二
何としても押し通す。これ以外に解決策はない。
固い決意でソファーに座り、院長と対峙する。受ける吉沢も、佐久間の凄まじい眼光にただならぬものを感じた。
黙ったまま向き合う。突如佐久間が「院長!」と声を荒げた。迎える吉沢の目が光る。
「何だ、佐久間君。…まあ、落ち着きたまえ」
きつい顔に似合わず、物柔らかく制した。佐久間の緊張が一瞬緩む。
「は、はい。只今戻りました!」
つんのめるような口調で返した。吉沢が応じる。
「それはご苦労だった。それで、どうなんだ。首尾の方は上手くいったのか?」
「ええ、まあ。じつは、植草宅へ行ったのですが…」
「ほう、それでどうなんだ」
「誰も居ませんでした。暫らく待ってもみたのですが、戻ってくる様子がありませんで。それに、郵便受けも零れ落ちるほど詰まっており、人のいる気配はありません。そこで、郵便受けの中身を調べたのですが、サラ金からの督促状やチラシ類が一杯詰まっておりました。じつはその中から、うちのオペ同意書の封書が見つかりまして。発送日も三ヶ月前の物で、数ある督促状も古いのから新しいものまでありました」
懸命に状況を説明していたが、吉沢が遮り声を荒げる。
「佐久間君、そんなことはどうでもよい。同意書の方はどうなったんだね!」
恫喝にも似た太い声である。佐久間の説明が止まる。
「申し訳ございません。手を尽くしたのですが、回収出来ませんでした。誠に申し訳ございません」
テーブルに両手をつき頭を下げた。すると激声が飛ぶ。
「だからどうだと聞いておる。君の言うことはそれだけか!」
「は、はい…」
「君、それじゃ何の解決策にもならんじゃないか。一体何しに行ってきたんだね。私は言ったはずだ。即刻、オペ同意書を取って来いとな。それを、子供の使いじゃあるまいし、誰も居ず回収出来なかったとは。どうするつもりだ、佐久間君!」
「は、はい。それで今ご説明しましたように、当方から発送されたオペ同意書在中の封書がありましたので、それを回収して参りました。これでございます」
鞄から取り出し、テーブルに置いた。
「君、そんなものを回収したって、どうなるんだ。何の解決にもならんじゃないか!」
「ええ、その通りでございます。ですが、これを回収することにより、うちで発送した証拠がなくなります」
「だから、どうだというんだ!」
痺れを切らし、烈火の如く怒鳴った。
「あの、私に考えがありまして。それをお話させて頂きたいのですが」
恐縮しつつ告げると、吉沢の濁声が響く。
「何だ、それだったら回りくどく、くだらん状況説明などせず、単刀直入に話したらいいだろう。わしも忙しいんだ。頼むぞ」
「お忙しいところ申し訳ございません。その考えます解決策でございますが。オペ同意書は植草が運び込まれ、執刀前に拇印を押した。と言うことにすれば解決するわけでして」
「ううん?何を寝とぼけたことを言っておる。奴が搬送された時には、すでに意識がなかったんだぞ!」
吉沢が言い分を貶すが、反発する。
「お言葉ですが、誰がそれを確認しましたか?」
「何を言う。搬送した救急隊員が知っているだろ!」
「その通りですか、搬送後は誰がその状態を認知しているのですか。誰もいません。唯一、私だけがその後の状況を知っているのです」
「いや、確かに。君しかおらんだった。まあ、君の緊急オペで命は取り止めたものの、今だに意識が回復しておらん。それに、一度たりとも見舞いに来た者もいない。そんな絵空事をよく言うな。馬鹿ばかしい!」
吐き捨て、呆れ顔で尋ねる。
「一体君は、何を考えているのかね」
佐久間が冷静に応じる。
「院長、聞いて頂きたい。彼が運び込まれた時、私しかいませんでした。緊急オペもほとんど私が行ないました。終盤になり、他の先生らが来ましたが、それまで私だけでした」
「うむ…」
吉沢の言葉が詰まる。
「そこなんです!」
佐久間が語気を強めた。そしてゆっくりと説く。
「運び込まれた後に意識が戻ったかどうかは、私しか知りません。実際に立ち会ったのですから間違いありません。その後一時的に意識が戻り、本人に拇印を押させました」
「な、なにを言う。そんなこと、無理ではないか。それに無謀すぎる!」
佐久間の目論みに唖然とし否定するが、構わず畳み掛ける。
「そのために、私は植草宅の郵便受けにある封書を回収してきたのです。従って、最初からオペ同意書はあったのです」
「何てことを言う。そんなことで解決できるのか…」
吉沢の目が空ろぐが、更に押す。
「はい、この方法しかございません。オペ同意を貰うための書類など、最初から送ってはおりません!」
「待、待て。親族はどうする。奴らが、そんな手術に同意していないと言ったらどうするんだ。それに、だから支払いを止めていると開き直ったら何とする…」
高飛車の姿勢が崩れ、視線が泳ぐ。
「はい、院長。もし親族らがクレームをつけてきたら、強気で通せばよいのです。オペ同意書を見せろと言うなら見せればいい。手術の経緯に疑問を呈したら、経過情況を説明すればすむ。よもや訴えると抜かしたら、受けて立つと毅然と向かえばいいのです」
吉沢とは逆に、語気が強くなっていた。
「君、そうは言うが。拇印は押せても、署名は本人でなければ出来んぞ」
「ええ、その通りです」
「それじゃ、どうにもならんではないか。…まさか、誰かに書かせるわけではあるまいな」
「勿論です、署名欄は空白にしておくのです。住所も同様です」
「佐久間君、それでは正式の同意書にはなるまい」
「その通りです。けれど、それでいいのです」
「それでは、第三者に対抗できんぞ。万が一親族の誰か、あるいは似非親族が現れたらどうする。正式なオペ同意書を取らずに手術したと、難癖をつけてきたら君どうするつもりだ!」
佐久間の熱弁に負けじと、息を吹き返した。
「そこですが、この拇印だけの同意書を見せるのです」
「何を言っておる。そんな不完全なものを見せたら、よけい相手を勢いづかせるだけじゃないか!」
そして、懐疑的な態度となる。
「それこそ、火に油を注ぐようなもんだ。そうは思わんか?」
拒絶する吉沢の目を直視する。
「いいえ、そうはなりません。我らの行いは人命を最大限尊重することです。瀕死状態の患者に、そんな事務的手続きで負担をかけてはならないのです。たとえ一時的にせよ意識が戻り、その時不完全ながらも拇印をとる。
それでいいではありませんか。彼はやっとの思いで押したのです。そんな署名等させるなど杓子定規なことをしていたら、助かるものも助からなくなります。一刻も早く手術を行うことが大事です。事務手続きなど二の次です。
まずは患者の命を救うことです。何がなんでも、我ら医師は緊急オペを優先させなねばならないのです。それが病院としての使命ではありませんか。幸い植草隆二は一命を取り止めました」
一挙に、真に迫り説得を続ける。
「あの時オペが遅れていたら、彼は助からなかったのではないでしょうか。その証として、同意書が不完全でも最大限努力した結果です。許される行為だと信じます。それ故、似非親族がそのことにクレームをつけたところで、社会通念上通るわけがありません。
何故なら、この植草隆二の交通事故は新聞や雑誌でも大きく取り上げられ、その功績が社会的に認知されているからです。それでも、今まで一度たりと連絡をしてきましたか。精算業務課の糸川君も、オペ代や入院治療費の請求業務に落ち度がないと言っています。それにも係わらず、一報も寄こさない。
それでは、いくら親族の者が苦情を言っても、充分に対抗できるのではないでしょうか。無論、似非親族であってもです」
佐久間は考え抜いた策を説いた。
「うむむ…」
吉沢は反論できず唸るだけだった。
そこで、もうひと押しする。
「対決といっても誠心誠意応対するのです。患者の命を救うためにとった処置であることをです。意識はまだ戻っていないが、何よりも大切なのは命を失わずにすんだということをです」
「き、君の言うことは分かるが。けど、それで親族らはともかく、社内規定上クリアーできるのか。それに全医連や中医協への提出書類が、それで通るのかね…?」
佐久間が身を乗り出す。
「そこで、院長にお力を借りたいのです」
「な、なんだ。わしの力など役に立たんぞ!」
慌てて否定する。そこを粘る
「いいえ、そんなことはありません。絶大なる院長の指導力を持ってすれば可能でございます」
「佐久間君、一体何だね…」止む無く聞き入る。
「まず社内的には精算業務課に対する説得です。但し、糸川課長には、まだこの解決方法を話しておりません」
「君、それで植草のオペ同意書は、先程取れなかったと言ったじゃないか」
「ええ、今はございません。そこで私が、これから同意書を渡すからと課長に連絡致します。後日その際に院長が同席しフォローして頂きたいのでず」
「な、なんと。そんなこと、このわしにやれというのか…」
「はい、このままではどうにもなりません。何としても今回の件は、この方法で解決しなければならず、他に良策がないのです。このまま同意書未添付で、期末決算を迎えてはなりません!」
「し、しかし、そうは言うが。この解決策ではいずれにしろオペ同意書が不完全ではないか…。それでは、うちの病院内はともかく、全医連や中医協への報告は、それではすまんぞ」
「ええ、心配されるのもご尤もです。でも今回の処置は、そのまま不完全な同意書でよいのです。それが真実だからです。植草隆二は命を取り止めたが、依然意識不明のままです。本人の意識が戻るか親族が現われた時点で、改めて正式な同意書を貰えばよいではありませんか」
すると、吉沢が曖昧に頷く。
「う、うん…」
構わず続ける。
「従って、不完全のまま関係団体に、期末決算書類に付し提出するのです。人命尊重の立場からこのようになったという、私の署名したカルテを添えてです」
佐久間の策は、外部への配慮にも及んでいた。
「なるほど。それなれば不完全であっても理屈が通るな。今回のことについては、君の取った行為が社会的美談として語られているんだ。全医連にしても、この功績はそう容易く覆すことなど出来ない。患者はまだ生きているからな」
吉沢の顔に安堵感が表れていた。そして、己に言い聞かせ同意を求める。
「そうだな、理論的にもまあ対抗できるんじゃないか。なあ、佐久間君」
「その通りでございます」
「そうかそうか。それなれば…」
顔が崩れた。そこで佐久間が告げる。
「それで、植草の同意書は明日までに揃えますので、その後糸川君と会いたいと思います。これでどうでしょうか?」
「うん、そうだな」
「この策さえ上手くいけば、院長に累が及ぶことはないと存じます!」
最終的な落としどころで、きっぱりと語気を強めた。
「本当かね」
「はい」
「似非親族からいちゃもんがついても、大丈夫ということだな。わしのところに火の粉が飛んで来んな」
保身を図るべく矛先を摘んだ。
「ええ、先程ご説明しました通り、毅然とした態度で応じれば、決して恐れることはありません。例えオペ同意書に不備があろうと、その根拠がしっかりしておれば、どこへ出ても世間が支持してくれます」
「何と言っても、病院の使命は人命尊重であって、事務的手続きではありません。患者の命を救うことこそ、第一義的に考えなければならないのです。その精神に則って、私も病院も、勿論院長も対処していることを主張するのです。後は弁護士を介在させることです。そして後は病院内で、どのような処理が出来るかにかかります」
ここで、吉沢を直視し駄目押しする。
「ですので、院長のお力が必要なのです。精算業務課で作成する不突合経過資料に記されるオペ同意書の在り方が、今説明しました通りの内容になっていなければ、解決したことにはなりません。明日までに同意書を用意しますので、糸川課長を同席させ説き伏せて頂きたいのです」
「うむ、なかなか難題だな…」
「院長、何としてもお力をお貸し下さい。これが出来ませんと、他に解決する方法がないのです。まさか、署名捺印したオペ同意書を作るわけにはいきません。苦し紛れにそんなことをして、親族に訴訟でも起こされたらどうにもなりません。私だけではなく、病院にも致命傷となり信用が失墜します。
それだけではすまず、医療業界全体の問題に発展しかねません。それこそ厚生労働省を巻き込んだ捏造疑惑といったことになるやもしれない。美談に隠れた医療業界の恥部として、国会で追及されることも有り得ます」
「おいおい、脅かすなよ」
躊躇するところを押す。
「いいえ、脅かしではありません。世論を舐めてかかってはならないのです。例え真実であっても美化された話に裏があるとなれば、その反動として猛烈に反撃してきます。それが世論であり、報道の力なのです。
そんなことになれば、行政とて院長や理事長の責任を問います。そのようなことを、私としては絶対にさせたくありません!」
吉沢に対する究極の殺し文句だった。
「確かに、君の言い分に一理ある。どうしたものか…」
吉沢の心が揺れていた。
だが…、このままでは解決出来ん。むしろ隠す方が不適切だ。また偽造は必ず後でばれる。それはわしにとって命取りになりかねない。と言うことは、糸川の考えではまずいということか。そこにわしが加担したとなれば…。
そう心中で憶測する。
「君の言うことは分かった。少し考えさせてくれんか。一晩じっくり、どう対処すればよいか考え明日一番で連絡する。ところで植草の拇印付き同意書は、君が用意するんだな」
「ええ、間違いなく」
「それと、わしに累が及ばぬように出来るな」
己の保身を図ると、佐久間が即座に応える。
「無論です」
「そうか。となると、後は糸川君のところだな。彼の課で作成している患者の経過書に、君が説明した書き換えが必要になるわけだ。しかし、彼のところでそんなことやるのか…」
難儀そうに眉間に皺を寄せた。
「院長、そこが肝心なところです。カルテは私の領域ですが、どうしても彼にはやって貰わなければなりません。そうでなければ、奴ら特に似非親族に対抗できる解決策にはならないのです!」
揺らぐ吉沢に、釘を刺した。そして、ゆっくりと話し出す。
「そこで、院長。糸川君に実行して貰うための証拠を用意してあります」
鞄から汚れた二通の封筒を取り出し、テーブルの上に置く。
「何だね、それは」
「これは、植草宅の郵便受から回収したものです。表面に請求書在中、裏に課名と担当者名があります。開封していませんが、手術や治療代の請求書です。両方ともです」
それを見て、吉沢が訝る。
「一体、どういうことだね」
「これは彼のところが、通り一遍の請求業務しかやってないことを示しています。それも二通発送しただけで、他に精々本籍へ送っているのみでしょう。ですからこれを逆手に、やらせればいいのです。私も彼から書面で提出を要請され、いろいろ忠告を貰いました。その時は、四方手を尽くしましたが儘ならず、院長にご相談申し上げたのでございます。
同意書がなければ、それは不備となり大変なことですし、オペを執行する際には、あってはならないことです。そう思い、いろいろ悩み考えました。当時のことを遡ってです。確かに、同意書の用意も頭をかすめましたが、私は医師です。今にも命の炎が消えかけている患者に対し、杓子定規にそのことを優先出来ますか?
私には、そんなことは出来ない。「何としても救わねば」と、全精力を傾け執刀しました。これまで行ってきた緊急オペもそうです。同意書は術後に、本人もしくは親族から貰いました。この植草だけです。こんなことになっているのは。だからと言って、今でもオペを優先したことは正しいと確信しております」
医師としての本分を力説した
「うむ、君の言う通りだ。院長である前に医者であるわしとて、同様に行動したと思う。分かった。とにかく、明日連絡するから待ってくれ!」
「分かりました。お待ちします。院長、本日はお忙しいところ有り難うございました。それでは失礼致します」
席を立ち会釈して、院長室を後にした。
うむ、これでいい!
抑えられていた笑みが、一挙に溢れた。
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