やはり日々病院ともなれば、医師も多く充実している。そのわけか、各医師に個室が用意されていた。佐久間は一ランク上の部屋だ。当然といえば当然である。

脳外科専門医として名声を轟かせ、社会的に認知された彼は、院内ても他の医師にひと目置かれ、看護士らの間でも尊敬の的となっていた。

病院側とて当然の如く、佐久間には別格の個室を与えざろう得なかった。それは他の医師にない、専属事務員がいることでも、神経を使っていることが覗える。

そんな個室は、一般企業でいうなら社長や会長の専用階の下の階というところか。専務、常務らが執務する専用階があり、その並びの部屋が彼の居るとこである。役員待遇の扱いなのだ。

それだけ優遇されていた。

それもこれも、植草隆二を執刀したことに起因している。佐久間がヒーロー化しマスコミが派手に取り上げた。さらに連日のテレビ報道により美化される。

そうなると病院側とて、他の医師と同じ扱いにはできない。マスコミは、佐久間の偉業を称えると同時に、その環境を作る素晴らしい病院であることを取り上げた。それは当初、生命の大切さや尊厳から始まり、当院の慈愛の精神にまで及ぶものとなりシリーズ放映化されたのである。それにより、社会的信用が大きく跳ね上った。更に病院経営にも及ぶに至り、理事長や院長までもが範たる証となって名声を得ていた。その成果が、今の執務室ということになる。

佐久間医師のオペは、隆二の手術後も多くなった。と言うのも、患者側の要望が後を絶たず、応える彼の執刀は尽く成功を収めた。そのことが看護士や事務職員、そして治癒した患者や親族らの伝播により広まり、またマスコミが騒ぐ。すると、遠方からも横浜日々病院へと入院患者が集まっていた。さもあろう。

「あの先生に手術をお願いすれば大丈夫。助からないと諦められた病人でさえ治してくれる」

そんな噂が飛び交い、美化が一人歩きした。そのことが事実でなくてもマスコミがそのように作り上げ、今や佐久間は飛ぶ鳥落とす勢いの医師として、医療業界のみならず一般社会でも名声を得ていたのである。

その結果、佐久間は多忙を極めた。オペスケジュールもカレンダーにびっしり埋まり、更にはテレビ出演や雑誌の取材と病棟内の受持ち患者の回診と息つく暇がなかった。

必然ながら術前にオペ同意書を、本人もしくは親族から取ることも重要な仕事である。患者側からの要望が多いとはいえ、執刀に先立ちどのようなオペを行うか説明し、納得して貰った上で同意書を求める。生命を扱う医師として当然のことであり、更に彼の専門が脳外科となれば他の臓器より危険度が高い。場合によっては、頭蓋骨を開き執刀しても、病状改善がみられないこともある。 また、オペ後死亡する例もあるのだ。そのような事態に備え、必ずオペ同意書を徴求しておかなければならない。

当院での執刀には、原則として事前取得が規則である。病状進行から手術が必要になった時、本人や親族に告げ取得後オペに入る。脳外科の場合は時間的余裕がなく、オペが急がれる。けれど、患者は執刀直前になると不安が頂点に達し、それから逃れようと精神的に追い込まれる。そのまま断行し治癒すれば、本人や家族は喜び感謝の意を表わす。当然、医療費支払いもスムーズに行くが、改善なき場合は、支払いに影響するのは自明の理だ。医師の説明を一応は聞くが、感謝の意など持たれない。言い訳がましく、「オペ同意書にサインしたが、正式に同意したわけではない。それを充分汲まず執刀した結果、こんなことになった。どうしてくれる」となる。

ややもすると、患者側と病院間のトラブルに発展しかねない。そんな事態は極力避けたい。医療におけるトラブルは解決が難しい。 そのため、このような事態が起きぬよう、必ず同意書を求めるのだ。

この手続きは脳外科や脳神経外科だけではない。盲腸、胃潰瘍、癌摘出手術に至るまで徴求し臨んでいる。

当院でも、患者との不必要な摩擦を避けるため、事前に徴求が義務づけられるが、問題は急患の緊急オペである。その判断は開院時間内であれば院長の許可をとり執刀するが、夜間急患で、当直医による処置診断の結果緊急オペが必要と判断された時である。

この場合は人道的にも社会的正義からも、医師の判断により行うことが許される。そして手術後に、本人または親族からオペ同意書を貰う。

このように、当院でも夜間等の緊急患者もしくは急変患者については、事後で徴求していた。これは患者側からも支持されるし、社会的にも認められる方法だ。だからと言って、術後が当然ということではない。そうであっても患者や親族に対し、誠心誠意の説明責任を負うのである。

今までこのような緊急オペ、特に土、日曜日それに夜間の場合など、おおかた了承されトラブルにならなかった。むしろ医師の適切な判断で一命を取り止めたケースが多く、感謝される方が大多数だったのである。

そんなことで、佐久間としては当然の如く、瀕死状態の植草隆二については、オペ同意書を後回しにし緊急オペを優先させた。その結果、消えかけた命を取り留めた。しかし、一つ何時ものケースと違いがあった。佐久間は事務方ではない。元来医師であり、第一義に命の尊さを身上に励む。手術代や治療費が何時入金になるか、いくらになるかなどは頭にないことである。

患者の命を救う。そのことに全エネルギーを注ぐ。それだけである。ただ、現実的に必要なのが医療費等の事務的請求業務である。カルテに基づく事務方任せになっていた。但し、説明責任とオペ同意書の徴求は医師の担当である。

佐久間としては必然的に同意書の徴求に、植草隆二の所持品の運転免許証から自宅へ同意書を送付した。

ただ実際の業務は、専属事務員の多田智子が万事手配する。だが、同意書は戻らなかった。佐久間は多田を通して、時田からの提出要請は受けていた。多田にしても自宅へ郵送し、戻らぬため本籍住所へと送付した。と言うのも他の患者と違い、誰一人として隆二の下へ来る者がいなかったからである。

それとて、佐久間にしても気に留めることではない。彼の心配ごとは医師の立場として受け持つ患者の病状であり、刻一刻と変わることの方が重大な関心事であった。それこそ、命を預かる者として当然のことである。受け持つ患者には、いろいろな病状がある。治癒に向かう者、現状維持の者やなかには病状進行が早く早急にオペが必要な患者と、彼に休息を与える余裕などなかった。

それ故佐久間は、日ごと医療業務に追われていたことになる。ただ今までと違うのは、彼専属の事務員がいることだ。それは今回の件に端を発し、病院側が意図的に付けたものである。それにより、医療事務や病院外の業務のスケジュール管理が、彼女の手によってなされていた。ただ佐久間がせねばならぬ業務、たとえばオペや回診に係わるもの。それに報道や雑誌社との打ち合わせなど、今までにない業務量増大の中で忙殺されていた。

そんなある日、精算業務課の時田から多田を通じて、佐久間に連絡が入った。用件は彼が執刀した植草隆二の件で、「今まで私が担当していたが、事情があり精算業務について牛島に代わる。ついては、その挨拶のため都合のよい日を教えて欲しい」との内容だった。多田と打ち合わせ、スケジュールの詰まる中時間を割き二十分ほど割り当てた。当然の如く、新任の牛島と責任者の糸川が赴く旨伝えられた。

その日が、今日の午後二時である。回診前の限られた時間だ。佐久間にしても、これは多忙さを理由に、先延ばしや断るわけにはいかなかった。何せ植草隆二のオペ同意書が、まだ手元にないことで、当然状況説明をしなければならない。要件としては、自分的にはさほど重要なことではなく、一連の説明を行い疑問点があればその説明をすれば終わる。造作ないと考えていたし、それよりも患者の問題が山積していたのである。

佐久間は当日も昼食を摂ることも間々ならず、医療業務に専念していた。事務の多田から告げられ気づく。

「そうだった、忘れていたぞ。確か今日だった。午後二時に来ると言っていたんだよな」

「そのようになっておりますが」

多田が相槌を打つ。

二時を少し廻っていた。執務室の椅子に腰掛けると同時に、ドアをノックする音がする。

「精算業務課の糸川でございます。佐久間先生はいらっしゃいますでしょうか?」

ドア越しに聞こえた。

「はい、いらっしゃいます。どうぞお入り下さい!」

多田の忙しげな声が返った。

「それでは失礼して、お邪魔致します」

ドアが開き、糸川の低姿勢の顔が覗き、腰を折り入ってきた。

「どうぞ、こちらへ」

仕切られた応接ソファーへと通される。

「すみません。先生の忙しい時にお邪魔しまして。いや、要件の方は直ぐにすませますから。あっ、それと。先日電話で話をさせて頂きました、新任担当者も連れて参りましたので宜しくお願いします」

多田に要件を告げた。

「分かりました。佐久間先生にその旨伝えてあります。少々お待ち下さい。今、外線から電話が入ったようなので、終わり次第こちらに参ります」

「はい、お待ちします」

「あの、糸川課長。先生は大変お忙しゅうございますので、要件の方はなるべく簡潔にお願いしますね。仔細は、後程私の方で受け賜わりますので、ご配慮下さいませ」

「承知しております。佐久間先生は、今やうちでは、いや、医療業界で飛ぶ取り落とす勢いのある方です。単なる引き継ぎの挨拶ごときで、わざわざ時間を割いて貰うなど滅相もないことでして。ただ、例の件につきましては少々混み入っているものですから、私目も参りましてご説明方々、直接先生の耳にも入れておきたくまかり越した次第でございます」

丁重に物申した。更に、「その後のお願いごとについては、まあ、先生が直接手配されるかどうか存じませんが、先生のご意向なれば多田さんに詳しく説明致しますので、その際はお時間の方を取って頂ければと思います。牛島共々別席を設けますので、宜しくお願い致します」

前置きは長かったが手はず通り話し、暗に同席無用と知らしめた。

「分かりました。それでは電話が終わり次第、こちらに来るよう申し伝えます。それでは失礼します」

軽く会釈し下がった。

佳織と二人きりになる。ひと息つくように、ソファーに深く座り直すと、糸川がそっと彼女の尻下に手を差し込む。弾力のある感触を掌で味わう。

「駄目よ。こんなところで…」

小声で言い、払いのける。

「いいじゃないか。先生はまだ来ないし、少しぐらい…」

強引に弄る。

「こらっ、嫌だってば。来たらどうするの…」

佳織が尻をよじる。

「ああ、こんなに密着していると感じてきっちゃって、夜まで待てないよ」

「駄目だってば」

糸川から離れて座り直す。

「ちぇっ、けちんぼ!」

ほざき嘯く。

「佳織、それじゃこれからの話、段取り通り頼むぞ。余計なこと話したら、今晩のあっちは手を抜いてやるからな!」

「ええっ、そんなの嫌よ。さっき約束したじゃない。いっぱい可愛がるって言ったでしょ。だからちゃんとやるわよ」

「うん、それでいい。手はず通り頼むぞ。俺の方で話しを進め、必要な時に振るから合わせてくれ。後は俺の話すことに、あまり口出しするな。分かっているよな」

「何度も聞いているから、大丈夫!」

それから暫らく待つが、なかなか佐久間は現れず十分が過ぎる。糸川がイライラし出すが、こちらから仕掛けたことだ。待ち草臥れたからと、キャンセルし戻るわけもいかない。いい加減焦れていたが、ひょいっと衝立の向うから佐久間が顔を覗かせた。

「悪かったね。ちょっとトラブル患者の親から電話でね。長くなってしまったよ。ところで、何だったっけ。ああ、そうそう。植草の担当が代わるんで、紹介すると言っていたんだよね」

佳織の方を見て、「君かい?」座りながら尋ねた。

「ええ…」

「おっと、先生。すみませんね。お忙しいところ、時間を取って頂きまして」

糸川が告げると、佐久間が応じる。

「あいや、いいんだが。ただ少々忙しいから、あまり時間をかけられないんだ」

「分かっております。それじゃ早速、紹介させて頂きます。例の植草隆二の請求業務を、この牛島が担当致します」

紹介し、佳織に振る。

「はい、この程担当致します牛島佳織と申します。宜しくお願い致します」

立ち上がり挨拶する。

佐久間が上目遣いに、お辞儀した際の胸の谷間を盗み見つつ告げる。

「ああ、こちらこそ。何時も世話になっているね。この前も前任の何て言ったけ、ええと、うちの多田君を通じて。そうそう思い出した。時田君といったね。今度は君が担当になるんだ。これからも迷惑をかけるが、宜しく頼むよ。僕の方もいろいろ忙しくてね」

そこで糸川が口を挟む。

「そうですよね。先生はうちでは売れっ子だし、何と言っても脳外科じゃ権威者だ。オペの方も順番待ちがあると聞いています」

佳織に目で振る。

「やっぱり、先生はすごいですね」

調子を合わせた。佐久間が息高々になる。

「いいや、それほどでもないがね。私はどんな難手術でも、何とか救ってやりたいと執刀しているんだ。幸い成功率が高いから、結構依頼が多いんだな」

すると賺さず、糸川が持ち上げる。

「さすが我が病院の名医だ。事務方の我々としても、先生のような立派な方がいると鼻が高いですよ」

「そうかね…」糸川のおだてに、まんざらでもなさそうに頷いた。

「ところで、糸川君。本題は何かね。君のことだ、単なる担当替えだけで来たわけないんだろう」

佐久間が急かせると、糸川が低姿勢で応える。

「先生はやはり鋭い。そこまでお見通しでしたか」

「決まっているじゃないか。こうみえても、ここの高度専門医療技術を持つ医者だぜ。オペにしても、夫々患者の病状を分析した上で手術に向うんだ。同じような病状でもすべて違う。そこを間違えたら、とんでもないことになる」

佐久間が鼻を尖らし説き、「そこいら辺が、他の医師との違いだ。そこのところは、君らだって分かるだろ」更に偉ぶった。

「それは、大先生のことですから。オペの成功率は飛び抜けていらっしゃいます。それはもう、私らの課内でも皆先生を尊敬の眼差しで褒めています。なあ牛島君」

佐久間を飾り立て彼女に振る。

「ええ、その通りです」段取り通り持ち上げる。

「ううん、そうかい。私を、そのように噂しているのかね」

牛島のミニスカートからはみ出る太股の辺りを見ながら、佐久間が嘯いた。

「そりゃそうです。我が課だけではありませんよ。うちの病院で大方の部署で持ちっきりじゃないですか?それじゃなければ、こんな立派な部屋を持たせてくれるものですか。先生だって分かっていらっしゃるくせに。うちの理事長など、けちで有名なんですから。他の医師たちの処遇を見て下さい。他にいませんよ」

糸川が持ち上げると、佐久間が謙遜する。

「まあまあ、私のことはいいじゃないか。君らもあまり他の先生の悪口を言ってはいかんぞ。それでなくても、嫉妬され恨まれても困るからね」

「そうですね。そこまで、私らのような馬鹿は考えませんでした。以後気をつけます」

「そう願いたいね。まあ私としては、腕の差は歴然としているから致し方ないと思っているが、私ばかりが抜きん出ては妬まれるのが落ちだからね」

「それはそうと、君らは知っているかね」と佐久間が話題を変えると、糸川が尋ねる。

「はあ、何のことですか?」

「いやいや、つまらん噂だが、H医師が言っているそうじゃないか。『たまたま大きなオペが二、三成功し、マスコミが騒ぎ社会的に認知されたからと有頂天になっているんじゃないか』と嘯いているらしいんだがね」

「確かにH先生が、そんなことを言っているのを耳にします。そうだよな、佳織君。君らの仲間内でも、噂を聞いているだろ?」

糸川は彼女に振るが、これは事前の打ち合わせになかった。咄嗟に出され「ええ、確かに噂を耳にしたことはありますが、そんなに騒がれていませんよ」と持ち上げるどころか腰を折る。気取る佐久間の笑みが消える。

「そうかね。まあ、それならそれでいいんだが…」そこまで言い、語尾が切れた。

その場の和やかな空気が急に醒め、これはまずいと糸川が割り込む。

「そうかい、佳織君。そんなことないだろう。私なんか、課長連中と会食をする度に、その話が必ずといっていいほど出るぞ」

佐久間と佳織の顔を見比べながら、胸中で持ち上げろと言わんばかりに繕う。気づいたのか佳織が覆す。

「確かに、H先生の話を聞いています。そんなこと言うのは、佐久間先生についていけない落第医師なんじゃないですか」

慌てて繕った。

「そうだろう、牛島君もそう思うだろう。私も医師として、患者の命を救う上で、いの一番に考えてオペをするんだ。それをいい加減な気持ちで執刀しては、成果なんか上がらんよ。なあ、牛島君」

佐久間の表情が緩むと、「はい、その通りでごいます」と繕った。するとすかさず、糸川が持ち上げる。

「先生、ごもっともです。H先生の噂は妬みそのものじゃなですか。そんな先生は我々としても、敬拝するわけにいきませんよ」

「その通りだ。ところで糸川君、本題に行こうか。僕も時間がないんでね」佐久間が中断しせっついた。

「あっ、そうですね。失礼致しました。お忙しい先生のことも考えず申し訳ありません」詫びを入れ、襟を正す姿勢になる。

「それでは単刀直入に申させて頂きます。私どもは、今期末決算を迎えるに当たり、決算用の提出書類を作成しております。…赫々伝々」

糸川が要領よく趣旨を説明した。受ける佐久間は、悪びれる様子もなく尋ねる。

「それが、どうかしたのかね?」

「はい、この度私どもでは牛島へ担当を替えるため、植草隆二の精算不突合書類を作成しておりまして…」

そこまで糸川が話すと、佐久間がやおら遮る。

「植草隆二か、あの時は苦労したよ。オペもほとんど私一人で行ったからな。何せ、早朝運び込まれたんだ。彼も運がよかった。ちょうど僕が当直をしていたからね」

聞きもしないのに、自慢気に喋り出していた。

「ええ、先生。おそらく一時間でも、オペが遅れていれば助からなかったんじゃないですか。随分大怪我だったそうですね。あれだけの怪我では、普通なら助かりませんよ。権威ある先生のおかげで、命を取り止めたんですから」

「ううん。まあ、そういうことだな」

糸川の持ち上げに気分よくしたのか、満足気に応えた。

「先生、その植草なんですが。私どもで手術代やその後の治療費の支払ってくれそうなところ、すべて手配したんですが。いまだに入金がありませんで。まあ、そのことは先生に係わりないのですが。困ったことに提出書類で、ひとつ問題がありまして…」

わざと言いづらそうに切り出した。すると、佐久間が訝り気味に尋ねる。

「何だね。その問題とは、言ってみたまえ」

それでも触られたくないところだろうと、糸川が牽制する。

「いや、いや、先生。大したことじゃないんですが、期末決算を病院としてやらなければなりません。従って当精算業務課としては、先程申しましたように不突合資料を作成しておるので」

「君、何度も同じことを言わなくてもよい。だから何だと言うんだ。請求業務は君らの仕事だろ!」

「はい」

「だったら、実際入金がなければ、その通り書類を作り提出すればいいじゃないか。それとも、私がオペをやったことがいけないとでもいうのか!」

頭に血が上ったのか、突っ張り気味に発した。

「いいえ、とんでもございません。そのようなことを申し上げているのではありません。先生が取られた処置にクレームをつけるなど滅相もないことです」

「それじゃ、何が言いたいのかね!」

「はい、じつは資料を作成している中で不足している書類がありまして、以前にも前任の時田からご提出頂けるようお願いしていたはずですが…」

すると声を荒げる。「何をだ、何を出せというんだ。わしは知らんぞ、そんなこと!」

「あれ、確か時田が言うには、先生に今まで二回程ご提出下さるよう、依頼申し上げたと聞いておりますが。そうだよな、佳織君。時田君から引き継いでいるよな」

「ええ、過日引き継ぐ際に、懸案となっている書類として植草隆二の書類を貰い尋ねたところ、そのように話しておりましたが」

「何を言う。そんな話わしは覚えておらん。君らも知っての通り、オペ執刀やその前の患者らとの話し合い。それに入院患者の回診等多忙を極めている。そんな事務員のたわごとなど、いちいち覚えていられるか。君らには、それくらい分かるだろ!」

佐久間が白を切る。

糸川は、しめた、こちらの筋書きに乗ってきたぞ!と思わず、心の中で叫んた。

ここだ。ここで突っ込む!そう判断し、段取りしていた筋書きに従い、佳織に振る。

「恵理子君から引き継ぎした書類、君が持っているよな」

「ええ、持っています。佐久間先生にご依頼した日時がきちっと経過記録書に記されていましたけれど」

聞き及び、佐久間が惚ける。

「何を言う。日時だと、依頼しただと。記憶にないな…」

すると、佳織が畳み掛ける。

「あらそうですか、それを読みますと、先生が応えた事柄も記載されておりましたが」

「そうだったかな。ううん、待てよ。そう言えば、そんなこともあったかも知れん。僕も多忙で失念していたかもな…」

佐久間が濁しつつも言い訳した。すると、佳織が庇うように話を向ける。

「先生もお忙しいですからね。事務的なことなど多田さんに任せていらっしゃるし、先生にはもっと大切なお仕事が沢山ありますからね」

「まあ、そうなんだ。オペや回診がスケジュール表に一杯詰まっていてね。確かにそう言えば、君のところの事務員に言われたことがあったな。でも、はっきりした記憶はないが」

尚も佐久間が惚けると、「あら、そうですか。先生、それを読みますと、『近いうちに送られてくるから。もう少しで揃う。迷惑をかけてすまない。来たら直ぐ君に連絡する』と、このように書かれておりますが、何ならお見せしましょうか?」畳み込んだ。

佐久間は白を切れなくなる。そこまで言質を取られているとは思いもよらなかった。そこで更に、佳織が突く。

「先生、何の書類だか、私も糸川も話していませんが、先生は分かっていらっしゃいますよね」

「…」

佐久間は言葉を失った。

ここぞとばかりに、糸川が追い討ちをかける。

「先生、困りましたね。確かに急患だ。先生の採られた行為は絶賛され、賞賛されていることは認めますが、それは生命を救うという本質からすれば、誰も咎めたりはしない。事後徴求でも止む終えない。それは他の先生方も、大怪我した患者が運び込まれれば、杓子定規に先に取ることなどせず、オペを優先するのは当然だ。けれど、その後必ず徴求していますよね」

「…」

どうにもならず佐久間は、仏頂面し目を閉じていた。

糸川が更に突っ込む。

「私どもの仕事は、先生方が行ったオペ代や治療費用等を、本人または親族から支払って貰う業務です。但し、診断書やその他の必要書類が揃い、初めて請求行為を行うことが出来るのです。本来であれば、未完備のままでは受け持たないのですが…。

しかし、佐久間先生の場合は特別だ。我々としては、一部不整備でも先生に逐次お願いしている。その答えが、必ず徴求するとの返事なので、あらゆる通信手段で請求書を送っていますが、今だに入金がない。

我らとしても、何故入金がないのか熟考した。いろいろな場面が想定されます。一番恐れることは、支払いを拒絶する何かがあるのではないか、と言うことなんです」

ここまで追及され、苦し紛れに反発する。

「何だそれは。君は私を脅迫しているのか?」

「いいえ、先生を脅迫するなんて、とんでもない。ただ、考え行きつくところが、そこだっただけでして。なにも…」

「そうなんだな」

「いや、ですから。このままずっと請求を続け入金がなく、たとえば訴訟を起こすとなれば、どうなるかと考えましてね」

「いいじゃないか、払って貰えなければ、支払って貰うようにあれこれ実行する。訴訟手続きだって取ればいい。それが君らの仕事じゃないかね。それに私を絡ませようと考えているのか。ははん、もしかして未払いの原因を、私に押し付けようとしているんじゃなかろうな?」

佐久間が猜疑な目線で反論した。すると見透かすように、糸川が心の内で叫ぶ。

いいぞ、その調子だ。筋書き通り乗って来い。佐久間よ、もっと突っ込んで来い!

魂胆と決め付けたことで、佐久間の顔色が変わり更に反発する。

「君たち、いい加減にしてくれないか。よりにもよって、そんなことを話したくて来たわけではあるまい。もし、そうなら僕は忙しいんだ。君らの責任回避の話に付き合っている暇はない。帰って貰おうか!」

強い剣幕で言い放った。

「いや、先生。私どもはそんなつもりで申し上げているのではございません。私共の業務を擦り付けるなんて、滅相もない誤解です。ですので、もし話し方に誤解があるなら、お詫びします」

佐久間の怒りを和らげようと、糸川が取り繕った。

「君、僕はそんなつもりで言ったんじゃない。つい、君らの仕事を、何だか私の落ち度のように聞けたんで、思わず怒鳴ってしまった。私としても、立場上そのような些細なことで怒るのも大人気ないし、皆に頼られている身だ。つい、忙しさ故に暴言を吐いてしまった。糸川君、勘弁してくれ」

落ち着きを取り戻したのか、佐久間が冷静に言い訳した。

「いや、先生。私の説明不足で、ご迷惑をおかけしてすみません」

成り行きを判断し、マジ顔で謝罪し、具体的要件を伝える。

「それで、誠に言いづらい話で恐縮ですが。いや、これも規則で私共では何ともし難く、ご多忙の先生にはこのような些細なことをお願いするのも恐縮ですが、是非とも植草隆二のオペ同意書の方、宜しくご提出の程お願いしたいのです」

丁重に要請し、尤もらしい理由を加える。

「期末決算を控えており、この件の未入金についてはまったく先生に関係のないことで、むしろ私らの努力不足が問題と心得ております。ただ、病院としての決算書類は整えなければ、今度は院長にも迷惑が及ぶ結果になりかねません。それは何としても、先生とご協力させて頂き、回避せねばならないのです」

佐久間をやんわりと攻めた。そして、究極のカードを切る。

「それで、何ですが。口頭だけでお願いするのも失礼かと存じまして、簡単な書面にいたし、お持ちさせて頂きました」

封筒を佐久間の前に差し出す。

「ううっ…」

佐久間の返事が詰まる。その様子を見定め続ける。

「先生、ところで…」

封筒の中から書面を取り出し、テーブルに置く。佐久間の視線が走った。

「こ、これは何だね…」

「はい。先生がご担当の、植草隆二のオペ同意書回収に関する、ご提出期限を定めたものでございます。期日につきましては、決算書類最終期限の二日前とさせて頂きました。まあ本来であれば、今までのご返事からですと、直ぐにでも頂けるようなお話でありますが、いや、先生もいろいろお忙しそうですし、特別にこのようにさせて頂きました」

念を押し、嫌味ったらしく告げる。

「先生のことですので、充分な期日かと存じます。頂戴しましたら徹夜してでも書類を完成させ、病院側に提出したいと存じますので、ご手配の程宜しくお願い致します」

正視しながら、重口で告げた。

佐久間が苦しそうに漏らす。

「分かった…」

「そうですか、先生宜しくお願いします」

糸川がしたり顔で頷いた。すると、少し間が空く。そこで素早く佐久間が頭を回転させ発する。

「糸川君、どうなんだね。こんなケースは他にもあるのかね。四六時中、僕も忙しいもんだから。いや、誤解しないでくれ。取れないと言っているのではないぞ。必ず期日までには廻すから」

「はい、先生。そのように願います。万が一など、そんなことは先生に限ってないと存じますが、もし期限が過ぎますと、植草隆二分については、未完備のまま提出しなければなりません。そうなりますと、私は院長に呼ばれ上司の業務部長共々、何故こうなったか釈明せねばならなくなります」

糸川が脅かしをかけると、「そうかね、それは難儀だな…」仏頂面になった。

「ところで先生、先程の問いなんですが。あまり例のないことでして、私共と致してもどのように対処してよいやら戸惑っておりまして」

「そうか、あまり例がないか。けど、まったくないわけではないんだろ?」

糸川の素っ気ない返事に、佐久間が未練たらしく鎌をかけた。

「以前ありましたが、ここ三、四年の決算では発生しておりません。そうですね、ちょっと待って下さい」

もったいぶる様に佳織へ振る。

「そう言えば、佳織君。昔、君の持分で一件あったよな」

すると、筋書き通り答える。

「ええ、確か五年前だったように記憶しています」

「ほう、それはどの先生の患者だったのかね」割り込み佐久間が尋ねた。すると、佳織がこれも想定通りとばかりに話す。

「はい。あの件は、そうそうすでにうちの病院にはおりませんが、伊藤先生の患者でした。やはり、先生にお願いしておりましたが、なかなか頂けませんで。随分苦労したことを覚えております」

「そうかね、それでどうしたんだい?」

「はい、提出日の一週間前になっても揃わず、課長にお願いし、一緒に先生のところへお伺いした記憶がございます」

「成る程、それで糸川君、それからどうしたんだね」

「あの時は私も立場上困り、伊藤先生に直談判させて頂きました。先生は、『分かった』と言って、翌日私のところへ持ってきて頂きました。先生曰く、自ら患者の自宅へ行き、本人が不在だったので父親にサインして貰ったそうです。患者はフーテンで家に寄り付かず、同意書在中の封筒がそのまま放置されていたそうですよ」

これ見よがしに説明し、更に続ける。

「それで、七十歳過ぎの父親に事情を説明して、やはり自動車事故の急患で運び込まれ、緊急オペで命は取り止めその後回復し健康体に戻ったらしく、そのままふらついているとのことです。息子の命を救ったということで随分感謝されたそうですが、肝心のオペ同意書が貰えず仕舞いになっていたらしいんです。

何でも、幾度も手紙は出したそうですが、何せ親も年をとっており、息子に来たものだからと、未開封のままにしていたとのことでした」

「そうかね、それは伊藤君も難儀したんだな…」

「ええ、そうですね。何せ先生方には、こういうことには不慣れですからね。まあ、どうしても医療の方に目が向き仕方のないことですが。尤も一般患者でも手術を行う場合、本人もしくは親族に、病状を説明し納得して貰った上で、同意書を取って手術を行うわけですからね」

「ただ、急患の場合は、そんな悠長なことは言ってられない。当然ながら、事後になるのも当たり前だ」

例外もあると佐久間が口を挟んだ。すると尤もらしく同調する。

「そうですよね、先生」

「ああ、その通りだ。医者たるもの、生命の危機に直面している時に、やれ同意書を取るだのと規則通りには行かんものさ。そんなことをしている間に、心臓でも止ってみろ。医者として失格だ。

特に交通事故や自殺未遂などの場合は、一刻も早く蘇生処置を施し延命を図る。そのために、どんな苦労もいとわず全力を注ぎオペを行う。それが医師としての本文だ」

正当性を主張するが如く強調すると、「そうですよね。先生方は己のことはさて置き、患者のために全力を傾ける。我らなんぞ、とても足元に及びませんです」糸川は歯の浮くおせいじを振り撒いた。 

企てた計画に陥れるための方便である。

「糸川君、君は我々医者の心情を汲んでくれる理解者だ。有り難いことだ」

「いいえ、とんでもない。私なんか、単なる事務処理屋に過ぎません。そんな先生のように、高等レベルでの思考など持っておりませんから」

そこまで言うと、横から佳織が口を挟む。

「課長の言うことは本当です。佐久間先生の爪の垢でも煎じて、飲ませてやりたいくらいです」

「おいおい、佳織君。それは言い過ぎじゃないか」

糸川が照れつつ制した。

すると、佐久間が告げる。

「何を馬鹿なこと言っている。いずれにしても君らに迷惑はかけられんから、至急多田君に手配させる。何とか期日までに間に合わせるから、待っていてくれたまえ」

「宜しくお願いします。先生、本日はご多忙の中つまらぬ願い事で恐縮しておりますが、ご手配の程お願い致します」

糸川と佳織が立ち上がり深々と頭を下げ、佐久間の座る応接を後にする。執務室を出る際にも、揃って声高に発する。

「では、先生。植草隆二のオペ同意書、期日までにお取り揃え頂きますよう、宜しくお願い致します!」

そして、部屋を出て顔を見合わせる。

「佳織、やったな!」

「ええ、やったわね!」

「これでいい。後は…」

「そうね…」

満足気に言葉を交し、腕を絡ませる。交わす二人の視線が絡み合っていた。







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