「あの…、院長に相談したいことがございまして。少々お時間を頂きたいのですが」

院長室にきて、秘書の田沢秋子に依頼する。

「院長はスケジュールが詰まっておりまして、今週はちょっと無理なんですが」

にべもなく断られる。

「そうですか。でも至急お話したいことがあって…。患者で植草隆二の件と、糸川が申しているとお伝え願えませんか?」

「あいにくスケジュールが一杯ですし、ご多忙中で何とも申し訳ないんですが、来週ではどうでしょうか?」

「そこを何とか、植草の件で至急ご相談したいとお伝え頂きたいのです」

「はあ、患者の件ですか。それなら、尚更来週にして貰いませんか。院長は忙しいんですよね」

面倒臭そうに告げた。その態度は院長秘書という傲慢さを漂わせ、精算業務課長という見下す物言いだった。そんな態度にカチンときたのか、高飛車に出る。

「田沢君、何を言っているんだ。僕が院長に急用があるんだ。取り次いでくれ!」

その態度に、益々見下す目線で告げる。

「そう言われても、スケジュールが詰まっていますから。難しいと思いますよ」

「構わん。糸川が来て植草隆二の件だと伝えたまえ!」

激しい口調に、田沢が折れる。

「分かりました。それじゃ伺ってきますから、ちょっと待って下さい」

さも億劫そうに、上目線で応じた。

普段、院長面会などの段取りは、彼女が全権を握っている。田沢の了解なしに会うことが出来ない。それを無視して、無理に会わせろと直談判した。田沢にしてみれば、不愉快極まりないことだ。各部長でさえ会うには、田沢の機嫌を取り頼み込む。それを高飛車に出られては、冷淡な言葉遣いになるのも当たり前だ。田沢にしてみれば、糸川の横暴さは今までにないことである。それでも強引に要求すると、仏帳面でしぶしぶ重い腰を上げた。投げやりな対応は、ぞんざいな仕草に出る。

何よ。課長ごときが、あの態度。私が駄目と言ったら駄目なんだから。まったくもう。

胸中で愚痴り、院長の個室へと向った。

緩慢にノックする。

「院長、田沢ですが」

「ああ」

「入っても宜しいでしょうか?」

「ああ」

気だるそうな返事が返ってきた。

「失礼致します!」

「何か用かね…」

「はい、今糸川課長が来て。院長に相談したいことがあると申しておりまして。先程らい院長は、ご気分が優れない様なのでお断りしたのですが」

「それでいい。少しばかり頭痛がして、人に会う気になれんで。君の方で適当に断ってくれたまえ」

「そうですよね。糸川課長ごときが、私の言うことを聞かず、強引に会わせろなんて言うんですのよ。まったく立場もわきまえず、困ったものですわ」

「…」

「院長、ご気分の優れないところ。余計なことをお尋ねし申し訳ございませんでした。けれど、課長の見幕すごかったんですよ。私のことを無視するように怒鳴るんですもの。私も院長の秘書として、そういう輩は許せませんわ」

「そうか…」

生返事するが、急に何か思い出したように顔を上げる。

「ううん?糸川とな!」

「ええ、糸川課長なんですのよ」

「ちょっと聞き漏らしていた。それで何の用だと言っているんだね!」

俄然、声が高ぶった。

「は、はい。何でも大した用事でないと思うんです。それなのに大袈裟な言い方で、植草とか言っていました」

「なに?植草…」

「ええ、どうせ糸川課長の課でミスでもして、それで困り果て謝ろうとしているんじゃないですか。そんなことでしたら、私の方で業務部長を通し出直して来いと断っておきますから」

当然というように応えた。

「田沢君、君の意見などどうでもよい。糸川君は植草と言ったんだな!」

ぬぼっとしていた顔が威厳の漂う表情になると、田沢に緊張が走る。が、それでも見下すように告げる。

「ええ、何かそんなことを怒鳴っていました。いえ、直ぐに断りますから」

すると、その意向を制止する。

「ちょっと待て。君が判断しなくてよい。それより、何でもっと簡潔に言わんのかね!」

「はあ、はい…」

「糸川君が私に相談したいというのは、植草のどんなことだね」

「そこまでは聞いておりません。ただ、至急院長に会わせろと怒鳴るばかりでして…」

「君、困るね。何で要件を詳しく聞かないんだ」

「はあ…」

「はあ、じゃないよ。君の判断で勝手に断っては困るぞ。直ぐに呼びなさい」

「ええ…。でも、先程断れとおっしゃったではありませんか」

「何を言っている。直ぐに呼ばんか!」

吉沢が一喝した。

事態が一変し、怒鳴られた田沢がぴんと姿勢を正す。

「申し訳ございません。直ぐに呼んで参ります」

顔面が蒼白になり、慌てて院長室を出て行った。

うむむ、植草隆二の件か…。何か不吉な予感がするぞ。田沢を怒鳴るほど相談したいというのは。これはこの前、説明しおった最悪のシナリオになってきたやも知れん…。

吉沢の澱んだ眼差しが、急に怯えるように放ち始めた。そして、その不安を避けようと愚痴り出す。

「ちえっ、佐久間がきちんと処理さえしておれば、何のことはなかったのに。もしかして、植草の親族が動き出したのか…。いや、そんなことがあってはならん」

慌て打ち消す。それでも怯えが纏わり付く。

うむ、これはまずいぞ。佐久間から病院へとターゲットを移したということじゃないか。と言うことは、わしを脅かす気だ。何たることだ。それこそ世間が騒ぎ出したら、ただではすまん。何とする。どう打開すればいい。

眼光が暗い闇へと向けられていた。落ち着こうと、ぐっと息を呑む。そこへ、扉がノックされる。

「院長、糸川課長をお連れしました」

先程とは打って変わり、甲高い声が響いた。一瞬、吉沢に緊張が走る。

「おお、入りたまえ!」

呼ぶ声に、威厳の微塵もなかった。

「失礼致します!」

糸川が現れ、軽く会釈をする。

「どうぞ、こちらへお座り下さい」田沢が誘導した。

「糸川君来たか。まあ、座りたまえ。何か相談したいことがあるようだが」吉沢がフェイントをかけた。

「はい」

「まあ、一服してから聞こうじゃないか」

空威光を誇示し、突っ立ている田沢に催促する。

「君、何をぼんやりしている。早くお茶を出さんか!」

慌てて応じる。

「は、はい。失礼致しました」

「それと、葉巻を持ってきてくれ!」

うろたえる田沢に、矢継ぎ早に要請した。直ぐにお茶と葉巻が用意され、テーブルに置くなり緊張した面持ちで下がった。

「まあ、糸川君。一本どうだ。この葉巻は『ホンジョラス産のタバカレラ』と言う珍しいものだ」

己の緊張を探られまいと勧めた。そう言われ、少々面食らう。

「はあ、恐縮です…」

遠慮がちに一本取った。

「ところで植草の件で、話したいことがあるとのことだが何かね?」

「はい、院長。ことが重大なもの故、一刻も早くお耳に入れた方が宜しいかと。連絡もせずお伺いし恐縮です」

「まあいい。ところで」

動揺する気持ちを抑え、表面上は平常さを装い尋ねる。

「この前、君からいろいろ聞いているが、何か動きでもあったのか?」

返事が気になり、葉巻に火を点ける余裕がなかった。話の内容次第では、暢気に燻らし聞く状況ではない。故に持ったまま聞き耳気を立て、全神経を傾けた。そんな緊張する様を目ざとく覗い、糸川がおもむろに話し出す。

「…と、申しますのも。先日、あれから自席へ戻りまして、今までの経緯、論点それにこれからどのような展開になるかを整理してみました」

「うむ、それでどうなんだ」

「は、はい。それで考えられることは、三つほどありまして」

「な、なにっ。三つもあるのか。…して、どんなものか話してみたまえ!」

いよいよ来たかと吉沢が身構えた。そこを突く。

「ええ、まず一点目に。親族から今まで未納になっている代金が支払われる」

「何、金が払われる。それはどういうことか。それと、今問題になっているオペ同意書と、どういう関係があるんだね?」

「院長、待って下さい。まずは、三つのパターンを先にお話し、その後仔細を説明しますから」

「おお、そうか。それは悪かった。どうも年を取るとせっかちになっていかん」

「はい、院長。ここのところは、じっくり考え対応策を立てませんと。それこそ病院全体の問題に発展しかねませんので」

「分かっている。それで、次は何だ」

「第二点として、佐久間先生がオペ同意書を回収してくる。こうなれば問題は解決したも同然です」

「そうだな」

「それと、次に考えられますのは、当院にとって由々しき問題なのですが、親族が現れオペ同意書にサインを拒むことです。ただ、この場合拒否する理由が何であるかが問題になります。第一に、佐久間先生の説明不足による強引さが不信感を呼ぶ」

「うむ…」

糸川の説明に不安気に頷くが、構わず続ける。

「次に、考えられるのは。拒むというより、オペ同意書が親族の下に届いていないということ。もう一つは、これが厄介なのですが、この機会を捉えて当病院を強請ってくることです。まさしく、親族による恐喝となります」

聞く眼が頻りに瞬きし、怯えと言う影を帯びてくる。

「それなどは、うちに落ち度がなければ、毅然とした態度で臨めば一時的な騒ぎで終息します」

院長の様子を覗うべく、少し間を置く。

「ただ、ここが問題なんですが。院長、先程のご質問にお答えしますと…」

「ううん、何だ」

窺う目が真剣だった。強張る表情で聞き耳を立てた。そんな様子に、糸川は内心ほくそえむ。

この調子だ。このまま追い込めば、術中に嵌まってくる。そして練った策略に、迷い込んできたことを確信しながら続ける。

「これらの問題も。とにかく親族から、いくらかでも振り込まれていれば一挙にとは行きませんが、ある程度解決したも同然です。何せ、法的にはオペを容認したことになるからです」

「成る程、そうだな。それはこの前聞いていたな」

少しばかり安心する口調になる。

「はい。ただ、これは見込みとして、期待度が低いと考えられます。と申しますのは、支払いの催促は、私どもでそれなりに手を尽くしております。植草の自宅、本籍等連絡取れるところはすべて手を打ちました。結果、今だ入金になっておりません」

「そうか、それは駄目だな…」

吉沢の顔に落胆色が浮かぶ。

「それで、次の推測ですが」

「おお、そうだ!」

望みを託すように身を乗り出す。

「こちらの方も、まあ、佐久間先生には悪いんですが。まずは無理でしょう。医療業務は長けているが、同意書の回収となるとずぶの素人です。ただ、院長の一喝で焦って貰いに行っているようですが、回収できませんね」

すると、吉沢が残念そうに漏らす。

「確かにな…。佐久間君では無理かもしれん。ただ、そうも言ってられんぞ。彼の責任でやってもらわにゃならんのだ」

ここぞと糸川が押す。

「おっしゃる通りです。しかし、そんな甘いことを言っていては示しがつきません。特に院内では特別待遇になっていますので。他の先生方からみれば、許されることではございません」

「そうだが…」

「それに」

今度は糸川が身体を乗り出し、声を落とす。

「もし、佐久間先生が回収できなかったら、どうなされるおつもりですか。私共としては、この期末決算を迎えるに当たり、植草隆二についてはオペ同意書不添付として提出せざろうえません。

もし、それを病院が認めるとなれば、医療監査法人に指摘されます。そうなりますと、それを承知で決算を迎える…。私共としては容認致しかねます。と言うのも、先日お話しましたように、今までかかっている医療費が、手術代を含め総額で三百六十万円にもなっており、巨額な未払患者であることも大きな問題だからです。それでも宜しいのですか?」

脅かしにたじろぐ。

「医療監査法人に指摘される?そ、それは困る。そんなことは絶対ならんぞ。このままそんな巨額未払患者のオペ同意書がなく決算を迎えれば、更に大きな問題を抱えることになり、強いては病院の経営責任に発展するではないか!」

「その通りです」

「おいおい、その通りはいいが。それでは、このわしが困る。病院経営の問題となれば、わしの責任になってしまう。これは、何としたものか…」

苦虫を噛み潰す。

「き、きみ、何とかならんのか…」

絞り出し頼った。じっと直視する糸川が、更に難題を吹きかける。

「院長、それにもう一つ厄介な問題があります」

「なにっ、まだあるのか!」

一層、困惑する表情に変わる。

「ええ、先日お話したか定かではございませんが、親族によるクレームです」

「何だ、そのクレームとは!」

「はい、綺麗な言葉で言えばそのようになりますが。汚く申せば強請です。正当な論拠に基づく恐喝行為とでもいいましょうか。これが三番目に推測されるものです。これはたちが悪い。こちらに非があり、謝ってすむものではありません。究極の目的が違うからです」

ゆっくりと窮地に追い込み、陥れていった。それも糸川らの筋書き通りに。

「その根本的原因に、オペ同意書がなく手術を行ったという事実です。経緯からみれば許容範囲内として正当化できます。救急患者の命を救う。医療業務の使命から反論すれば、社会的に支持されるでしょう。但し、止む無く事後であっても、親族もしくは本人に快諾され同意書に署名捺印されていればの話です」

「確かにその通りだが…」

顔を歪める吉沢に、畳み掛ける。

「今回のように、当初は新聞が取り上げ絶賛し、更に週刊誌が賞賛した。それにより人命救助に対する社会的評価も受けた。だが、それが永遠に続くとは限りません」

「報道は次なるターゲットを捜し求めています。良き事も悪しき事をもです。そのことから言えば、オペから三ヶ月以上経っても、同意書がないということになれば、人命救助だけではすまないでしょう。ましてや、今だ意識不明の状態であるなら、言い訳としか世間は見ないと思われます。時間が経てば、社会的評価など過去に追いやられ、現状を非難の的にする環境が生まれるのです」

糸川は一挙に続けた。すでに説明領域を越え、脅かしの何ものでもない。聞き入る吉沢は言葉に詰まった。それでも辛うじて絞り出す。

「それで…」

垣間見る糸川の目が光る。

「そこに親族もしくは似非親族から、その点を突かれたら何としますか!」

「なに、似非親族。うむ…、これは難しい」

「そうでしょう、院長。マスコミに公開すると脅迫されたらどうなされますか?」

「おいおい、糸川君。脅かすなよ」

「いいえ、脅かしではありません。奴らは綿密に計画を立て仕掛けてきます。ですから我らとしても、しっかりと対策を立て対処しなければならないのです」

「確かに君の言う通りだ。浮き足たって臨んだじゃ、足元をすくわれかねないからな。糸川君、何か妙案があるのかね?」

「はい、院長。他言は無用ということで、ここだけの話として頂けますでしょうか?と申しますのも、本来であれば上司に相談し、それから院長へと通さなければならないのですが、それをこうして直接お伺いしておりますので、このことが部長の耳に入りますと私の立場がなくなります」

みえみえの方便を吐くが、吉沢にはまともに聞こえる。

「何を言う。そんな悠長なこと言ってられるか。業務部長にはわしが伝えておく。君は何も心配せんでよい。私に任せなさい」

「有り難うございます。そのように頼もしいお言葉、痛み入ります。それでは他言なき、院長と私目だけのことと」

「おお、分かった。そうする。それでどうなんだ!」

吉沢にとって、体裁などどうでもいい、急ぎ次を聞きたかった。

「はい、幸いと言ってはなんですが、植草隆二は今だ意識が戻っておりません。ここがポイントです」

「どう言うことだ。それが奴らから狙われることじゃないのか。それがどうして、我らにとって有利なんだ!」

「そうなんです。これまでの経緯をよくお考え下さい。彼が運び込まれてから現状までを…」

「何だか分からんな…」

「それではご説明致しましょう。佐久間医師のとった処置は適切であったことは言うまでもありません。ただ、植草が運ばれてきた時は生死をさ迷っていた。すでに意識はなかったようにカルテには記されています。多分、時間を争う事態であったのでしょう。そこで医師の立場から緊急オペを行った」

「その通りだが。それがどうしたんだ」

「はい、そこです。彼は現在も意識不明です、己の生死が分からないのです。今がそうであるように、これからも変わらないでしょう。このことは、院長もご理解頂けるのではないでしょうか?」

「確かに専門的立場からみても、おそらく九分九厘、君の言う通りだろう。だがな糸川君、残りの一厘が分からない。人間の生命力には奇跡というものがある。その残りの一厘の可能性の中から蘇生することもあるのだ。医師というのは、その可能性を追求し、医療活動に励んでいるのだからな。

しかし、患者の事故当時の外傷や脳の損傷状況からみて、たとえ意識が戻っても、正常に機能するのは難しい。見ること話すこと、それに身体を動かすことは勿論歩行さえ困難になり、このベッドから降りることは不可能に近い。要するに寝たっきりで、動くことすらままならないだろうし、その意思だって持ち合わせているか分からん」

「そうですか。専門的なことは分かりませんが、現状の難題を解決するための案は持っております」

「おお、そうだ。それが知りたいんだ!」

我に返り目を光らせるが、直ぐに曇る。

「余計な話しになってしまったな。それどころではない。患者のこれからについて推測したところで、解決のヒントにはなるまい。だいたい植草の今後のことと関係なかろう」

「いいえ、そのようなことはございません。先に推測を話しましたが、多分親族からオペ同意書を回収するのは難しいでしょう。まず、自宅住所に行っても誰にも会えないと思われます。それ故、結局は院長に泣きが入るのは必定です」

「それなら、どうするんだ。佐久間君に何と言ったら、この問題が解決する。回収できなければ、どうにもならんじゃないか。それでは、その似非親族に対抗できまい」

「その通りです。私がこれから申すことは、決してよいことではありませんが、このまま未解決状態で決算を迎えることは、絶対に許されないはずです」

「決まっているじゃないか。そんなことは、さっきそう言っただろ。もし、そうなれば、わしの責任になってしまう」

「そうですよね。そうなっては、院長としてもたまりませんね。何で佐久間先生の尻拭いをせにゃならんと思われますよね」

「ああ、まったくだ。何でこのわしが責任をとらにゃならん。佐久間君がしっかりしてさえいれば、こんな問題は起きなかった」

完全に糸川の策略に嵌まった。更に落とし込む。

「そこです。よくお考え下さい。植草が運ばれてきた時のことを」

「それは前に聞いた。それがどうした。さっきから君はそればかり言っておるが、一体どんな解決策になるんだ!」

「院長、この際佐久間先生に責任を取らせてはどうですか。端的に言わせて頂きますと、オペ同意書に植草隆二のサインを貰うのです」

「な、なにを言う。奴は意識がないんだ。そんなことは出来んだろうが!」

唖然とし反発する。動揺する吉沢を横目に、平然と成り行きを視つつ、胸の内で呟く。

思った通りの展開になってきたぞ。これでいい、これで…。

そして、おもむろに応じる。

「そうですね。その辺は医療業務上専門となりますので分かりません。可能かどうかは、執刀された佐久間先生に判断して頂けば宜しいのです」

ここぞとばかりに、語気を強める。

「院長!」

「うむむ、き、きみ。何ということを。彼にそれを強要しろと言うのかね…」

眉間に皺を寄せる吉沢に、なおも畳み掛ける。

「いいんですか、院長。このまま行けば、まもなく期末決算を迎えます。そのための資料提出期限が迫っているのです。あえてオペ同意書のないまま、巨額の未入金を抱えた患者の不突合勘定を計上させるおつもりですか。それで宜しいんですか?」

そして、殺し文句を告げる。

「それに似非親族から、ここを突かれたらどうなされるのですか。オペ同意書という対抗策が必要なはずです!」

「うむむ…」

あまりの奇策に、絶句したまま吉沢は目を白黒させていた。更に追い討ちをかける。

「このままいけば、私どもの課では計上せざろう得ません。未記載のまま決算を迎えるわけには行かないのです。そうなった場合、この辺は院長ご勘弁下さい。さもないと、今度私が責任を問われますから」

「だがな…。サインをさせるというのは、倫理上抵抗があるな。でも、佐久間君には責任を取ってもらわにゃならんし…」

言い回しが、明らかに動揺していた。

「このままですと、いずれ当院の問題として表面化します。それこそマスコミは、こぞって書き立てるでしょう。そうなったら、院長が責任を負うのですか。それだけですみますか。理事長はどうなさるのです。無傷でいられるとお考えですか?」

究極を攻めた。

「うっ、うむむ…。そんなことになったら、わしはどうにもならん。理事長とてずさん経営ということでマスコミに叩かれ、強いては責任を取らざろう得なくなる」

「その通りです。期末決算を迎え、似非親族の攻撃を握り潰せますか?院長の力で、脅かしを阻止出来ますか。仮に院長が矢面に立った時、何をもって対抗するのですか。散々持ち上げてきたマスコミが、奴らについたら何としますか!」

糸川は落としどころを探っていた。

「院長、これは単なる医師の不始末で片づけられる問題ではありません。機関銃を持つ相手に、素手で立ち向かうようなものです。勝ち目はありません。たとえ裁判で争っても勝負にならないでしょう。ともすればマスコミの餌食になります。それも三流雑誌の」

「君、そんな厳しいこと言うなよ…」

明らかに困惑していた。そこを突く。

「いいえ、院長のために、どうしたら最善の方法かを熟慮のうえ、あえて厳しいことを申しているのです。私は何としても穏便にすませたい。奴らを弾き飛ばしてでも、この決算を無事乗り越えたいと考えているだけです」

「君はそこまで考えているのか…」

毅然とした態度で説く糸川に、吉沢は感極まったのか手を取り握り締めた。胸中で歓喜する。

完全に信用し、すがってきている。

勝った!

そう思った。

これでいい。よし、もうひと押しだ!

心の中で叫んた。ひと呼吸し迫る。

「いいえ、院長。これで済んだわけではありません。ことはこれからです。どのように佐久間先生に実行して貰うか。それを考えなければなりません」

「そうか、そうだったな」

頷き、更に強く握り締めた。頼る吉沢の温もりが伝わって来る。

描いたシナリオへ完全に乗った。これで俺の言いなりだ。

ほくそえみ、心内で叫ぶ。

さあ、仕上げといくか!

そんな思惑で、吉沢の手を握り返した。

「有り難う。君には感謝するよ」吉沢が目をしばつかせる。

「院長、それではおさらいします。宜しいですか?」

「ああ、言う通りにする」

「そうですか。それであれば間違いなく、この難局を乗り切ることが出来ます」

「そうかね、そうなれば有り難い」

「いいですか。オペ同意書の未回収については、これなしでは決算を乗り切れません。そこで佐久間先生には、どんな形であれ責任を取って貰うのです。未徴求であれば、マスコミにどれだけ釈明しても、言い訳と捉えられ解決しないのです。

そのことを充分言い含めて下さい。幸い緊急オペからずっと担当されています。どんな形であれ、徴求したオペ同意書を、私どもで作る書類に添付さえすればよいのです。提出された同意書の鑑定など、我らの範疇ではありません。

佐久間先生には、先日提出期限を記した書面を渡してあります。この期日までに揃えられればよいのです」

「うん…」

言われるままに頷いた。その目は己の責任を回避すべく真剣だった。それこそ、催眠術にかかる面持ちになる。

糸川がゆっくりと話を終える。

「院長、宜しいでしょうか」

「おお…」

「とにかく当院の命運がかかっております。こんなことで信用が傷つき、院長への責任問題、強いては理事長に対する追及が起きてはなりせん。ここは、そうならないように万全の策を講じなければならないのです。悪質な似非親族の脅かしにあっても、今まで植草の病状経過など分かっていません。もし、調べられても担当医は佐久間先生ですので、充分対抗できるでしょう。但し、くどくなりますが、前提としてオペ同意書があってこそ戦えるのです。院長、お解り頂けましたでしょうか?」

念を押した。吉沢の眼が、完全に虜になっていた。

「ああ、分かった。佐久間君には責任もって処理させよう」

「そうして下さい。さすれば院長へは、火の粉など飛んでこないと存じます」

「そうか、糸川君。よもやわしの責任にはならんな」

「そのように確信しております。たとえ万が一、院長に降りかかっても自信を持って立ち向かえばよいのです。大怪我して運び込まれた急患は、人命救助が第一です。意識のあるうちオペ同意書に署名を貰っている。勿論、時間をかけ詳しく説明している猶予はなかった。とにかく人命を救うことが先だった。

従って、それでオペを行った。幸い命は取り止めた。我々の行いが正しいと確信している。同意書の必要事項の説明は、本人が意識を回復した時か、もしくは親族が来院された時、誠心誠意対応し同意を得よう。これは当院の人命尊重という精神に則っている。

植草隆二君だけが患者ではない。日夜運び込まれる急患を、このように人命最優先を持って対処するなか、オペ終了後親族から頂くこともある。通常、オペ中に来院される場合がほとんどだ。放っておく親族などいない。だが、残念なことに植草君の場合はなしのつぶてだった。我々からの通知の他に、あまた報道でも知らされているはず。それでも、誰も来てはいない」

更に、決定的な落とし文句を告げる。

「報道を逆利用するのです。奴らが騒ぎ立てマスコミが踊ったら、それに乗じて人命尊重が、我が病院の根本精神であることを、このことで実証させるのです。今度は間違いなく、院長先生の名声が轟くことになるでしょう」

泡を飛ばす雄弁だった。吉沢は感服し酔う心持ちで頷く。

「そうだな、糸川君。君の言う通りだ」

安堵したのか表情が明るくなっていた。

「院長、何としても佐久間先生には言い含めて下さい。それが失敗すれば、すべて水の泡と帰しますからね」

「ああ、分かった。回収出来ず戻ったら、必ず同意書を作らせよう。出来たら直ぐ連絡するよ」

「あいや、ちょっと待って下さい。私に連絡されては困ります。佐久間先生が直接私共に届けさせるようにして頂けませんか。そうしないと不審に思われます。間違っても、今回の秘策が気づかれてはならないのです。あくまでも院長と私の密約ですから」

「そうだった。深く考えもせず悪かった。君の言う通りにする」

頭を掻き詫びた。

「院長、以上のようにります。お忙しいところ、貴重なお時間を割いて頂き有り難うございました」

「なんの、礼を言うのは私の方だ。いろいろ知恵を授けて貰った。感謝しているよ」

「いいえ、とんでもございません。私のような能無しが考えることですから、大した提案はできませんが、この度のことは無い知恵を絞り熟慮したつもりです。これも我が病院を思えばこそでございますし、無事に期末決算を迎えられれば幸いと存じます。

その重要な鍵となりますのが、院長のお役目でございますので、何卒首尾よく成就頂けますよう願っております。本来であれば、私ごときが、偉大な院長先生にご進言するものではございませんが、あえて遂行させて頂きますのは、すべて当病院のためでございます。速やかにご実行下さいますよう重ねてお願い申し上げます」

ここでテーブルに両手を着き、神妙な面持ちで深々と頭を下げた。

勿論、策略上のパホーマンスである。そんな仕草も、吉沢には真剣に視えた。

「何を言う。君の助言がなければ、この先どうなっていたか。考えただけで、とんだ失態に繋がるところだった。それを救ってくれたようなものだ。」

「とんでもございません。一介の平課長が出過ぎたまねをしまして、さぞや不愉快な思いをされているのではと恥じております。しかし、ことは急を要する故、直接お話をさせて頂きました」

「なあに、そんなこと気にするな。そんな筋などどうでもよい。杓子定規なことをしたら、思惑が入り尾ひれがついて真の解決策が伝わってこん。そんな生温い状況にはない。もし後手に廻れば、それこそ取り返しのつかぬことになるやも知れんのだ。そうだろ、糸川君!」

「は、はい。そう仰って頂けるなら、直接進言させてい頂いた甲斐があります。たとえ後日、咎められても構いません。ただ…」

「何だね、『ただ…』とは?」

「院長。この問題は決着したわけではございません。これから対処しなければならないことですので、お気持ちをお緩めにならぬようお願いしたいのでございます」

「分かっておる。これからが本番だ。君の提案を確実に実行してみせる。これだけ世話になったんだ。病院のためにも、また理事長に迷惑が及ばぬように頑張るつもりだ。糸川君、見ていてくれたまえ!」

全幅の信頼を表すが如く、力強く告げた。

「はい、生意気なことを申し上げ、誠に恐縮しております」

「何を言う!」

「院長、私も影ながら応援させて頂きます」

「頼むぞ!」

「はい、それでは長居を致しました。これにて失礼します」

頭を下げ、席を立つ。すると吉沢も立ち上がり手を取る。

「これからも宜しく頼むぞ。なあ、糸川君」

「分かりました!」

すると吉沢の目尻に、薄らと涙が滲む。

「それに、君はわしの懐刀だ」

「有り難うございます」

心内の思惑とは裏腹に手を握り返し、院長室を後にした。糸川は武者震いがするほど気持ちが高ぶっていた。これほど扇動できるとは思わなかった。それにしてもと思うと、顔が緩んた。自席へ戻っても、その状態は変らなかった。

すると、玉山や近藤らが様子を窺い解せない顔をする。ただ、佳織だけはその様子から、首尾よく行ったことを感じた。佳織が用足しとでもいうように席を立つ。トイレで糸川にメールを入れる。

「首尾はどうなの?今夜どうかしら。会って経過を聞きたいわ」

それだけ発信する。席へ戻ると糸川の姿がなく、その代わり返信が入っていた。

「いい提案じゃないか。待ち合わせは何時もの時間で、何時ものところ。大成功だった。成果を報告しなくっちゃな。それに戦勝祝いをする」

佳織はにんまりし、携帯電話を閉じた。程なくして糸川が何気ない顔で戻り、席に着くなり呟く。

「さてっ、今日は定時で帰ろうかな」

課員全員に聞こえるよう嘯いた、すると玉山が近寄る。

「課長、ご機嫌ですね。余程いいことがあったみたいですね?」

手もみしながら尋ねた。

「まあ…。いや、特に何もない。今まで院長に呼ばれていろいろ話をしてきたが、皆が頑張っているんで我が課の業績が良くなったと褒められたよ」

「そうですか、それは嬉しいな。私たちも決算を控えて頑張った甲斐がありますよ。それなら、課長。早めの忘年会も兼ねて今晩皆で一杯やりませんか。なあ、近藤君。たまには課長を囲んでやるのもいいよな」

多恵を誘う。

「そうね、たまにはいいわね」

期待を込める。すると恵理子からも賛同の声が上がる。

「課長さん、この前は駄目だったので、今度は行きましょうよ。ほら、どうですか。皆も望んでいるし、ご都合はいかがですか?」

糸川が慌て断る。

「あいや、待ってくれ。分かるだろ、先約が入っていてね。院長に誘われたんで、断るわけにはいかんでな。玉山君、せっかく誘ってくれるのは有り難いが、今日はそんなことで駄目だ。悪いな、今度にしよう」

「そうですか、それは仕方ないです。院長のお誘いじゃ断れませんからね。それじゃ、またにしましょう」

思惑が外れ、すごすごと戻った。内心ほっとする。

今しがた佳織から誘いを受けたばかりだ。院長の誘いと偽ったが、こんな大事なことを袖にすわけにはいかねえ。それにしても、たまには玉山や近藤らの相手をしてやらねばな。そう言えば、この前も断ったしよ。変なところで勘ぐられてもつまらんし、今度こそは多恵の尻でも思いっきり撫でてやるか。

ああ、それにしても、こんなに旨く行くとは筋書き以上の成果だぞ。院長も言い成りだ。それに俺のこと、「わしの懐刀だ」と持ち上げ手まで握ってよ。あの頼る態度、これで思惑通りに運ぶというもんだ。

そうだ、今日の晩飯は交際費を使って、ぱっとやるか。そうでもしなけりゃ、自腹が増えてたまらねえ。そのくらいしたって、文句は言われまい。院長の危機を救うんだからよ。

それに、どうせ俺なんか頑張ったところで、三流高校卒じゃ精々課長が限度だ。それ以上の出世なんぞ望めねえ。院長や佐久間らは一流大学を出て、院内派閥が出来ている。そんなの糞くらえだ。どうせ先なんぞねえ俺だ。だから今の地位を利用し、精々いい思いをさせて貰いますよ。それにしても、今晩はどんな体位で悦ばせるかな…。

秘技を思い巡らしパソコンに向うが、指先が一向に動く気配がない。それどころか、時々薄笑いを浮かべては視点が定まらず、にたつく表情だけは忙しくなっていた。







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