第四章追い討ち一
自席に戻り、椅子に深々と腰掛けた。
課員らも課長の様子を覗い、一様に安堵の色を浮かべる。院長に呼び出されてから、小一時間が過ぎていた。その間、何があったのかと仕事が手につかぬ者もいたが、多少疲れ気味の様子だが、柔和な顔を見れば結果が良かったように察した。
牛島がお茶を入れ、席へ持ってゆく。
「どうぞ、熱いお茶入れました」
「おお、有り難う。嬉しいね」
言いつつ、一口すする。
「美味い。大仕事をした後のこの一杯、じつに美味い!」
ウインクする佳織に礼を言う。尻を揺すり戻る様を見ながら、笑みを浮かべていた。そして、デスクに向う視線が、直ぐに厳しいものになる。勿論、仕事にではない。院長とのやり取りである。
急な呼び出しに当初は面食らったが、吉沢の意図を知ったことで、この機会を狡賢く利用しようと企む。
この期末決算に乗じて、己らの失態を隠すというか、都合よく作り直せば乗り切れることが現実的となった。さすれば俺の悪さなど、とんと隠れてしまうわ。
そう思うと、安堵する気持ちが湧いてくる。それに、佐久間に先を越されたことも、帳消しにできたと満足していた。
さもあろう。今回は旨く行ったが、一歩間違えれば確実に責任を追及される羽目になったはずだ。それが、ひょんな流れから阻止でき、乗じて焚きつけ信頼まで勝ち取った。これこそ佐久間問題が、俺の秘め事を霧中に押し込んだようなものだ。何せ、額が額だからな…。
薄すら笑いを浮かべる。
しかし、ついているな。とにかく旨くいったんだ。このチャンスを生かすには、改めて今までの経緯と合わせ、秘策を練り直しておく必要があろう。
頬杖を付き、茶をすすりながら胸の内で呟く。
佐久間は、必ず院長にまた泣きつくだろう。ここのところは大いに考え、今度は遅れず先制攻撃を加える。それで、無事決算を通過させ先送りすると同時に、この際植草の件は全面的に奴におっ被せてしまうか。先程の院長の様子から見ても、旨く運べそうだ…。
パソコンに向かい、このことで頭が一杯だった。そして、院長を落とし込めたことに自信を深める。
そうだろう、佐久間が訪問したところで同意書など取れず、また額をテーブルに擦り付け院長に泣きつくに決まっている。そうなる前に、奴の外堀を埋めておこう。うんにゃ、そうとなれば。のんびりやってられない。早々に打つ手を絞り出さんといかん。
そうだ、この際。俺だけで考えることもあるまい。佳織にも知恵を絞らせよう。さすれば妙案が浮かぶかもしれん。時間がないから、今晩にでも打ち合わせようか。
益々頭に乗る。
せっかくだ。飯でも食い肌を擦り合わせひいひい言いながら、共に考えるのも悪くないな。
そう思うと、自然に下半身がこそばゆくなってきた。ぐっと堪え、ひと呼吸し呼ぶ。
「佳織君、来てくれんか。植草の件で、報告しておきたいことがあるんだ!」
全員に聞こえるよう告げた。皆が院長に呼ばれた要件が何であるか聞き耳を立てており、糸川が発した言葉に、注意が集中する。糸川にしても、そのように仕向けるべく声をかけたのだ。そして、 大袈裟に尋ねる。
「いや、急に院長の呼び出しコールだ。俺も何のことやらと思ったが、案の定植草隆二の同意書の件だった。前後策を練っておいてよかったよ。それで佳織君、ちょっと時間があるか。決算資料の提出期限も迫っているし、直ぐに対策を練らなきゃならない。これから経緯を説明したいんだが大丈夫かね?」
心得ているのか返事を返す。
「ええ、結構ですが」
「そうか、それなら会議室で仔細を説明するから、君なりに妙案を出して欲しい」
「分かりました。あの、資料の方は?」
「ああ、植草のを用意してくれ。院長の要件も、それに絞られているからな。時間がないんで直ぐにやろうか」
「はい、承知しました」
二人は席を立ち会議室へと消えた。送り出す課員の要らぬ好奇心の目はなく、期待する視線に変っていた。但し、俯く時田恵理子を除いてである。
早々会議室で打ち合わせが始まる。
「課長、どうなんですか。院長はどんなことをおっしゃっていらしたんですか?」
「おお、それだが。いろいろ質問を浴びせてきたが、結局は植草のことが知りたいんだ。と言うのも、我々が手を打つ前に佐久間が泣きついたみたいだ。それで急遽、俺を呼んだ。と言うのも、俺らが佐久間のところへ行き、オペ同意書の提出を期限付きで要請しただろ。ところが奴にしてみれば、安易に考えていた節があり、いろいろ仮説を立て脅かしたもんだから、実際には多田に任せっきりでは上手くいかない。本人はどう対処してよいか分からず、解決する糸口が見つからぬまま時間が過ぎ焦り出し、挙句の果て院長に泣きついたというわけだ」
佳織が頷く。
「そうですか。それなら課長と練った策通りに進んでいますね。けれど、少し油断していたかもしれない。院長に工作する前に掛け込まれたんですから」
「おお、そうなんだ。危ないところだったが、その辺は奴を脅かした手口で、巧妙に院長を唆してきたよ。効果覿面だった。佐久間一個人の問題ではなく、病院全体の事件に発展しかねないとな。顔色が変わったぞ。それでこの機会を利用しない手はないと咄嗟に判断し、そこいら辺を強調し脅かしたんだ」
得意気に締め括る。
「これで、うちが抱えている問題など、霞の中に飛散してしまうわい」
「そうですか、それは首尾上々ですね」
「それでな。多分、佐久間はオペ同意書など取れんだろう。期限が迫ってどうにもならなくなり、再び院長に泣きつくだろうな。今度は奴がそうなる前に手を打たにゃならん。と言うわけで、明日ぐらいまでに妙案を捻り出さねばな。今後は院長に対してだ。それも先手を打つことが肝要だ。ここが一番重要になる」
「ふうん、そんなものなの。私にはよく分からないけど、ちょっと面白くなってきたみたい。そうね、それだったら今から考えましょうよ」
「おっと、そこまで」
「あら、何よ。その気にさせて。ストップとはどういうこと?」
「それはこれからのお楽しみだ。とりあえず、今は充分状況を把握して貰い、後で練ろうじゃないか」
「何、言っているの。今考えたって、後だって同じでしょ。こんな話は、興に乗った時練るのが一番よ!」
「分かっている。分かっているから心配するな」
「何が『分かっている』よ、どうかしたんじゃない。何を考えているのか分からないわ!」
「まあまあ、そう焦るな。終業時間まで二時間ある。その間に植草の経緯を見直して、どこで押せば効果があるか調べて欲しいんだ。勿論、俺の方も今までのこと、それに先程の院長とのやり取りを見直して、じっくり考えてみるからさ」
焦らすような言い方に、納得いかないのか突っ張る。
「何よ、それって。今から話し合ったっていいじゃない。何も仕事が終わってからでなくてもさ」
そう言ったが、直ぐに気づく。
「ああっ、それって。今晩誘惑しようと企んでいるのね。通りでおかしいと思った。そうでしょ!」
「まあな。いや、今日はすごく気分がいいんで。つい、あっちの方が元気になっちゃって。それでな、まあ一応誘う理由がないといけないからよ」
「何よ、変な理屈つけて、何時もと違うわよ」
「そう言うな。こんな誘い方もあるんだ。いいじゃないか、たまにはこういう嗜好も刺激になってな」
「まあ、たしかに。何時も同じじゃ飽きるし、惰性でしても刺激がなくなるから、いいんじゃないかしら」
「おお、随分過激的なこと言うな。それじゃ、今晩は頑張っちゃおうかな」
と言いつつ、佳織の胸を触ろうとする。
「あら、何するの。調子に乗らないで!」
糸川の手を払った。
「ちぇっ、けちんぼ。少しぐらい、いいだろ」
「何、言ってんのよ。それどころじゃないでしょ。院長への秘策考えなきゃならないんでしょ!」
「ああ、そうだった。チャンスなんだ。君とは後で存分に楽しめばいい。今はこれに集中しなきゃ。佐久間なんぞに先を越されては、上手くいっている計画もおじゃんになる。そんなことになったら、奴に被さる火の粉が俺の方へ飛んで来ちゃうぞ」
大袈裟に糸川が手を合わせ唱える。
「くわばら、くわばら…。それじゃ、席へ戻るか。あまり二人きりでいると課員の目も気になるし、余計なことで詮索されたくないからな」
「そうね。それでなくても課長ったら、若い女の子をみると、鼻の下長くしてちょっかいだすんだもの。こうして会議室にこもっていたら、怪しいと思われるわよ。でも、それもいいかもね。誰かさんが焼き餅焼くの見るの楽しいから」
「おいおい、物騒なこと言うな。そんな女いるわけないだろ。だいいち俺は、お前しか見ていねえんだからよ」
「あら、そうかしら。それだったらいいんだけど。誰かさんといい仲になっていると、噂を聞くけれど。私の空耳かしら?」
意地悪く突っ込む。糸川が否定する。
「うんにゃ、決まっているだろ。そんなの根も葉もないことさ。気にするな、君だけしかいないんだから」
手を振り、これまた惚けた。そして話を逸らす。
「さあ早く戻って、佐久間と院長対策を考えようぜ」
そそくさと会議室を出て戻った。そして何かに取り付かれたように、デスクに向かい没頭していた。時々独り言を呟き頼む。
「これじゃ、甘いな。待てよ、さっきの考えはどうかな。もう一度見直してみるか。ああっと、佳織君。さっき貸してくれた書類、もう一度見せてくれないか」
「ええ、またですか。課長、それだったら自分で持っていて下さいよ。その度呼ばれたんじゃ、気が散って自分の仕事ができませんから!」
「ああ、悪い悪い。そう怒るなよ。何となく筋道が見えてきたんだ。再確認の意味で、今一度見ておきたいんだからよ」
「はい、はい、分かりました」
渋々厚い書類を、糸川の机にどさっと置く。
「課長、頑張って下さいね。全員のお給料が上がるか、掛かっているんですから」
「おお、分かった…。ええっ、ちょっと待って。何時そんな約束した。俺は知らんぞ!」
「あら、私たちこれだけ頑張っているんですよ。成功したら、それくらい院長に要求してくれてもいいんじゃないですか。全請求件数二千六百件中未入金の繰越が、たったの三十件ですよ。それも不突合率が前年に比べ、四%も改善しているんです。私たちが頑張ったおかげじゃないですか。課長、そうでしょ。皆さんも、そう思うでしょ!」
課員に同意を求めた。
「はい、そうですね」
玉山が、まず賛同する。それに続き、近藤も様子を覗いながら添える。
「私も一生懸命頑張りましたわ」
すると、糸川がぼやく。
「まあ、確かにそうかもしれない。俺一人でこの業務が出来るわけじゃないからな。皆がいるお蔭げで、こうして業績がよくなっているんだ」
「課長。それは糸川課長の指導力のお蔭げですよ」
玉山が尤もらしく持ち上げる。多恵らも、余禄欲しさに頷く。そんな時佳織が視線を落とし、くすっと笑った。糸川がその様子を目ざとく視る。
これでいい。佳織との関係も悟られずにすんだ。やれやれだ。こいつらを騙すのも気を使うぜ。まあ、その分スリルがあって抱く時燃えるからな。
こんな思惑を視線で投げると、受ける佳織が片目をつぶる。
期待しているわ…。そんなウインクだった。
「さあ、ひと頑張りするか。多恵君、課全体の進み具合はどうかね?」
振られた近藤が、不意の問いに慌てる。
「は、はい。大方整理がついているようです。ただ未整理の分は、恵理子さんから佳織さんへ引き継いだ一件だけですね」
「そうか、とうとうそれだけになったか」
「はい、でも課長が陣頭指揮で牛島さんをサポートしているから、勇気百倍ですわ。そうでしょ、佳織さん」
「ええ、頼もしい課長ですもの。先程佐久間先生のところへ、一緒に挨拶に行って貰いましたけど、その際課長の方から植草分の不足書類を、期限を切って提出して頂くよう折衝して下さったので、それまでには整うと思います」
すると、多恵が調子に乗る。
「そうでしょ。これで全部片づく。やっぱり課長は頼もしいわ。いざという時、必ずバックアップしてくれますもの」
そこでここぞと、玉山が持ち上げる。
「そうですよね。やっぱり課長は我が男性社員の鏡です。これじゃ、益々女の子にもてますよね」
「まあまあ、皆おせいじ言うな。これで君らの要求が通らなかったら、その仕返しが怖いよ。そんなことより、締切日まで残り少ない。手落ちのないよう、各書類を再点検してくれないか。期限が過ぎてから、あれが足りない。これがない等とならないようにな。頼むぞ、多恵君。それに玉山君もな」
「はい、分かりました」
「さあ、最後の詰めをやるか!」
糸川は背筋を伸ばし、デスクに向い直した。皆には決算対策に打ち込む姿勢を見せるが、思惑はまったく別ものである。
終業時間まで一時間半、院長に説明した内容を反芻し、戦略を立てようと意気込む。
今度佐久間に先を越されては劣勢になる。さっきも危ないところだった。何とか凌いだが、今度やられたら旨くは運べまい。それなれば奴の行動を推測し、そこから戦術を組み立てよう。
じっと睨み思考を集中させる。
まあ、今までの経緯から行動結果は吉と出まい。だいいち医療業務以外のことは、ずぶの素人だ。すでに了承され、親元か親族から受け取るだけなら容易いが、ところが現状はそうでない。
おおよそ勝手が違う。今まで連絡が取れず、誰にも同意書について説明していなければ、了解すらとれていない。そこで檄が飛び、訪問したところで至難の技だし霧の中を歩くようなものだ。徴求は不可能に近い。
更に憶測する。
住まいを探り当てたとえ親族に会えても、オペ後三ヶ月も経っており隆二本人は今だ意識不明の状態だ。そして誰も来院していないから、初対面の相手にどう説得する。これとて容易じゃないし、難儀なことだ。
更に、巨額の医療費の支払いが待っている。たとえ面会できても、親族が尋ねるであろう。オペ同意書に署名すれば、「その支払分は請求されるのか」と。勿論、奴が答える。「本人が払えなければ、本人に代わりどなたかにお支払い頂くことになる」とな。さすれば署名を躊躇うに決まっている。それも始めて会ってのことなら拒否されるだろう。
そこまで熟考したところで、結論めいたものが浮かぶ。
だいたい、アポも取らずに訪問して会えるか否か、それが問題だ。そりゃ、俺が奴の立場でも相当難しい。いや、無謀といった方が当て嵌まる。従って間違いなく失敗するだろう。この俺でさえ、院長の要求は難題だ。医療業務は長けるが、そこいら辺の悪知恵の働かない奴のことだ。オペ同意書も含め、立ち往生してどうにもならなくなるだろうて。
狡っからい笑みが零れる。
何せ、味方だと思っていた院長までが、雷を落としたんだ。俺の方から言い渡した期日だって、相当プレッシャーになるだろう。うむ、そうなれば。どうだ…。
川面に投石した波紋の如く巡らしていたが、その一方で、頭の隅に佳織の汗まみれに蠢く裸体が占めだし、その影は考え込む程、艶めかしく動き出し喘ぎ声が耳の奥で木霊してきた。
うむむ、これは…。
何時の間にか佐久間への思考が追いやられ、卑猥な裸体で埋め尽くされる。
あいや、これはいかん。集中できんぞ。
慌てて掻き消そうと尻を動かした。そしてひとつ咳払いをし、机に向う佳織を視た後、尤もらしく用足しにと席を離れた。
個室に入り彼女にメールを送る。勿論、今夜の情事の件である。「何時もの処で六時半に待っている」と簡単な内容で送信した。
「よしっ、これでいい。それにしても元気だな。後一時間弱か、待ちどうしいぜ。せがれ、今夜も頑張って奉仕するんだぞ」
言い聞かせる様に、ズボンの上から叩いた。
「さてと、もうひと頑張りするか!」
気合を入れ戻り、課員らの思惑と異なる院長対策に没頭していた。そのうち終業のベルが鳴る。
「お先に失礼します!」多恵の声だ。
続いて、「あの、私も失礼します…」遠慮気味に恵理子が席を立つ。すると、「私も帰ろうかな。決算提出書類も目途がついたし、今日も頑張ったから」佳織が帰り支度を始めた。
「俺も、そろそろ帰るかな…」玉山が告げつつ、課長の顔色を覗う。
「あの、課長。決算対策の方も目鼻ついたんで、今晩あたり一杯どうですか。付き合いますよ」飲みたそうに誘った。
「おお、もうこんな時間か。ううん、今日のところは用事があるんで遠慮するよ。毎回断って悪いな」
「そうですか、残念です。たまには一緒に飲みたいですよ」
「そうだな。今日はどうしても外せない野暮用があってね。君には悪いが今度付き合うよ」
「いいえ、都合が悪ければ仕方ありません」
残念そうに糸川の顔を見た。
「おっと、時間がないぞ。遅れてしまう」
玉山を無視し、そそくさと席を立つ。
「それじゃ、お先に!」
「お疲れ様でした!」
玉山の言葉を背に部屋を後にした。病院外に出て、ひと呼吸する。
「さあ、今晩はじっくり可愛がってやるか」
今の今まで、あれほど熟考していた策略のことなどすっかり消され、滲み出るのは情事のことばかり。好色の糸川には高ぶる気持ちがそうさせているのだ。
待ち合わせ場所で落ち合った佳織も、今日成しえた成果がよかったのか、何時も以上の興奮を覚えていた。ラブホテルの一室で絡み合う秘め事は、幾つもの卑猥な言葉が飛び交いよがる声がより激しかった。
翌朝の始業時から、目の前に黄色い霧がかかる。糸川は自席に座り頬杖をつき、昨夜の続きを思い浮かべ追いかける。そうしていても、このままだらりとしている暇はない。院長対策を捻り出さねばならず、時間的余裕などないのだ。
昨日、佐久間に檄が飛んでいる。何ともならない状況下で思い悩むだろう。どうにもならなくなるのは目に見えている。今日か、明日には…。
糸川としては、その前に何としても決定的な策を講じておかねばならなかった。更に模索が進む。
それを怠れば、今まで築いたものが水泡となる。そうなれば俺の身が危うくなる。密会にも飛び火してしまうだろう。それだけは防がねばならん。くそっ、何かいい手はないか…。
激しく頭を振った。
ああ、駄目だ。佳織の裸体が浮かんでしまう。うう…。払い除けようとするが、眼底にこびり付いていた。
くそっ、失敗したな。昨日中途半端に終わらせ、最中に考えようとしたのが間違えだった。結局のめり込んでしまった。今さら悔やんでも仕方ないが、それにしても浮かばん。
もどかしく、残影を振り払うように頬を叩き、突如席を立ちトイレへと向う。用を足しながらじっと一物を見て、「お前が頑張ったおかげでこの様だ。どうしてくれる!」と罵り強く握った。すると、ずきんと反抗してくる。
参ったな。お前は本当に好きなんだから、困ったもんだぜ。諦め顔で苦笑した。
おっと、そんなこと言ってられねえ。秘策、秘策。良策を捻りださなきゃならん。
ずぼんに仕舞い込んだ時、ふと気づいたのか声を上げる。
「おお、そうだ。佳織の方はどうなっている。あれだけ満足させたんだ。妙案が浮かんでいるといいが。早速、聞いてみるか」
期待しつつ戻り、素知らぬ顔で呼ぶ。
「佳織君、ちょっと来てくれないか」
「はい、何か?」
平然と応える。
「いや、昨日相談した植草隆二の件だけど、いい案は出たかね」
昨夜のことなど億尾にも出さず尋ねた。すると、即座に応える。
「課長には新鮮味がないかもしれませんが、おぼろげに浮かんでいますが。ただ、しっかりした考えではありませんので、今暫く時間を頂けませんか?」
「ただな、時間がないんだ。とりあえず君の案を聞こうじゃないか。どうだ?」
「ええ、構いませんが」
「それじゃ、会議室で聞くから来てくれ」
「はい、分かりました」
返事が終わる前に、糸川は何食わぬ顔で席を離れた。慌て佳織が後を追う。密室の会議室に入るや、糸川が急に抱き締める。
「きゃっ!」
声を上げる彼女の唇を奪う。
「うっ…」
押しのけようとするが、強引な腕力に遮ることが出来なかった。それに乗じて、激しく舌を絡め尻を弄りだした。上気する彼女の口から、吐息が漏れる。
「ああ、課長、駄目、駄目よ…」
周りを気にしてか、糸川の胸に両手をあて抗うと、止む無く弄る手を止めた。
佳織がふうっと息をつく。
「昨夜、あれだけ楽しんだのに。課長って元気なのね」
「ううん、まあな。君の色香をかいたら、急にもやもやしてきてさ。それで手が出てしまったんだ」
「まあ、何よ。急に奪うんだもの、びっくりしたわ」
「いや、それにしても君だって、その気になったじゃないか」
「まあ、嫌ね…」
恥ずかしそうに赤らう。
「それに、もう潤んでんじゃないの?」
「何を言っているの。エッチ!」
「まあまあ、そう言うなよ」
今度は指先を密所へ這わせようとする。
「駄目、駄目よ。今は駄目なの!」
佳織がその手を払った。
「痛っ!分かった、分かったよ。我慢するよ」
「そう、そうして。お願い、私だって変な気分になてしまうもの。それより早く片づけちゃいましょ。あまり長くいると、皆に怪しまれるから」
「それもそうだ。それじゃ、本題に行こうか。ところで佳織、どうだい。さっきいい案を思いついたとか言っていたが?」
「ああ、あれのこと。あれは方便よ。ああでも言わなきゃ、席外せないでしょ」
「ええっ、嘘だったのか。てっきり考えたかと思ったのに」
「嫌ね、そんな時間なかったわ。昨夜あれだけ燃えたのよ。もうくたくたで、何にも考えられなかったわ。こうしているのも、言ってみれば息抜きよ。それじゃなきゃ、のこのこついて来るものですか。おあいにくさま!」
茶目っ気たっぷりに舌を出した。唖然として反発する。
「何だ、何だ。あんなこと言うから期待して損した。まったく、どうしてくれる。この穴埋め、何とかして貰わないと困るぜ!」
「何を屁理屈言っているの。課長ってお馬鹿さんね」
そう言い、顔を近づけ糸川の額を指先で小突くと、胸の谷間を視線が捉え同時に、佳織の二の腕を強引に手繰り寄せていた。
「きゃっ!」
声を上げ、吸い込まれるように腕の中へ引き寄せられ、再び唇を奪われた。重ねた後漏らす。
「もう、課長ったら。こんなことしちゃ駄目でしょ…」
「何を言う。損害を受けた代償だ。これでちゃらだからな」
二度も口づけされ、佳織は上気していた。
「ねえ、また欲しいの。今夜…」
「駄目だ。今日は対応策を考えにゃならん。それが最優先だからお預けだ!」
「ううん、でも…」
「でもも、へちまもない。早いとこ考えちゃおうぜ。ここが一番大事なところだ。先手を取らなきゃ。それさえ済めば、後は結果を待つだけ。いや、二、三日もすれば結果が出る。成功した暁には、いやと言うほど抱いてやるから」
「ほんと、でもそれまで我慢しろと言うの?」
「ああ、そうだ。楽しみは後にとっておくのがいい。欲望が破裂しそうになった時、ひいひい言わせてやる。その時悶え悦べば極楽だ。存分に行かせてやる」
「まあ、課長ったら。そんなえげつないこと言って、感じちゃうじゃない…」
赤ら顔になり俯いた。その仕草を見ながら真顔になる。
「おっと、こんなこと言ってられねえ。佐久間の件、何とかしなくちゃ」
モードを切り換える。
「それでな、佳織。俺もいろいろ考えたが。ちょっと筋書きを説明するから、聞いてくれるか?」
「そうですか。さすがですね、課長」
「こら、まだ話しておらん。そんな軽口叩くと、わざとらしいぞ」
「すみません!」
「それじゃ、聞いてくれ」
「ええ」
「そうだな。佐久間の方から話すと、奴は院長に泣きついた。それで何とかなるだろうと考えていた。さもあろう。これだけ病院に貢献しているんだ。こんな事務的なことなど、簡単に処理してくれるだろうと考えてな。ところが思惑が外れた。院長とてねぐれぬものと直感したんじゃないか。そりゃそうだ。いくら急患といえど、今だオペ同意書も取れず、帳簿上手術代から入院治療費すべて、一銭の入金もないんだ。ただ事ではないと考えるのが普通だ。そこで、何かあるのではないか、うちによからぬ企てが襲ってくるのではとな」
「そのように考えた決定的な要因が、誰一人として見舞いに来ない。勿論、親や親族も現れないことだ。佐久間一人の問題として、片づけられる領域を超えている。だから院長は何としても問題が露見する決算までに、同意書に署名捺印を貰って来いと怒鳴りつけたんだ」
「奴にしてみれば、よもやそんな展開になるとは思っていなかった。経験したことのない事務処理だし、まさか取って来いと厳命されるとはな。そんなもの、ただ行けば取れるもんじゃない。音を上げるに決まっている。それで、再び院長に泣きつく。まあ、こんなところかな」
「ううん、そのようね。佐久間先生じゃ、そりゃ無理よね。医療技術は優等生でも、こんな仕事は赤子みたいなものだから。そうであれば、泣きつく前に院長に手を打つべきだわ」
「おお、その通りだ。佳織君、冴えているな。やっぱり昨夜抜いたんで、すっきりして集中出来るんだ」
「あら、嫌だ。真剣に考えているのよ、茶々入れないで!」
「おお、つい出てしまった。ご免」
悪げもなく謝り、一呼吸置き進める。
「そこでだ、先手必勝パターンの攻撃モードに切り替える」
「何よ、それって」
「決まっているだろ。そうされる前に入れ知恵するのさ」
「へえっ、誰にどうするの。どんなこと吹き込むわけ」
「ううん、そこだ。これは二人だけのシークレットだぞ。分かっているな」
「そんなの、分かっている。私たちの関係だって同じでしょ」
「まあ、そうだが…」
そう例えられ、少々複雑な気持ちになるが、気を取り直し続ける。
「そこでだ。君に引継いで、経緯報告の作成をして貰ったよな」
「ええ、指示された筋書き通りに、カルテを見て手を加え、医療代の未入経緯を書き込み辻褄合わせたわ。これで期末になっても、私らに落ち度はないことが主張できる。勿論、先日佐久間先生にお願いしたことも、ばっちり入れておいた」
「それでだ。昨日、驚かした以上に院長に入れ知恵するのさ。病院全体の問題に発展した時に、責任をおっ被せる相手を作ることだと。そのようになる筋書きのヒントを吹き込むのさ」
「ううん、どうも課長の言うこと、今ひとつ分からないわ。もう少し詳しく教えてくれない?」
「分からねえか、カルテを見ながら植草の経緯書作ったんだろ」
「作ったわ。それとどう関係があるのよ」
不可解さに問い直した。
「佳織、よく考えてみろ。分からねえかな…」
「分からないわ」
「それじゃ教えてやる。佐久間はどんな状態になる。俺らから突きつけられた期限は迫る。院長からは尻を叩かれる。だが、現実はどうともし難い状況に陥っている。オペ同意書が取れなければ、今まで築いた信用はどうなる。今ある名声はどうなる。それこそこの一件で、院長あるいは理事長まで巻き込みその信用はすべて地に落ちる。そうさ、天国から地獄へと突き落とされるんだ。
死に物狂いで助けを乞うだろう。だからと言って、院長に何が出来る。同意書のないまま執刀し、今だに植草の意識が戻らず、もし親族から脅かされたら。そこで佐久間に便宜を図っていてみろ。今度は院長自身が矢面に立たされる。そんなこと望むか。背負い込むか?」
「そうよね。自ら墓穴を掘るようなものだわ。そんな火中の栗を拾うなんて、するわけないわよね」
「そうだろ、院長だって立場上最終的には、自ら責任を取らにゃならんことだってあるが、いくらうちの知名度アップに貢献したからと奴の尻拭いをするか?」
「そんなことするわじけないじゃない。己に火の粉が降りかからないよう画策するに決まっているわ。一度上り詰めた地位だもの。そう簡単に手放すものですか」
「佳織、そう思うか。それだったら、もし君が院長の立場だったらどうする?」
「あら、嫌ね。私が院長。あるわけないじゃん!」
現実離れした問いに、お門違いと端から否定する。
「だから、もし、と言っただろ。どうする?」
「でも、そんなこと言われたって、絶対にないことだもの考えられないわ。無理よ」
「そんなこと言うなよ。仮定でいいんだから」
「そんなこと言ったって…」
考えられないことに言葉が続かず、糸川が頭をひねる。
「そうか、今の立場とあまりにかけ離れているからな。それじゃ、もっと身近なところで設定してみよう。そうだな…。おお、そうだ。いるじゃねえか!」
「何よ、いるって!」
「まあまあ、それじゃ俺の立場に立って、火の粉が降りかかるとしたら何とする?」
「ええっ、私が課長になるの!」
驚きを表わす。
「おお、そうだ」
「でも課長の立場というのは…。もし私が課長なら、職権でいろんな男に手を出すことが出来るんでしょ…」
「あのな、そういうことじゃないんだ!」
「だって、あなたの立場でしょ」
「そうだが」
「だったら課長は、いろんな女の子に手を出しているじゃない」
「いや、そんなことない。俺は佳織しか手を染めていない」
「あら、そうかしら。浮いた噂が流れてくるけれど。それに多恵さんのお尻、時々触っているじゃない」
「馬鹿だな、何だ焼いているのか。あれは仕事の効率をよくするための儀式みたいなもんだ。本気でやっているわけじゃない。あれれ、待てよ。何時の間にか話が脱線しちまったじゃねえか!」
「そうみたいね」
「ええと、それで何だっけ?」
「しょうがないわね。私が糸川課長の立場だったらでしょ!」
「おお、そうだった」
糸川が思い出した。すると佳織がのたまう。
「部下の不祥事のために、自ら進んで責任を取るかと言うことでしょ。そんなこと私がするわけないわ。何で私が恵理子さんのミスを被らなければならないの。とんでもないわ。お給料貰っているんだから、どんなことがあっても本人に責任を取らすわよ」
「そうだろうな」
「勿論よ!」
「君の性格だったら、そうするよな」
「ええ、当たり前よ。何で私が責任を取るの。真っ平ご免だわ。そうならないように、先に手を打つわ。決まっているじゃない!」
「そういうことになるよな。考えてみろ院長だって、同じように考えるに決まっているだろ」
「そうだよね。佐久間先生の尻拭いなんかするわけないわよ。と言うことは、自分に降りかからぬよう手を打つわけね」
「そうだ、その通り」
「それだったら、私らはどうすればいいの?」
「佳織、やっと分かったな。そこで入れ知恵するんだ。佐久間先生が泣きつく前に策を講じてよ」
「なるほど、そういうことね。やっと分かったわ。課長、それでどんな手を打つの?」
「佳織、ここが一番肝心なところだ。よく聞け」
「うん」
「それでな、俺はこんな風に話を持っていこうと思う」
糸川の声が小さくなった。聞き漏らすまいと、佳織が身を乗り出し顔が近づく。胸の谷間に視線が這う。と同時に、ほのかに色香が鼻腔をくすぐる。
「うむむ…」
一瞬、頭が揺らいだが気を取り直す。
「まずは仮説だが、院長に一喝された佐久間は、とにかく植草隆二の自宅へ向かう。そして…」
真剣な顔で赫々云々と喋りだした。更に佳織が顔を近づけ、大きな目で頷きながら聞く。またもや女の甘い匂いが漂い、彼の鼻腔が嗅ぎ出していた。
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