三
佐久間が病院を出たのが午後七時過ぎである。気分よく、久々に馴染みの小料理屋「千草」に立ち寄った。暖簾をくぐる。
「あら、いらっしゃい。お久しぶりね」
若作りの女将が迎えた。
席に着くや佐久間が溢す。
「ああ、今日は疲れた。本当に長い一日だったなあ。足が棒のようになっちまったよ。それに精神的にもきつかった」
カウンターに肘をつき、両手で顔を覆った。
「あら、佐さん。何かあったの。もしかして、オペでも失敗したの?」
「そんなことするもんか。まあ、一応俺も名医として認知されているんだ。どん臭い医者のようなことやるかよ」
「そうよね。今じゃ医師として、飛ぶ取り落とすほどの名声を誇っていらっしゃいますものね」
「まあな…」
「それじゃ、なあに。どんなことがあったのかしら?」
女将の貴子が興味深気に尋ねる。
「いや、大したことじゃない。俺は医師だ。医療に係ることで、こんなに疲れたことはないが、それ以外のことになるとからっきしで、余計な神経を使うことになり、これがえらく疲れるんだ」
「そうよね。佐さんは名医師ですもの」
ぐい飲みを佐久間の前に置き、熱燗の徳利を差し出す。
「さあ、どうぞ」
「おお、悪いね」
注いで貰い、一気に飲み干す。
「うむ、美味いね。ママに注がれる酒は一段と美味い」
「何を持ち上げるようなこと言って。佐さんは気付けの一杯の後は、必ず同じことを言うんだから。たまには違う褒め方して欲しいわ」
「あれっ、そうだったかい?」
「何よ、とぼけっちゃって。例えば着物がよく似合うとか、素敵だとかさ。女性が喜ぶような褒め言葉を、少しは勉強して貰いたいものね」
「おお、それは悪かった。それじゃもう一度注いてくれるかい。そうするからさ」
「まあ、そんなのわざとらしくて、嬉しくもなんともないわ。でも、注いであげる」
貴子が熱燗を注ぐ。ぐい呑みで受け飲む。
「美味いや。やっぱりママに注いで貰うとひと味違う。あっといけねえ。そうじゃなかった。そう言えば今日のママは、何時もよりずっと綺麗だ。その着物、とてもよく似合うよ。それに…」
「何よ、それにって。何が言いたいの。もったいぶらないで言ってくださるかしら?」
「いや、何でもない」
「あら、何よ。佐さんったら。途中で止めるなんてずるいわ。言ってちょうだい!」
「言ってもいいが。ママに嫌われるといけないから止めとくよ」
焦らしつつ、手酌で注ぎ口へと運ぶ。
「益々聞きたくなっちゃうわ。先生、何が言いたいの。焦らすなんてずるい!」
貴子がぷいっとふくれた。
「別に、焦らしてはないが。そこまで言われちゃ、喋るしかないか」
「そうよ、男らしく白状しなさい!」
「分かったよ。じつはな、ママの着物姿素敵だよ。よく似合っているけど、女性というのは着物を着る時は下着を着けていないんだろ。ママはどうかなと思って、聞いてみたかっただけさ」
「あら、そんなことなの。馬鹿ばかしい、期待して損しちゃったわ」
「馬鹿ばかしいって、それでどうなんだ。襦袢の下はスッポンポンかい?」
「そうよ。でも、佐さんの言い方って卑猥ね。何だかいやらしく聞こえる。まったくエッチなんだから」
女将が赤らめ顔を背けた。
「ママ、誤解だよ。そんなつもりで聞いたわけじゃない。男の場合はちゃんと付けているからな。それなれば、用足しする時は便利じゃないか」
「まあ、確かにね。でも、そんなこと考えたことないわ」
「そんなもんかな。それと、もう一つあるんだ」
「あら、まだあるの?」
「あの、着物姿でいるママの襟足が妙に色っぽくて。後姿見ていると、ついむらついちゃうよ。それにぷっくりとした尻なんか、たまらねえな。何にも着けていないと思うと、鼻血が出そうだ」
「何を言うかと思ったら、そんなこと考えているの。先生って、もしかしたら二重人格じゃない。名声を誇る医師が、女の後姿を見て発情するなんてさ」
茶目っ気たっぷりに嘯くと、反発する。
「何をいう。男というものは、すべからくそんなもんだ。人格だの名声などとは別だ。決して人格が異なるわけではない。まあ、本能とでもいっておこうか」
少々焦り気味にこじつけた。
「まあ、そんなこと言って。男って怖いのね、用心しないといけないわ」
「それにしても、ママの着物姿は色気があっていいな」
「佐さんったら。歯の浮くようなこと言って、何か企んでいるんじゃない?」
「分かるかい。俺の企みが」
「いいえ、分かりません!」
顔を赤らめ、後れ毛に指を這わす。すると、その様を覗て舌舐めずりする。
「ううん、たまらねえな。ママの恥らう仕草といい、俯いた時のうなじの後れ毛の感じがよ。雌のアゲハチョウが雄を誘き寄せるような、フェロモンを撒き散らしているんだから。なあ、ママ。今晩付き合ってくれねえか。もう、我慢できねえや」
「あら、何ていうこと言うの。随分大胆ね。それって、私を誘惑しているの?」
「まあ、そういうことになるな」
「そうね、今日は他にお客もいないし、佐さんとは久しぶりだから付き合っちゃおうかな?」
「嬉しいね。そう言ってくれると。俺も頑張っちゃうぜ」
「あら、佐さん。何を頑張るの?」
上気する瞳に、遊び言葉で誘う。
「決まっているだろ、貴子ママとマッチプレーだよ。四角いマットの上で、腕を掛け合い激しく戦う。そうさ、試合開始のゴングが高らかに打たれる。互いに汗をかき投げ技で倒し、時には寝技へと持ち込む。どうだいママ、エキサイトしてくるだろ。そうだ、反則はなしだぞ。ママは時々逆手を使うからな」
「あら、反則するのは佐さんの方でしょ。だって、一番弱いところを責めてくるんだもの…」
「ちょっと待て。君だってそうだろ。あそこをぎゅっと握られたら、男と言うものは力がでなくなるんだ。それこそ大反則じゃないか!」
「まあ、あからさまに。そんなこと言って、恥ずかしいじゃない。何だか変な気分になってきちゃった。少し早いけど、お店閉めちゃおうかな。ねえ、佐さん」
甘ったるい声で鼻を鳴らした。
「そうだね。それなら、これからスタミナつけにいくか。やはり勝負するには体力がいる。美味いもの食って、美味い酒を飲んで臨まないとよ」
「そうね、そうしましょ。どこか素敵なお店へ連れていてくれるんでしょ?」
「任せとけ。君が気に入る店へ案内するから」
「そうと決まれば、もう店仕舞い!」
貴子は期待するように、表の暖簾を仕舞い入口に鍵をかけた。店内の明かりを落としたところで、カウンター前の椅子に並んで座る。佐久間に寄り添い目を閉じた。佐久間にしても気持ちは同じだ。暫らく深い口づけをした後、向き合う。
「さあ、勝負しに行こう」
「ええ…」
「その前に、美味いもん食わなきゃな」
「早く行きたいわ。素敵なところに連れて行ってね」
「分かったよ」
出掛ける合図に、再び軽くキスをする。
「それじゃ行くか。今日の勝負、絶対に負けねえぞ!」
「言ったわね。その言葉、そっくり返してあげる!」
「それじゃ、本気だしちゃうぞ。そうだその前に、たっぷりスタミナつけなきゃ。ママの奇襲にあったら、持ち応えられんからな」
「自信ありそうね。私だって、そう容易く負けないわよ、覚悟してらっしゃい!」
ジャブの視線を投げ合うと、益々上気する。佐久間が貴子の手をそっと握る。
「まあ…」
吐息が漏れた。欲しいと握り返す。
「さっ、行こうか…」
「ええ…」
「その前に…」
「…」
明かりの消えた店内で、縺れ合うシルエットが、差し込むネオンに浮かび上がり怪しく揺れていた。
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