ぐに、鹿野探偵事務所へ電話を架ける。

「やあ、久しぶりだな」

「どうした、急に電話なんかよこしてよ。何か用か?」

「ああ、用がなければ。お前のところなんかに連絡するかよ」

「おいおい、相変わらず口が悪いな。ところで、大したもんじゃないか。今じゃ飛ぶ鳥落とすほどの名声を得ているんだから。同期の仲間内じゃ、皆お前のこと誇りに思っているぞ」

「有り難う。こんなのまぐれだ。たまたま当直勤務に就いていたからさ」

「そんなことあるか。謙遜しやがって。いくらまぐれだって、それなりに努力せにゃ評価されないさ。一発の打ち上げ花火で、名声を築くことなんてあるわけねえだろう」

「鹿野、そう言ってくれると嬉しいよ」

「それにしても、あの頃はお前が医者になるとは思ってもみなかったぞ」

「まあな。大志もなく大学の医学部に入って、今じゃしがねえ総合病院の医者をやっている」

「確かにそうだな。おっと、話が横道に逸れたが、佐久間、一体何の用だ?」

「ああ、そうだった。今日電話したのは、至急調べて貰いたいことがあってな。それで今晩、空いているか?」

「随分急だな。そんなに急がにゃならんのか?」

「ううん、ちょいとな」

「そうか、お前の頼みじゃ、聞かざろう得まい。何とか都合つけてやるよ。ちょっと待ってくれ」

電話口の向こうで、秘書に夕方以降のスケジュールを確認しているのか、やり取りが聞こえてくる。

「分かった。それだったら、今夜は急用が入ったということでキャンセルしてくれ。理由?適当につけて断れ。ううん、そうだな。身内で不幸があり、急遽そちらへ行かなきゃならんとか何とか言ってよ。分かったな。そうそう…」

そんなやり取りが終わり出る。

「もしもし、何とか時間を作ったから」

「そうか、すまんな。それじゃ、午後六時に赤坂の小料理屋「上田」で落ち合おう」

「分かった」

一方的な指定に悪びれることなく応じ、暫らく振りに酒を酌み交わすことになった。

「鹿野、忙しいところ悪いな。感謝するよ」

「何を言う。親友じゃないか。話はまだ聞いておらんが、至急調べろということは、お前の身に何かが起きているということだな。困っている友を放っておけるか」

「そう言ってくれると、本当に助かる。詳しいことは会った時話すから。とにかく至急調べて欲しいんだ」

「分かったよ。任せておけ」

頼もしい返事を受け電話を切った。

「さて、戻るか」

安堵する表情で執務室に戻ると、多田から告げられる。

「先生、先程院長から電話がありまして…」

「何、院長から!」

多田の話を遮った。すると慌て応える。

「ええ、それで『昼食を取りに外に出ています』と伝えましたら、『それじゃ、戻り次第、私のところへ来るように』と、おっしゃっていました」

「分かった。それじゃ、これから行って来る」

その足で、院長室へ向った。

「佐久間です、大変遅くなりました!」

名乗り院長室へ入った。待ち兼ねたように、吉沢の声が飛んでくる。

「佐久間君か。さあ、こちらに来て座りたまえ」

慇懃ではないが、打ち解けてもいない表情で迎い入れた。応接に向かい合い座る。佐久間は、用件が何であるか分っている。己の取った行為を話さずに回答を待った。

吉沢の口が開く。

「どうだね、君の方は段取りが取れているかね」

想定の質問がきた。

「はあ、と申しますと植草の件ですか?」

佐久間が問い返した。すると、吉沢が応える。

「そうだ。用意できたのか?」

「はい、お約束しましたように」

先日の進言を実行した如く答えた。

「うむ、そうか…」

それだけ言うと、何故か黙ってしまった。

二人の会話が途切れる。そこへ秘書の田沢が、お茶を入れ持ってきた。佐久間に勧める。

「どうぞ」

テーブルに置き、軽く会釈をし下がった。

「まあ、茶でも飲んでくれ」言つつ、自分の湯飲みを取りすする。

「では頂きます」一口飲み、茶托に戻しほっと息を吐く。その様子を見て、吉沢がぼそっと話し出す。

「佐久間君、例の件だが…」

「どうでございましょうか?」背筋を伸ばし問うた。

「ううん、一昨日、君の報告と策を聞き、じっくり考えたんだが。それと…」

口元が鈍る。

「それと何ですか。私がご提案させて頂いた方法では駄目なのですか?」

「いいや、そんなことは言っておらん。まあ、そう焦るな。私の話を聞きたまえ!」

「はっ、すみません。つい急いてしまい申し訳ございません」

思わず乗り出したことに気づき座り直す。すると、一度は同意したものの踏ん切りがつかないのか、躊躇い気味に話し出す。

「いや、君の話も分からんわけではない。それなりに筋が通っていると思うが、どうも親族や血縁者が、一度も面会に来んのが腑に落ちん。どうして来んのか。連絡しようと思えば、電話一本で簡単に出来るものを、それをしてこない。普通では有り得んことだ。どんな理由があるのか…」

少し間を置く。

「ただ植草隆二が孤立無援の者であるなら、それは理解できよう。手術代や治療費の支払いがないのも納得できる。そう考えると、どうなんだろうか。佐久間君、その辺を調べてあるのかね」

「あの…。そこのところは、まだ調べておりませんが」

「それは困ったな。その辺は、調査しておく必要があるんじゃないかね?」

「はい、申し訳ございません。至急、調べさせて頂きます」そう返し、植草宅から戻った時の邪策のまま話しを進める。

「ただ、どうなる形にせよ同意書が取られていないことが、外部に知られるとなれば、それは医療倫理上問題が生じて参ります。ましてや、これから迎える期末決算上この問題が含まれるなら、すんなりと認められるものなのでしょうか?」

「それは、君。どういうことかね」

「はい、私も詳しくは分かりませんが。決算書類の全医連や中医協への提出上問題があるのではと。医療費代等の未入金の不突合資料で、その根拠を付して提出されるものの中に、オペ同意書未添付として公表されても問題がないのかと」

「いや、そ、それは困るぞ。そんなこと拙いに決まっているじゃないか!」

あってはならぬと、声を荒げた。

「院長、何故いけないのですか?」

「君、何を言う。困る、困るぞ。そんなことは。絶対にならんことだ。だいたいオペ同意書なしで手術を行うこと自体、医療業務に携わる者として、患者や親族を蔑ろにしたことになる。そんなことが行われていると知れたら、この横浜日々病院が関係機関から何と咎められるか。それだけではない。厚労省からも、こっぴどくやられるではないか!」

「わしの首など軽く飛ぶ…。まだある。世間が許さんだろう」

「私もそのよう思います。それは医療倫理上からも、うちの病院が弾圧されかねません。特に人命に係わることで、軽率に扱っていると週刊誌や新聞に書かれたなら、それこそ取り返しのつかぬ事態に発展しかねません」

そう煽る一方で、内心己の愚略を吐露し詫びたかった。慌てふためく院長を前にし、打ち明けたかったが押し止めた。

そして、愚策を畳み込む。

「そうならないためにも、ここは何としても植草隆二の同意書が必要なんです」

しかし心の内では、「白紙同意書でいいんだ!」と叫び、二の矢を放つ。

「院長、そう思いませんか!」

吉沢の目を見据えた。

「ただな、君が言うようにオペ同意書があれば胸を張って対抗できよう。それは間違いない。だが、病院内の書類を改ざんするのは、ちょっと無謀じゃないか?

特にカルテなどは、多くの関係者が見ている。それに業務課の記録とてな。それを修正するんだ。内部告発されたら、それこそ大問題になるぞ」

「確かに院長のおっしゃる通りです。けれどこの件は、未処理ですむ代物ではないのです。これは精算業務課で、期末決算用に作成される不突合資料に記載されるのです」

またも院長の判断が正しいと腹内では訴えつつも、不本意ながら力説した。

「それは何度も聞いた…」

戸惑う吉沢を前に力説する。

「この決算資料はうちだけに止まるものではございません。そのことは院長、お分かりのはずです。中医協に出せますか?全医連に報告できますか?」

「確かに君の言う通りだ。それはまずい。そうなれば、ただではすむまい。しかし、困ったな…」

「ですから、私が申しているように、せねばならないではありませんか。院長、時間がないのです。早急に決断し、対処して頂かなくてはなりません。勿論、この問題は私だけでなく病院としての対応が求められるのです!」

「佐久間君、分かった。君の言うことに理がある。ところで話すのを遅れたが、じつは午前中に糸川君を呼んで意見を聞いていたんだ」

「えっ、そうでしたか。昨日から連絡をお待ちしていましたが、頂けませんでしたので何か急用でもと思い、今日も午前中より待っていたのですが」

視線を逸らし告げた。

「そうかね。いや昨日は、中医協の近藤事務局長から、急な呼び出しがあってな。急遽そちらへ行ったものだから、約束が守れんかった」

「いいえ、私めの頼みなど優先順位からすれば、そちらの方が先ですから」

謙遜し、手を横に振る。すると、吉沢が意外なことを告げる。

「いや、それがおおありだ。と言うのも、事務局の近藤さんが難しい顔で話してくれた。今までに慣例のない要請があったってな。何事かと問い直したら、監督官庁である厚労省から中医協の方に通達があったと言うんだ。当然、全国医療機関連盟へも入るだろうから、いずれ来るだろう」

「そうですか。それでどうなんでしょうか?」

「それがだ。思いもよらぬことだが、早急に全国医療機関連盟を通じて報告書を出さねばならんのだ」

「と申しますと、それはどういうことでしょう。差し支えなければ、お聞かせ頂けませんか?」

「ああ、まあ君には直接関係ないが、ただ、例の患者。植草隆二も含んでおるんでな。過去三年分の決算上発生した不突合案件に係わる経過状況について、詳しく報告しろと言って来ている。勿論、この通達は全国の総合病院が対象だ。それで急遽精算業務課の管轄ゆえ、安田君と糸川君に来て貰い、仔細を説明し協議していたので、君への連絡が遅くなった。

君の提案を忘れたわけじゃないが、自分なりにじっくり考えてもみた。まあ、そんなことで連絡出来なかったわけだ」

「そうでしたか。それはまた、どうしてお役所がそんなことを、急に言い出すんでしょうかね。何か不祥事でもあったということでしょうか?」

鎌をかけた。

「まあ、何と。虫の知らせというか、ちょうどタイミングがあってな」

「と、申しますと?」

「ほれ、今回の件だ」

「はい」

「それで、厚労省が出した通達の意味が何なのか。中医協の事務局で親しくしている吉田君に聞いたところ、真意が分かってね。

病院関係者の不祥事が最近頻発していることから、協会あるいは傘下の総合病院における病院経営において、特にコンプライアンス遵守が徹底出来ているかと。それが強いては、医療業務の低下に繋がり重大な事故を引き起こすことになる。本来、病院の精神は人命の最大限の尊重だ。医院内で風紀が乱れれば、それ自体の維持すら難しくなる。

その傾向として、現実に現場で医療ミスが起きていると言うんだ。それでは患者や家族の信頼など得られるはずがない。病院のモラル低下は、監督官庁としても見過ごせないと言う趣旨らしい」

「そうですか。確かにそれは言えます。医師仲間から耳にしますし、また、植草の件もありますから。それに衆議院の総選挙も近いことですし、政府や族議員がぴりぴりしているんじゃないですかね?」

「そうなんだ。わしも吉田君から聞いて、さもあろうと思った。厚労省としては、それを一番恐れているからな。だから三年も遡って調べろと言っておる。分かるかね、佐久間君。まあ、うちの病院では私が目を光らせているから、不祥事などないがな」

「は、はい…」

「それにしても今まで前例がないし、中医協や全国医療機関連盟傘下の病院だって、慣習が優先し頭になかったでしょうからね」

「そう言われれば、そうだ…」

応じ、気を引き締める。

「いや、今回の通達は前代未聞だ。厚労省も本気だぞ。中途半端な報告書を出し、後で露見でもしたらとんだことになる」

「これは真剣に受け止め。きちっと対応しておかないといけませんね…」

「そうだな」

佐久間は、手を染めなかったことに安堵し矛先を変える。

「ところで、つかぬ事をお伺いしますが。宜しいでしょうか?」

「何だね?」

「先程、この件で糸川課長に相談したとのことですが、どのような反応でしたでしょうか?」

「おお、今思えば調子のいいことを言っておった。何やら思惑でも有りそうな顔で、『総選挙も近いことですし、どうせお役人の政府に対する胡麻擦りでしょから、気にすることはありませんよ。適当にこちらで作り、中医協の事務局へ送っておきますからお任せ下さい』と言っていたぞ」

思い起して、更に続ける。

「それに、『この医療業界は昔から慣習が優先する故、厚労省だって受け取るのみで、大臣や族議員には口頭で報告するくらいでしょう。だから、すべてこんなことは一方通行の行事みたいなものです。心配することなどありません』とも言っておったので、つい任せてしまった。安田君も頷いておったわ。それがどうかしたのかね?」

「いや、少々気になることがありまして…」

「そうかね…」

頷く吉沢を視つつ、それとなく問う。

「それと、話を戻しますが。通達に基づく不突合患者精査済報告分が、その後未入金のままであったり、書類上の不備改善がなされていなかったら、中医協の顔が丸潰れになるんじゃないですか?」

「そうなんだよ、佐久間君。わしもこの件については、ほとんど業務部に任せっきりだからね。まあ、実質的には糸川課長が取り仕切っている」

「そのようですね。でも、中医協とて発覚したら、えらいことですね」

「ううん…」

「それに慣習だの、中医協の面子などと言ってもいられない。もし、うちの病院でそんなものが一つ、二つと出てきたら、なんとしますか?」

「そうなんだ。わしもそう考えていた。ないと思うが、もし出たら私だけでなく、理事長まで巻き込んでしまう。だから、急遽糸川君らに指示したんだが、あんな調子で応えられては…」

「そうですか。差し出がましいとは存じましたが、お伺いした次第でして、これは再度部長会で安田部長に、然るべくご指示をされた方が宜しいかと存じますが?」

暗に偽造は駄目だと気づかせるべく、そう促した。

「そうだな、対応を違えると取り返しがつかなくなる。いいや、君の一昨日の報告といい、今の話といい聞いてむしろ正解だと思っている」

「そうですか。それで、植草の件は宜しいですね?」

「仕方ない。今回のこともあるし背に腹は変えられん、あんじょう頼むぞ。わしも手配する。いずれにしても、今期の決算までには解決せにゃならんことだ」

「仰せの通りでございます。厚労省通達の方も同様でしょう…」

「その通りだ。ただ、役所の方はそこまで明確には言っておらんが、中医協事務局としてはそうもいかんだろう。当然傘下の病院に対する指導力が問われる。万が一、協会内から不祥事が出れば、それは一大事だ。近々正式に全医連傘下の総合病院だけでなく、全国の病院に通知が流れるだろう。厳密に精査されたしとな。

これをもって中医協は厚労省に対し、当協会は潔癖であると答申せにゃならん。わしも協会の理事を仰せつかっておる故、そのことから言えば、絶対に不祥事や不整合な案件を出しはならんのだ。従って、君の抱える例の件も早急に解決しておかなきゃならんということだ」

きっぱりと告げた。それに応える。

「おっしゃられる通りでございます。それ故、不手際については申し訳なく思いますが、答申もありますのでくれぐれも宜しくお願い致します。

何としても、今回の期末決算における不突合案件については、理論武装できる完全な形で処理しておかなければなりません。先程来のお話しからすれば、協会の方も通り一遍の通知で、お茶を濁すことはいないように見受けられます」

院長の目を見据え、本心を告げた。

「確かに役所の動き、更に協会幹部の対応をみると、今までとは違う」

吉沢がきっぱりと言った。そこで、頷き確かめる。

「あの、午前中に糸川君と同意書の件で、話し合われたとおっしゃられましたよね」

「ああ」

「それ以外で、何を話されたのかお尋ねしませんでした。院長のお立場上、聞かれぬことを話さないのは当然と思いますが」

遠慮気味に尋ねる。

「ここは急を要します。大変失礼とは存じますが、改めて課長が植草の件で、どのような意見を申していたか、差し支えなければお教え願いたいのです」

「ああ、構わん。彼はこう言っていた」

抵抗なく話し出す。

「そう、『期末決算ゆえ、佐久間先生には忙しい中、何としても植草のオペ同意書が必要だ。これは当院の規則でありまげられない。期日までに必ず提出して頂くようお願いした』とな。それは、わしも当然だと思っておる。それで糸川君には、『彼には、是が非でも間に合わせるように』と念を押しておいたよ」

「そうですか」

佐久間が頷くと、吉沢が続ける。

「それにだ、君がオペ同意書を回収できなければ、『佐久間先生の責任において作成させてはどうか?』と言う話もあった。『そうしなければ、中医協への資料が不完全のまま提出せざろう得ない。そのようなことが、病院として許されるのか?』とな。それに『このままスムーズに期末決算を迎えるには、院長の方からも説得して欲しい』と、このわしにせっつけとでもいうように煽っておった」

午前中の糸川との会話を明かした。

「課長は、そのように申していましたか。それで院長、彼に何と答えたのですか?」

「君から聞いていたんで、『そのようにさせよう』と言っておいた。そしたら、『それが宜しい。そうなされば病院としても、何かあった時対応出来ますゆえ』と頷いておった。彼も自分の考え通りになって、納得したんじゃないのかね。どうだ、これでいいかな」

「結構でございます」

「まあ、わしの方から説得しなくても、君と彼の策が一致しているからこれで大丈夫だな」

「ええ、そのようですね。しかし、決算対策はそれですみますが、ただ、それだけでは協会の要求を満たせないのではないでしょうか?」

「どういうことかね。他にまだ問題があるというのか?」

「はい、ご察しの通り。我が業界ではあまた問題が発生しております。例えば納入業者との癒着のみならず、不正経理や使い込みと表に出ないものが多くあります…」

「それがどうした。そりゃ、業界全体ではいろいろあるだろう。そのために厚労省が躍起になっているんじゃないか。だがな、うちではそんなことは有り得ん。いや、君がそれまで言うなら、何かあるのかね。それとも、わしの監督が甘いというのか!」

本音を察して貰いたく話すが、にべもなく目を剥いた。

「いや、そのようなことは。ただ、確証は掴んでおりませんが。何やら臭いますので」

「おいおい、それはどういうことだ。うちでそんなことあろうはずがない。何かの間違いだろう。思い過ごしとか、例の件で君に落ち度があるから、些か神経質になっているんじゃはないのかね」

そんな驕る返事に、言い返す。

「いいえ、そうともいえません。確かに私に落ち度があったことは事実です。でも、決して故意に発生させたわけではありません。私は医師です。患者の命を救うことが使命なのです。その結果、命の炎を消さずにすみました。それがすべてであり、そのために優先したまでです。ただ、現実には徴求していませんので反省しております」

「君の言わんとすることは分かったが、一体どういうことだね。俄かに信じられんが、もし不祥事があれば、それは一大事だ…」

自信が失せたのか、言葉が萎んだ。そこで、佐久間が突っ込む。

「そうです。万が一、あるとしたら信用を失います。それに時期が時期です。通達の主旨がコンプライアンス遵守ということなら、監督官庁が躍起になっている時です」

「まさか君、冗談を言っているのではあるまいな」

「いいえ、そのようなことはありません。どうも身近で臭うのです。業者との癒着の臭いがです」

「な、なんだね。わしが目を光らせているのに、そんなことあるはずがないだろ!」

目ん玉を大きくし否定した。そこで冷静に告げる。

「先ほど院長に促されましたが、私は今、ある人物の不自然な動きを、急遽探偵社を使い調べているところでございます」

すると、ころっと変わり慌てだす。

「何と。だ、だれだ。それは。君、教えたまえ。こりゃ大変なことになったぞ!」

動揺する吉沢を抑える。

「いや院長、慌てないで下さい。まだ確定したわけではありません。院長に会う前に、友人の探偵社に依頼したばかりですから」

「うむ、何としたことか。こんな時に、そのようなことが起きているとは。こりゃ何とする…」

威光がすっ飛び、口元を歪める。

「こともあろうに、厚労省が目を光らせている時に、生じてはならんことが起きているというのか。佐、佐久間君。その探偵社の調査結果は、何時頃になるんだ」

「急がせておりますが、おそらく二週間はかかるかと…」

「何、そんなにかかるのか。もっと早く出来んのか。協会への提出だって、決算後遅くとも一ヶ月以内には報告せにゃならんし、それが事実なら早く突き止め、表に出ぬよう対策を講じなければならぬではないか。それには時間が要る。期末まで時間がないんだ」

「院長、私の方も再度早く調べて貰えるようせっつきます。それまでこの件は伏せておいて下さい」

「分かった。だがな…」

うろたえる吉沢に念押しする。

「それで、院長。話は変わりますが、植草隆二の方は、私の決めた通りで宜しゅうございますね」

「構わん、君の考えた方法で処理してくれ。そのかわり、後は糸川君の方だ」

「課長の方は、少々お待ち下さい。私が説得しますから」

「おお、そうしてくれ。それにしても困ったものだ。まさかうちの病院で、そんなことが起きているとは。植草の件が、いい方向で解決しようとしている矢先に大変なことが発生しようとは。わしのところもこれだけの所帯だ。一体誰なんだ…」

植草の件など追いやり、犯人捜しに飛んでいた。

「あいや、院長。まだ決ったわけではありません。それらしき動きというか、臭いがするだけでして」

入れ込み、口外されてはまずいと慌てて抑えた。

「そうは言うが。君がそう感じるなら、火のないところに煙は立たんだろう」

「確かにそうですが、確定したわけではございませんし、露見しているわけでもありません。まだ、内々の調査段階ですから、それが即不正ということには繋がりません。私の思い過ごしかも知れませんから」

「うんにゃ、そうなって欲しいが。とにかく急がせてくれ!」

「かしこまりました」

吉沢は不安を胸に、佐久間を見送った。ソファーに座り直す。

何としたことか。もし彼の言う通りであれば、一大事だ。わしの立場もただではすまん。これは大変なことになったぞ。しかし、佐久間が言う奴とは、一体誰なんだ。金を動かしている者と言えば経理か。しかし経理部の誰だ。それに業者との癒着となれば、医師も考えられる。医薬品一つとっても、彼らの発言は絶対だからな。そりゃ、目の色変えて顔色を覗う。そこに不正が横行することだって在り得る。

とは言うものの、このわしも昔は業者からの接待漬けで、随分と甘い汁を吸わせて貰ったがな…。

じっと腕組みし、憶測する。

おっと、あと何処だ。どの部だ。業務部はどうだ。うむ、そうか。薬品調度課は納入業者に絶対的権力を持っている。ここら辺りは、それを傘に傲慢になり不祥事が起きやすい。それに、業務部長も怪しい…。

ううん、待てよ。精算業務課はどうだ。でもここは、納入業者との接点がない。だとすれば、どいつなんだ。

視線を一点に集め憶測していたが、むくっと目を剥く。

くそっ、どこにそんな臭う輩がおるのか!それにしても、これはまずいぞ。問題が発覚したら、わしの責任になるではないか…。

目を伏せ、頭を抱えた。

募る不安が吉沢を蝕む。己に降りかかると思うと、居ても立ってもいられなかった。あまりの衝撃に、オペ同意書の算段どころではなくなっていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る