それから、糸川が慌て動き出したのは、想定外のことである。

こんなに早く動くとは。佐久間の奴、もう院長に泣きついて行ったか。これはまずいぞ…。焦りつつも遠目になる。

確かに奴は、医療技術は長けているが。いや、それだけではない。名声は他病院にも轟いている。あの時からだ。

経緯を思い起していた。

そのこと事態、人間の生命を重んじる理念からすれば、むしろ当然かもしれない。少なからず医師とは、そのように教育されている。命の尊厳、すなわち倫理観からみて、他のことを差し置いてもオペを先行させるだろう。特に瀕死状態の場合、昼夜問わず同様に考えるものだ。患者の命の炎が尽きかけていれば、救うため懸命に立ち向かう。

佐久間は必然的にそのように動き、植草隆二の命が助かった。医師として当然のことをしたまでだが、病院もそして一般社会もが彼を絶賛し評価した。一つの報道が、何時しか大きな波紋を放つ。その度に波頭が大衆を刺激した。週刊誌が飛びつき、テレビ報道が連日のように、その波を掻き回した。あっという間に佐久間が時の人となり、日々病院の箔が塗り替えられていった。それ故病院側としても、他の医師と同様な処遇は出来ない。

彼の一挙手一投足によって、病院に対する世間の目が注目し始めた。院長もこの腕利きを特別扱いするようになり、当然の如く理事長でさえ神経を尖らせた。さもあろう、病院経営という視点からすれば、世間に注目されるほど信頼が高まる。さすれば、いろんな意味で患者が増える。これは経営上願ってもないことだ。それ故佐久間の行動が重要になる。幸いその火付け役となった植草隆二以降に手がけた大きなオペも成功を納めた。今では当院にとって、佐久間はドル箱と言っていい存在となった。

佐久間にしてみれば、己に降りかかる難題の処置に窮すれば、恩恵を受ける院長に解決を委ねるのも当然だ。難題が己の専門外のものなれば必然的にそうなる。

そんな状況にある彼から院長に相談、いや泣きが入ったのである。

聞き入る吉沢が、顔を歪めていた。

病院の倫理規定から見ても、あってはならぬことである。医師の失態で済むような問題ではない。それも他の医師であれば、それなりに首を挿げ替え解決する方法もあろうが、よりにもよって佐久間から持ち込まれた容易ならぬ泣き言である。聖人化した医師を溝に落とすことは、病院そのものを崖から突き落とすようなものだ。世間にリークされたら、それこそ勝ち得た名声が一挙に崩れ落ちる。

そんなことになっては…、絶対にならんのだ。一度地に落ちれば容赦なくマスコミが叩くだろう。喜びを与えてくれた分、しっぺ返しは相当きつくなる。道理だ。それにわし自身のことを考えれば目に見えている。

巧く立ち回らなければ、病院全体の問題に発展しかねないことだった。糸川から期日提示された植草のオペ同意書徴求は、佐久間にしてみれば、煩わしい雑用的要素を持つ何物でもない。それ故院長への泣き言になる。しかし院長にしてみれば、己に降りかかることは極力避けたいところだ。

だが佐久間すれば、これだけ病院に貢献していると自負し、それ以上に医師として、持ち合わせぬ事務員任せの事柄である。そのことに頭を悩ます気持ちなど毛頭ない事後処理要件だった。

要するに、ことの重要性に考えが及ばないのである。命を救うという本分が優先するため、オペ同意書の徴求が等閑になった。結局、医療業務の多忙さにかまけ時間だけが過ぎ、ほとんど手付かず状態であったことになる。

医療業務以外の事務処理が素人同然の彼にしてみれば、糸川から期限を定められ迫られたとて、どうにかなるわけではない。ましてや専属事務の多田とて、的確な指示がなければ、通り一遍の事務作業で終わる。そうなれば、解決する妙案などあろうはずがない。時間だけが過ぎ、結局立ち行かなくなり泣きついたのだ。

「うむ、これは難儀なことだ。で、君はどうするつもりだ?」

「えっ、ですから。ご説明しましたように、患者が多くそちらの方に手を取られまして。どうにも…」

「それは、分かった。それで、このままにしておくわけにもいくまい」

「その通りでして。どうしてよいやら困っておりまして…」

「それは分かるが、このまま決算を迎えるわけにもいかんぞ。いや、その前に君が植草のオペ同意書を渡さなければ、精算業務課の方でその旨の資料が作られる。必須書類が整っていなければ、彼らとてそのまま提出するわにいかんだろうから」

「ええ、院長の言われることはご尤もですが、私の方も…、糸川君から提出期限を切られており、あと数日しかなく、難儀している次第でございます」

「佐久間君、さっきから何が言いたいんだ。君の話を聞いていると言い訳ばかりで、何時もと違うじゃないか」

「はあ、そうなんですが。私としては、何とも遺憾で相成りません…」

佐久間の優柔不断な物言いに痺れを切らす。

「だから君、わしにどうしろと言うんだ!」

あたかも難題を持ってくるなと言わんばかりに声を荒げた。

「院長、院長にどうしてくれと、頼んでいるわけではございません」

「そりゃそうだ。まあ、君もうちにとって、なくてはならぬ存在だ。医療業務も他の業務も格段に増えた。これでは本来の業務に支障をきたす恐れがあろうから、専属の事務員をつけておるではないか。執務室とてそうだ。他の医師に比べ数段待遇がいいぞ。そこら辺は君も、上手くやってもらわにゃ困る。それも君の説明では、たかが植草の分だけが不整備だからと言うことだろ。何のために専属事務員がいるんだね。もっと活用して貰わんと困るな」

「は、はい。誠に申し訳なく思っております。私もその点については、大いに反省しておりまして。面目ないことです」

かしこまり頭を下げる。

「ところで、君のところにいる事務の女の子。ええと、何といったかな」

「あっ、はい。多田智子と申します」

「おお、その多田君。彼女に植草の親族に連絡を取らせているんだろうね」

「いいえ、本人の自宅へ書類を送らせただけですが」

「えっ、送っただけだと。それじゃ、親でも誰でも話をしておらんのか?」

吉沢の質問に慌てる。

「それは、指示しておりませんが…」

意外な返事に、怒りが込み上げたのか、「な、なにを!」目を丸くしてぶちまける。

「書類を送っただけで、電話連絡もしていない。それじゃ、何もやっていないのと同じじゃないか!」

すると、窮し生返事をする。

「そう言われますと、その通りでして。だから困っていまして」

その頼りない申し開きに、更に頭に血が上ったのか大声となる。

「君、何を悠長なことを言っておる。と言うことは、彼女に自宅へも行かせていないと言うことか!」

「はい、その通りでして」

当たり前のような返答をした。

「それじゃ君、この期末決算にオペ同意書が揃わなかったら、どうするつもりなんだ」

「はあ、私も困りまして。それでこうして院長先生に、どうしたらよいかと、相談に参ったわけでありまして…」

どうともし難いという顔つきで窺う態度に、吉沢はあっけにとられた。まるで危機意識がなく、ことの重大さが理解されずにいる様に唖然とした。決算を間近に控え危機感も持たず、解決策すら考えようとしない指示待ち族でいることに、腹ただしささえ覚え、更に前代未聞のこのことが及ぼす影響を考えると、鳥肌の立つ思いに見舞われた。

吉沢は目前に暗雲が立ち込めだす気持ちを抑え尋ねる。

「それで、佐久間君。万が一、その書類が揃わなかった時の問題を考えとるか。それに今まで、こんな事例はあったかね…」

「いいえ、今回のようなことは、今までございませんでした。通常はオペに入る前に説明し、納得して頂いた上で同意書にサインを貰っております。今回のような患者は、特に緊急時の場合でありオペを最優先で行い、後から同意書を徴求しておりました。今まで漏れたケースはありません。この分だけが揃ってないだけでございまして。ですから、私も初めてのケースで困っております」

更に、要領得ず釈明する。

「それで、先日。精算業務の糸川君が来まして、期末決算のための不突合勘定になっている、植草隆二のオペ同意書が揃っていない。何時提出できるのかと申して、決算書類提出の締切りまでに、必ず整えて欲しいと要請されました…」

「ううん、それで君は何と答えたのかね」

「は、はい。その時は、必ず間に合わせるからと言いました。私も多田君に手配するよう指示すれば、何とかなると思いまして」

「それじゃ、私のところへ来るまでもないじゃないか。何とかなるんだろ?」

「ええ、それが。糸川君には、そのように申したんですが。うちの多田が曰く。指示された通り再度書類を送り、至急連絡くれるよう書き添えたとのことですが、梨の礫でして」

更に己の多忙さを強調し、まだ未徴求であることを正当化しようとする。

「それに、私の医療活動の方が忙しく、彼女に任せておりましたところ、あっという間に時間が過ぎてしまい今だ取れず仕舞いになっているわけでして…」

佐久間の誠意の感じられぬ言い訳に、顔色を変えて声を荒げる。

「それじゃ、何か。まだ、オペ同意書を親や兄弟姉妹、もしくは親族から受け取っていないというのか!」

「その通りでして…」

悪びれる様子もなく、どうにもならぬ顔で答える。

「おい、おい。その通りなんて、言っている場合じゃなかろう!」

「はあ、面目ない…」

「面目ないですむことではないぞ、佐久間君!」

「はあ…」

佐久間にしては返事のしようがない。どうすれば解決できるか、答えを見い出せないため、何とかして貰おうと相談したのだ。それが意に反し、問い詰められ行き場を失った。そのうえ、「どうするんだ!」と怒鳴られても、どうにもならない現実がそこにあった。

「…」

頭を垂れ押し黙る。苦々しい顔の吉沢が呟く。

「しかし、困ったもんだ。それにしても、どうしたものか…。して、その植草の未払い医療費はどれくらいなんだね」

「はあ、何でも三百六十万円ほどと聞いておりますが」

「ええっ、そ、そんな大金!」

「は、はい」

「うむ、これは容易ならんぞ。それこそ妙策などありゃせん」

泣きつかれた吉沢も困り果てた。彼にしても佐久間の犯したこの問題を、密かに闇に葬ることなど出来る額ではない。時間もなければ、そう容易く己の権限で処理出来範囲を超えている。たとえ葬ったとしても後で露見すれば、今度は俺が火の粉を被る。いくら病院に貢献しているからとて、佐久間の身代わりなどになれるわけがない。

「こんな時期に、君の失態が公になったひにゃ。それこそ、当院の信用に係わることだ。それ故慎重に収めにゃならぬ。こんなことが三流雑誌に知れてみろ、どうにもならん。かと言って、高額未払いのオペ同意書の未回収。そう簡単に解決することではないぞ」

「申し訳ございません」

苦虫を噛み潰す院長に面と向っていられなかった。佐久間は、ただ頭を垂れていた。院長に話せば、この厄介な問題も己の手から離れると安易に考えていた。だがそうとはならず、苦渋の溝にうずくまる。

「…」

「…」

沈黙が続くが、ぼそっと吉沢が呟く。

「公になる前に、私の方から糸川君に何とか穏便にすませられないか話してみるか」

「ええっ、本当ですか。そうして頂ければ、私としては頭を悩ます棘が取れ医療業務に専念出来きます。院長、何とお礼を申し上げてよいやら!」

「いや、君。まだ解決したわけではない」

困り果て漏らした一言で、投げてしまおうとする佐久間を制した。更に付け加える。

「だいたい糸川君に話して済むなら問題はないが、ものがものだけにすんなりいくか分からん。ただな、このままだとこの件はオペ同意書未徴求となり、決算書類の不突合記録として残る。それでは解決したことにはならんのだ」

「そ、それでは困ります。ですので、何とか院長のお力をお借りできれば…」

頼られ、吉沢が苦り切る顔で続ける。

「それを回避するために、現時点では期末決算に間に合わんが、回収中にて何時までに回収見込みとして貰い、乗り切るしかあるまい。今のところこの方法しかなかろう。ただ、根本的な解決策ではない。いわば先送りと言うことになるが、致し方あるまい」

決算対策上の、その場凌ぎの方法を導き出した。

「どうだ、佐久間君。他にいい方法があるかね」

そう言われても、彼に妙案があるわけがない。

救いの眼で頼る。

「どうぞ、宜しくお願い致します」

佐久間の態度に、吉沢が苦々しそうに告げる。

「そんなことで、話はしてみるが。それとて認められるものか、業務部、経営委員会、理事会と超えにゃならんハードルが高い。よって君がどのような根拠で何時回収できるか、理詰めの報告書を作り提出して貰わにゃならんぞ」

「はあ、そうですか。私は院長さえご了承頂ければ、その決算とやらは乗り切れるものと思っておりましたが」

いとも簡単に答えた。吉沢が目を吊り上げる。

「何を言う。そんな安易なものではない!」

「そうですか…。いずれにしても、ご指示に従ってその報告書を作成して参りますので、宜しくお願い致します」

「うむ、そう簡単に取られても…。よくよく考えると、これは難題だな」

「あの、それで院長…」

更に願いごとでもあるのか、佐久間が愚図らと言うと、もうこれ以上と嫌な顔をする。

「あいや、まだ何かあるのか」

「はあ、じつは。この件につきまして、糸川課長が申すには、『私どもが何度も請求書を出しても入金がないということは、何かあるのではないか』などと言っているのを思い出しまして…」

平然と他人事のように喋る佐久間に、顔色を変え怒鳴る。

「おいおい、糸川が何を言ったというんだ、君。それを、何故先に言わん。どのような事か、具体的に話したまえ!」

「はあ、じつは。課長曰く。『植草隆二の親か親戚か、それとも他人か分からぬが、私の方で送ったオペ同意書を送り返してこないのは、何か企みごとがあるのではないか』と言って、『私だけでなく、当院に対して脅迫してくるかもしれない』などと、申すのですが…」

先日言われたことを思い起こし、課長の言うことに合点が行かぬのか、問い返すように尋ねる。

「それって、どういうことでしょうか?」と、憶測するように喋り出す。

「と言うのは、緊急オペで確かに生命の延命には成功した。そのこと自体は感謝しているだろうが、当初はそう思っていても、今だ意識が戻らず、二ヶ月以上寝たきりでいるから、『命を救ったのも、人体実験をしているのではないか』との疑念を持っているかもしれない。その証拠に、一度も見舞いに来ないし、電話連絡もないところが不気味だ。と申し、『それこそ現状では、植物人間と同じだ。そのようになったのは手術だって成功したとはいえず、むしろ失敗してこうなったのではないか』などと。そのように決め付け、『意図的にオペ同意書を送り返して来ないのでは』と。まあ、このように糸川君が言っていたのですが」

危機感の微塵もなく長々と告げた。聞き及び吉沢が、眉間の皺を吊り上げ怒鳴る。

「何だと。君、そんな重大なことを、今まで何故報告してこなかった!」

「はあ、そうですね…」

佐久間の間の抜けた返答に、呆れ顔になる。

「君、万が一そんなことを週刊誌に売られてみろ。うちに何の落度もなく、むしろ高度手術で成功したんだ。それを歪曲され一人歩きしたら、それこそ大変なことになるんじゃないのか?」

吉沢が不安視するも、己の執刀したオペに絶対的自信と信念を持つのか、佐久間が返す。

「そんなことありません。医師として患者の命を救う。その行為を行なったわけでして、やましい下心など持って臨んではおりません」

「いや、君がそう思っていても、歪曲された記事がリークされ、それに反発しても、更に週刊誌というのは読者が喜ぶような過激な方向に持っていくもんだ。そうなれば、単なる期末決算の資料不足などと、悠長なことは言っていられなくなるぞ」

ぽかんと聞き及ぶ様子に、吉沢の檄が飛ぶ。

「君、悠長に構えている場合じゃない。しっかりせんか!」

「はあ、私としても一生懸命やっているんですがね」

返ってくる返事が、あまりにもお粗末だった。

吉沢が痺れを切らす。

「何たることだ。佐久間君、どうするつもりだ。この件は君だけの問題ではなく、こじれれば当病院として、大失態になるではないか!」

「はあ、確かに。そのようなれば、一大事になりますな…」

煮え切らぬ態度に、怒りを露骨に表わす。

「佐久間君、しっかりせんか!」

「は、はい…」

心頭の吉沢が続ける。

「このままでは、そんな理由づけの報告書作成どころではなくなった。君、分かっているな。直ちに植草の自宅へ行き、オペ同意書を貰って来い。それとだ、とにかく奴の親族らの動きも探れ。もし、不穏な動きがあるようなら何としても穏便に済ませ、雑誌記者らにすっぱ抜かれないよう押さえ込め。分かったな!」

「ええっ、私が。そ、そんなことをやるんですか!」

「当たり前だ。君がやらんて誰がやる。ぐずぐずせず今直ぐに取り掛かれ。そうでもしなけりゃ、手遅れになってみろ、君の今までの業績や名声は泡に帰すぞ。それだけではない。当院とて、築き上げた信用が失墜するではないか!

そんなことになったら、私の責任になる。勿論、私のみならず理事長にも累が及ぶ。それを何としても防せがにゃならんのだ!」

最悪の事態を想定するのか、投げる視線が尖っていた。

「あの、先程の由なの件はどうがなりますか?」

「馬鹿者、そんな悠長なこと出来るか!これから直ぐに行って来い。私は糸川を呼んで、何故そのように考えているか根拠を聞かせて貰う。佐久間君、分かったな。直ぐにやれ!」

「は、はい。いや、じつはこれから回診がありまして…」

佐久間は待ち受ける医療業務を、言い訳のように取り繕う。

「何を能天気なことを言っておる。君は、ことの重大性を認識していないのか。うちの信用失墜に繋がるんだぞ。回診など他の医師に任せろ。理由など何とでもつけ頼め。今、君がやらにゃならんのは、とにかく植草のオペ同意書を回収することだ。早く取りかからんか!」

激しく一喝した。

佐久間が萎縮する。反論など出来るはずもない。また、どのような算段でやればよいのかも、皆目見当がつかなかった。仕方なく生返事する。

「はい、承知致いたしました。それではこれから手配しまして、植草の自宅へと行って参ります」

それだけ言うのがやっとだった。深々と頭を下げ、院長室を出た。後姿を目で追い、出たところで呟く。

「まったく、何と言うことだ。しかし、どうなることやら。とにかく佐久間がオペ同意書を取って来さえすれば、問題は解決するが。万が一、回収できず糸川の言うような事態になっては、それこそ一大事だ」

受話器を取り内線ボタンを押した。

ツツツーと受信するのを、書類に目を通しながら出る。

「糸川ですが…」

「おお、君か。私だ!」

「はあ、どちらさまですか?」

「私だ、吉沢だ!」

「えっ、あっ、院長ですか。失礼致しました。何か私に不都合でもありましたでしょうか?」

改まり尋ねた。吉沢が制する。

「いや、ちょっと聞きたいことがある。直ぐに来てくれんか」

強引に要請した。何のことかと緊張しつつ尋ねる。

「あの、お邪魔致しますが、何時頃お伺いすれば宜しいでしょうか?」

「直ぐだ、今直ぐに来たまえ!」

耳に響いた。

「はっ、分かりました。それでは直ちにお伺いします」

ただならぬ電話での剣幕に背筋を伸ばし、頭を下げている途中で切れた。糸川の顔色が変わる。院長の言葉が、耳の奥に残る。

直ぐに、胸の内で問い質す。

とにかく、直ぐ来いという。あまりにもきつい言い方に、要件を聞きそびれた。いや、むしろ聞ける状況ではなかった。うむ、まさかとは思うが…。

一体何を問いたいのか。ひょっとして、いや、そんなことはない。あれは周到に仕掛けてきたし、ましてや俺の密ごとなど、決して分かりはしないはずだ。うむ、どんな要件か。あの剣幕では、いい話ではなさそうだ。とにかく急がねば…。

糸川は資料も持たず席を立っていた。急ぎ歩きながら反芻する。

しかし、何だってんだ。秘書も通さず架けてきて、要件も言わず来いとは。それにしても、あの言い方。只事ではないぞ。一体どういうことだ。ううん、バレていないと思うが…。

思考が混乱した。否定はするが、一抹の不安を隠し切れぬまま胸に仕舞い込む。

秘書からの要請なれば、何時ものことだ。中間決算や期末決算前になると動向が気になるのか、状況報告に来いとの呼び出しがある。それなら、院長自ら架けることはない。それが、あの高圧的な口調だ…。

整理する余裕なく、緊張し院長室まできた。立ち止まり、己に言い聞かせる。

落ち着け、糸川。決してバレはしない。密ごとは別として、実際に繕っている通り隠さず説明すれば、それで乗り切れる。よしっ!

大きく深呼吸して、ノックし名乗った。

「糸川ですが!」

「はい、どうぞ」

秘書の田沢に迎えられ、緊張しつつお辞儀する。

「どうぞ、こちらへ」

手招きされ通された。院長が糸川を睨む。すると、構わず田沢が促す。

「こちらのソファーにお座り下さい」

言われるままにソファーへと赴くが、院長の声がない。そのまま立っていると吉沢が来て座り、上目遣いで無愛想に告げる。

「そんなところに立っていないで座りたまえ」

「は、はい」

かしこまりながら座り、目を伏せていた。すると、おもむろに尋ねられる。

「どうだね。期末決算も近づいているが、準備の方は上手くいっているのかね?」

「はい、今のところ精算業務課挙げて進めており、何とか期限までには整います」

「おお、そうか。それで、どうなんだ入金状況は?」

「はい。現在二千六百件程の案件がございまして、おおよそ九十五%は入金になっております。あっ、それに残りの五%、約百三十件につきましては、全額入金がなくても期日管理をしており、期末までにはこの内百件が入金になります。残り三十件は、残念ながら次期繰越となる状況にありまして…伝々」

詳細に説明し、黙って聞く吉沢に向う。

「なお、今決算は繰越率が大幅に改善されまして、前期に比べ良化傾向にあります」

糸川は偽りなく、現状を報告した。勿論、院長の顔色を覗いながらである。その中で、ちゃっかり己の成果として、改善状況も付け加えた。

これくらいの数字なら、頭に入っている。説明して行くうち、落ち着きを取り戻す。

心の内で呟く。何だ、どんな風の吹き回しだ。何時ものことじゃねえか。こんな説明なら、何も院長自ら呼び出さなくてもいいものをよ。

そう思いつつ続ける。

「概ねこのような状況にあります。本来であれば資料を基に、もう少し詳しく分析状況をご説明しなければなりませんが。院長より直々のお電話ゆえ、何も持たずに馳せ参じましてございます」

糸川はぺこりと頭を下げた。

「うむ、そうか。それで糸川君、どうなんだ」

糸川の意図しない言葉が、吉沢の口からでた。

「はあ?」

思わず聞き返した。そして、吉沢の目を窺う。鋭い眼光が見据えていた。その強さにドキッとし、思わず漏らした言葉を取り下げるべく、改まって尋ねる。

「あっ、申し訳ありません。院長、あの。どうなんだとおっしゃられますと、どのようなことでございましょうか?」

「だから、どうなんだと聞いておるではないか」

またもや不可解な問いである。吉沢が何を言っているのか、咄嗟に見当がつかなかった。

「あの…」

それしか出てこない。答えようがなく視線を外し、苦しそうにテーブルへ落とした。すると追い討ちをかけられる。

「糸川君、この時期に私が呼び出すのは、どんな要件か分かっているだろ。それを何も持たずに来て如何する。そんなことで、精算業務課の重要なポジションにいるとしたら認識不足だな」

「誠に申し訳けございません。直々お電話を頂き、何ごとやらと頭の中が真っ白になりまして、不用意にも資料を持たずに来てしまいました。大変失礼いたしました」

そして、吉沢を窺がい気味に尋ねる。

「院長、戻りまして資料を持って参りますので、少々お待ち頂けますでしょうか?」

「何だ、君は資料がないと説明出来んのか?」

「あいや、そのようなことは。決してそんなつもりで申したのではございません」

「それなら、行かずに説明したらどうなんだね」

「は、はい。申し訳ございません。それでは、ご説明させて頂きます」

と告げつつ、何を話してよいのか見当がつかなかった。胸の内で推測する。

先程院長が言ったこと、「それで、どうなんだ」とは、一体何を意味するのか?それさえ解かれば、この場を凌げる。そのために時間稼ぎし、その間に考えればと思ったが…。

それも遮断された。一体どんなことか。待てよ、ひょっとして例の件か。絶対バレるはずがないのに、執拗に引き出そうとしている。もしかして、密告されたか…。

いや、そんなことはない。もしそうであれば大騒ぎになるし、こんな呼び出し方はしない。となれば、社内情事のことか。確かにいろんな女に手を出した。はて、内通した奴がいるのか…。

いや、これとてないはずだ。別れた女には、それなりにけじめをつけている。騙した奴はいない。それ故、内通されるほど恨まれることなどないはずだ。…となれば、一体何のことか?

説明すると告げてから、言葉が止まっていた。

「君、何をしている。黙っていては分からん。今説明すると言ったではないか!」

吉沢の叱責が耳に響いた。はっとして口ごもる。

「申し訳ございません」

慌て頭に浮かんだのは、とにかく不突合により発生した未入金分の繰越率だった。それしか浮かんでこない。

院長の立場で病院側から見て、この不突合率すなわち繰越率が低ければ、経営上いいに決まっている。時期も時期だ。この辺の改善率が一番知りたいのではないか。そうだ、そうに決まっている。

咄嗟にそう判断した。

しかし、その説明は先程簡単に済ませたが、繰越率が前年に比べ良化すれば財務的にも資金の潤沢化を意味する。従って、経営的観点から社会的評価を高める効果をもたらすことになる。

糸川は、これだと確信した。

このことを説明せず終わり的が外れたのでは、院長が知りたいことと程遠いものになる。それを言っているのか…。

頭の中で懸命に整理した。そして直視し、ゆっくりと話し出す。

「大変申し訳ございません。端折って説明させて頂いた中に、大きな漏れがございました。それ故咎められたものと反省致します。院長の立場に立った、所謂経営的観点から今回の決算資料として提出させて頂く不突合分の減少率ですが、確かに二千六百件中三十件で一,一%となり、前期に比べますと五十四%の改善率になります」

吉沢の視線など構わず、立て板に水の如く続ける。

「件数で申しますと、前期の五十六件が三十件へと大幅に改善されており、この改善理由と致しまして徹底した期日管理手法を用いたことによります。私共としても、良化したからとてそれでよいと言うことではございません。本来であれば、期日内全件入金の高いハードルを設け邁進することこそ、経営的に考えますれば必要なことと、日々努力している次第であります」

糸川は求められていることだと、自信を持って説き終えた。そして吉沢の期待通りと、内心言ってくれるだろうことを推測する。

そのことが聞きたかった。私の立場を鑑みて、君たちが常に一担当の部分的思考から、病院経営という大局から業務に携わることこそ、大切なものだということを解かって貰いたいがため、少々きつく質問したんだ。

その点をよく理解し、意を汲んで説明してくれた。そういう意味もあり、直接電話し来て貰った。分かってくれたかね。

吉沢がてっきりそう言うだろと、労いの言葉を待った。

だが、違った。

「何だね、何が言いたいのかね?」

「はあっ?」

予想が外れ目を丸くする糸川など構わず続ける。

「そんなことを聞くために、来て貰ったわけじゃない。何を勘違いしているんだ!」

「…」

「君は、私が何を言いたいのか、まだ解かっていないようだな」

望む労いではなかった。まったくの違いに戸惑うほど、思いもよらぬ吉沢の言葉だった。

「と、申しますと…」言葉を詰まらせる。

絞り出すが、頭の中が混乱し何も考えられなかった。言葉を失い、真面に吉沢を視られない。肩を落とし、身体が小刻みに震えだす。

冷酷な吉沢の言葉が、糸川に突き刺さる。

「しかし、君も焼きが廻ったようだな。私が言わんとすることも分からず、よくも精算業務課の責任者をやっているな。通りで、いろんな噂が飛び交っているはずだ」

「…」

言われるままに頭を垂れていた。更に震撼させる言葉が降り注ぐ。

「君もこんなことでは、将来がなくなるぞ」

頭にガンと響き、思わず言い訳する。

「あっ、院長。申し訳ございません。私と致しましても、懸命に熟慮しご説明申し上げた次第でありますが、院長先生の意向に沿わず、勝手な説明に終始し大変申し訳なく思っております」

テーブルに両手をつき、深々と頭を下げた。

「そこまでしなくてもよい。まあ落ち着きたまえ。君の説明が間違っていると言うのではない。確かに病院経営上からみれば、繰越率改善は大きく貢献する成果といえる。

ただ、何だ。それよりもだな。病院経営の効率化も大事だが、今一つ社会的な信用というか、うちのように大規模になると、そこいら辺が重要になってくるんじゃないのか?」

回りくどく言い回す。それでも吉沢が何を求めているのか、理解できずにいた。痺れを切らす物言いになる。

「だからだな。小さなミスでも、コンプライアンス遵守と言う観点からいえば、絶対にあってはならんのだ。まあ例えるなら、簡単な手術でも手を抜いてはいけない。これは病院として当然のことだが。私は医師たちに、日頃口を酸っぱくし言っておる。それは、君らだって知っているだろう」

「はあ、確かに。常日頃先生方におっしゃられていることでございます」

「そうだろう。と言うことであれば、医師のみならず君らのような事務方でも言えることだ。分かるな」

「はい…」

吉沢のじれるような口調に、何が言いたいのか懸命に考えた。ただ、聞くほど奥歯に物が挟まる言い方に、何を問うているのか分からなくなっていた。それでも続く。

「糸川君、それでどうなんだね!」

吉沢がもどかしく語尾を強めた。急かされて困るのは糸川である。

「はあ…」

それしか応えようがない。「それでどうなんだ」と言われても、本意が伝わってこない。それ故返答のしようがないのだ。糸川が黙ってしまった。

吉沢も問を止めてしまう。

糸川が心内で嘆く。

ああ、俺もこれで終わりか。今までの話から察すれば、「まだ、わしの言っていることが分からんのか。これ以上、君と話してもどうにもならん。もうよい。しかし、君も駄目な男だ。後で沙汰すから」と引導を渡されるな。

そう告げられると覚悟した。すると益々負の思考に入り込む。

ああこれで、やっと上り詰めた課長の椅子も追放される。くびか、もしくは左遷だ。

観念し、言い渡されるのを待つ。だが、吉沢から発せられた言葉は違った。

「しょうがない奴だ。ここまで言って分からないなら致し方ない。それじゃ、単刀直入に言う。君に説明して貰いたいのは、さっき言った社会的信用失墜に繋がるものはないか、と問うたことだ。どうなんだ?」

「と申しますと…」

「だから、今言っただろ。うちのコンプラ遵守状況だ。ルール違反しているものはないか。決算発表時に、そのようなものが露見してみろ。今まで築き上げた信用はどうなる。一瞬にして地に落ちるぞ。業績の方も重要だが、こちらの方も大切なことだ」

諭す意図が分かりかけてきた。なおも吉沢が続ける。

「今まで説明した中で、君はわずか一%あまりの繰越率と言ったな」

「はい、三十件ほど次期へ繰り越さなければならない案件。いや、患者数がございます」

「そうだ、そこだ。その繰越分二千六百件中のたかが三十件だが、それを粗末に扱ってはいけない。どうだ、だからそれでどうなんだ…」

その瞬間、吉沢の意図が閃く。

「あっ、院長。丁寧にご説明頂き目が覚めました。私め馬鹿な者で、とんだ勘違いをしておりました!」

「いいや、そんなことはどうでもよい。そこのところを詳しく説明せんか」

「はい、不突合案件が一%で三十件ございますが、すべてきちっとした理由がつけられております。従って、それらは問題ないのですが、コンプライアンス遵守ということから申せば、そのうち一件が引っかかりまして、次期へ繰り越すことになります」

「ほお、そうかね。して、それはどんなものかね。詳しく聞かせて貰おうか」

「では、ご説明申し上げます」

糸川は確信した。院長が知りたがっているものが。だが、何故それを知りたいのか、頭を巡らせる。出た答えに思わず唾を飲む。

そうか、佐久間の奴。とうとう泣きついたか。くそっ…。

更に己の失態に気づく。

うむ、やはり先を越されていたか。筋書き通り進んでいると油断したのがいけなかった。あの時、そうだ。もう少し用心深く、先に手を打つべきだった。

臍を噛むが、後の祭りである。

現にこうして、問われているではないか。現状当院の置かれている状況。それに佐久間医師の社会的信用の高まり、相互に引き寄せられ相成り立っている。ここにコンプラ違反があれば、よもやリークされたら、これはどうなる…。

院長にしてみれば、単なる佐久間の個人的問題では片づけられないし、己に火の粉が降りかかっては困るから粗末に扱えないわけだ。それで、急遽俺を呼んだのか…。佐久間の泣き入れの真意と、そのことが世間に知られた時の重大さを考えているんだ。うむ、俺もとんだ勘違いをしたもんだ…。

長々推考していると、吉沢が苛つく。

「おい、何故黙っている。今、説明すると言ったじゃないか!」

急に黙りこくる糸川に、怪訝そうにせっついた。すると、はっと我に返りまた喋りだす。

「申し訳ございません。それでは、あらためてご説明させて頂きます」

思惑を覆い、絶好のチャンスとばかりに一気に説く。

「この不突合案件は、植草隆二という患者でして、当院に運び込まれてから、ちょうど三ヶ月になります」

吉沢は腐乱に聞き入る。その様子を垣間見ながら誇張する。

「佐久間先生の執刀で命を取り止めましたが、院長もご存知のように、意識不明のまま現在に至り、オペ費用とその後の治療代がかさんでおりまして、更に保険適用も間々ならず…」

少し間を置き様子を窺うと、院長の眼が真剣だった。

よしっ、これでいい。

そう確信し続けた。

「私共と致しても、あらゆる手段で代金回収を試みておりますが、今だ入金の目途なく、この度誠に残念ですが期末決算上繰越と相成ります」

「そうか、それは分かった。それで、君の方はどうなんだ。本人以外に、連絡が取れているんじゃないのか?」

おや、佐久間から聞いたことを、前提にして鎌をかけてきたな。

糸川は素早くそう判断した。

「いいえ、それが。本人の現住所、それに本籍等を当たっておりますが進展がありませんで」

「そうか…」

やはりという表情に変わると、糸川が滑舌になる。

「それに、院長。この植草隆二の案件には、今ひとつ困ったというか、佐久間先生には何度もお願いしているのですが、必要書類を頂いておりません。それがないと次期繰越の不突合資料が完備しなくなるのです。従って佐久間先生には、先日事情を説明し提出期限を定め、ご提出願ったばかりでして」

「それで、その不足書類とは、一体何だ。そんなに重要なものなのかね?」

「はい、特にこの患者については、どうも曰く付と申しましょうか。当院としても、きちっと対応しませんと後々厄介なことが起きる気がしてなりません」

「おいおい、糸川君。そんなに重要なものかね。一体何だね、佐久間君へ依頼している書類とは」

「はい、オペ同意書でございます。今抱えている不突合案件のうち、この一件だけが揃っておりませんで決算期日が迫り難儀しております」

「うむ、オペ同意書か。しかし佐久間君は、どうして早く取っておかなかったのだろうか?」

「私もその辺が不可解で、何度もお願いしているのですが。直ぐに渡すからと言われ都度不履行になっており、うちの担当者も音を上げてしまい、私に相談があり止む無く今回のようなお願いとなった次第でございます」

「おお、それから。君の説明の中で、この件で曰く付とか言ったがどう言うことなんだ。具体的に説明してくれんか」

吉沢が乗ってきたと思った。

「はい、そのように申し上げたのは、少々混み入りますが。判断を誤りますと、病院として信用が失墜しかねないものです」

「うむむ…、どんなことだ」

苦虫を噛み殺し、聞き返してきた。

「と申しますのも、この植草隆二にはこの三ヶ月間誰一人として見舞いに来た者がございません。普通であれば、親なり親族なりがすっ飛んできます。大きな交通事故の見出しで新聞にも載りましたし、佐久間先生の功績ということで週刊誌でも紹介されております。それでも、誰一人として来ないのはおかしいではありませんか。これには絶対裏があるのではと思うんです」

吉沢の気にするところを突くと、頷き鎌をかけてくる。

「その植草とやらは、天涯孤独な人間かも知れんぞ」

「それは、都会での生活かもしれませんが、植草本人の年齢を見ればまだ若い。さらに本籍を調べる限り、そういうことはありません。現に戸籍謄本を取り寄せ調べましたが、親、兄弟それに父親の掲載がありました。ですから、申し上げているのです」

「うむ…」

眉間に皺を寄せる吉沢を覗いつつ、糸川が煽る。

「それに何度督促すれど一円の入金もなく、連絡もよこさず当院にも来ない。こんなことは有り得ないのです。ですから、これは意図的に、そうされているのではと推測されます」

ここで核心に迫る言葉を繰り出す。

「そのために佐久間先生が、オペ同意書を回収できない原因があるように思われるのですが…」

すると、吉沢が反応する。

「ええっ、どういうことだ。糸川君、もしそれが事実とすれば、うちはどうなるんだ!」

「院長、最悪の事態を考えれば、これは由々しきことになります。一般的にいえば、手術前に必ずオペ同意書を取り執刀します。これは万が一、患者らが考える以上の結果が起きた場合でも、この同意書があれば対抗できます。手術する医師にしても、その不安を持ってでは、思い切った執刀が出来なくなるから必要なのです」

「ですが、急患で運ばれた場合は、生命維持を優先させます。これは倫理上からも、社会通念から見ても当然のことでしょう。この場合は事後でも、必ずオペ同意書を貰います」

「この度の植草隆二は、術後も意識不明で本人からは徴求出来ません。従って親族、もしくは血縁者からということになりますが。意図的に出し渋っていれば、よんどころないことでして…」

説明が雄弁になっていた。心内で叫ぶ。

これで、いいんだ。これでな。佐久間に先を越されたが、何とか都合のいい展開に持ち込めたわい。

ほくそ笑み、更に吉沢を追い込む。

「もし、このことが新聞や週刊誌にリークされたら、何と致しますか。院長!」

「えっ、どういうことだ!」

「もし奴らが何らかの意図を持って、ある日突然、そのことを訴えてきたらどうするか。それも用意周到にです」

「何を言う。命を助けてやったんだ。もし佐久間君でなかったら、いや、うちに搬送されなければとうに絶命していたぞ。それを救ってやった。それは世間が認めていることだ。そんな裏切るようなことをやったところで、誰も相手にせん。そう思わんか、糸川君!」

「ええ、一般的にはそうでしょう。今回の件では、今まで社会的に高く評価されてきましたから。特に新聞や週刊誌での扱いは、佐久間先生の処置を賞賛し美化してきました。だが、正当論で切り込まれたら何としますか?」

「何、正当論…?」

「即ち、『お宅の病院は、手術をする場合本人または親族にその必要性を説き納得させた上で、オペ同意書を徴求し執刀するのではないのか』とです」

「いや、『緊急時など生命に危機が迫る場合、まず優先すべきは命の炎を消させぬことだ。それが医師としての本文だ』と、反論すればすむではないか。現に植草隆二は生きている。そう言えば正当性が保てる」

強気な姿勢に転じるところを制する。

「そうかも知れません。それに、いくらかでも入っていれば、法的に同意したとみなされるでしょう。しかし、まったく入金がないのです。『不服だから、あるいは納得できないから、支払いは拒否している』と言われ、百歩譲っても『誠意がない』と突かれたらどうしますか。その根拠として、『命を優先して執刀したことは感謝するが、それが案内文とオペ同意書を送ってきただけだ。本来なれば、納得できる説明をなすため来訪すべきではないか。もし来られなくば、来院を促すべきだ。それが誠意というものではないか』と院長、このように反論さたら対抗できますか?」

糸川のペースだった。先程脅かされたことへの仕返しのような危機迫る話に転じられたのは、己の思う壺だった。

「うむ…」

吉沢が言葉に詰まった。

更に糸川の舌が踊る。

「それで、『お宅では、他の救急患者のオペは、我らの隆二と同様に行うのか。もしそうなれば、病院として誠意が疑われるが、どう釈明するのだ。問いに答えて頂きたい』と、このように突っ込んで来るやもしれない。そう、我が病院と全面的に戦う姿勢で来るかも知れません。更に最悪なのは、ことを大きな波紋にしてくることです」

大風呂敷を広げた。

「そ、それはどういうことだ。何を仕掛けてくるんだ…」

院長がうろたえる。

「私が推測するに、週刊誌です」

「何っ、週刊誌がどうだというのか!」

「ええ、院長。この植草隆二の処置を、うちは利用していませんでしたか?」

「何だ、利用とは。そんなことした覚えはない!」

「そうですか。佐久間先生にしても院長そして理事長も当院に箔がつくように、少なからず利用してきたではありませんか。おかげで、社会的信頼を勝ち得たはずです」

「いや、そんなつもりで各社のインタビューに応じたわけではない。人命の尊重という根幹思想から、その考えや取った行動を話したまでだ。そんな下品な利用だなどととんでもない!」

「院長はそのように考えていらっしゃいますが、もし、植草側が正当論から今回のオペ同意書の件を公開されたら、マスコミはどのように捉えるでしょうね。『化けの皮が剥がれる。人命尊重という美談に隠れた、儲け主義が理念を狂わせた』などと騒ぎ立てられたら、信用は失墜します…。どうなされますか?一患者のオペ同意書未徴求どころの話ではなくなるでしょうね」と念を押す。

「うむ、そんなことになったら何とする。うちの信用が地に落ちるではないか。それこそ病院経営が立ち行かなくなるぞ。ううん、これは難題だ…」

吉沢のこめかみがぴくぴくと震えだし、眉間の皺が深くなっていた。

「その通りです。今後の対応を間違えますと、それこそ大変なことになりかねません」

糸川がここぞと吹いた。吉沢の反応がひっ迫したものとなる。

「そ、そうだ。糸川君、君を直接呼び出したのも、このことなんだ。よく分かった。いや、じつを言うと。君にはすまんが、先程佐久間君がこの件で泣きついて来よってな。『どんなものでしょうか?』などと、他人事のように相談しにきて、わしも君の言うようなことがあるといけないと思い叱り飛ばして、直ぐに取って来るよう檄を飛ばしたところなんだよ」

「そうですか」

尤もらしく糸川が頷くと、本音が飛び出す。

「それで、裏付けが欲しくてな。そんなんで、君を呼んだと言うわけだ」

「成る程、そうでしたか。始めは何のことかと戸惑いまして、院長にはご迷惑をおかけしました。とにかく佐久間先生が、同意書を回収できることを願うばかりです」

「まあ、そういうことだ。それさえあれば、後は何とでもなる。佐久間君は、すっ飛んで行ったはずだ。君の推測もそれさえあれば、とんだ茶番ということになるが。まだ、予断を許さないな」

「はい、申される通りでございます。でも、万が一ということがあるやも知れず、決して油断してはなりません。ですので、院長。どうかこの後の対処を間違えませんよう、ご配慮願えればと存じます」

糸川は己の邪推を力説したことで、院長の持つ肩が、佐久間から己の方に向いたと確信した。

「そうか、分かった。糸川君、有り難う」

「いいえ、どう致しまして。私目でお役に立つことがございますれば、何なりとお申し付け下さいませ。不肖、この糸川。全知全霊をかけ取り組む所存でございます」

「ううん、そうしてくれるか」

「はい、院長の陰になり、お役に立ちとうございます。そのために、重要な精算業務課を預かっているわけでありますから。精算業務というのは、決して患者からの入金だけを扱う業務ではございません」

「そこに必要な添付資料が整っているかも点検しており、強いては今回のような事態が起きないよう厳正に対処し、当院に累が及ばぬよう、コンプライアンスチェックをも行っている次第でございます」

「そうだな、君の受け持つ課の役割は、今後益々重要な位置づけになるな。精々気張って頼むぞ」

「はっ、かしこまってございます!」

「そうしてくれ。頼りにしているからな」

「はい。それでは失礼致します!」

高揚した顔で、頭を深々と下げ院長室を出た。その態度は、まさに筋書き通り運んだことを表わし、してやったりという顔になっていた。

どうだ、佐久間先生よ。院長に怒鳴られ、慌てて植草の自宅へ行きよったか。ざまあみろってんだ。慣れぬ仕事でご苦労さん。まあ、精々気張ってちょうだい。どうせ行ったところで、そう簡単にサインを貰えるものですか。素人の佐久間さんには無理な相談だと思いますがね。行って貰えるなら、とっくに回収できていますようってんだ。

そうなれば、こんな風にはなるまい。まあ、今だにうんともすんとも言ってこねえんだ。今さら行ったところでどうなるものでもないぜ。院長も奴さんにえらいことを言ったもんだぜ。佐久間も災難としかいいようがねえな。

さあ、これでいい。後は奴がまた泣きつくまでに、次の一手を打っておくか。今度後れを取ったらどうにもならんからな。

歩きながら、にやつくのを抑える。そして、何となく足取りが軽くなっていた。





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