五
つい、何時もの癖で。危なく手を出すところだった。今日のところは、植草の件を最優先で片づけにゃならない。恵理子をかまっている時間はないんだ。
糸川は欲望を抑えた。ふと思う。
どうだ、彼女の態度。俺を欲しがっている様子がありありだ。ここでひと押しすれば間違いなく陥せるが、まあ、今日のところは止めておこう。明後日にはものにできる。焦る必要はない。
目尻が下がっていた。
今夜でもいいんだが、佳織との約束もあるしフッキングは避けんと。楽しみを後回しにするのもいい。それに、少し焦せらせた方が激しく求めてくるもんだ。
つらつら考えていると、恵理子が物欲しそうに尋ねる。
「あの…、他にありませんか?」
ついと、己の世界に入っていた。
「おお、ちょっと考え事をしていた。すまないね。そうだな、今日のところはこれくれいにしておこうか」
「はあ…」
がっかりする様を見せた。その態度に糸川の目が光るが、欲望を抑え告げる。
「ううん、そうだな…。あっ、そうだ。期末決算用に提出する例の書類、期日が迫っているだろ。君には重荷だろうから、この期末まで担当の方を替えてあげよう。とりあえず、佳織君辺りに頼もうと思うんだ。いいだろ」
「ええっ、そ、それは。課長、私がちゃんとやらなかったからですか。だから、担当を外すのですか?」
「あいや、そうではない。そんなつもりで言ったわけではない。なあ、恵理子君。落ち着いて聞いてくれ。と言うのは、期末決算は当課にとって非常に重要なんだ。特に不突合患者の経緯報告と入金予定は、一件たりとも不明瞭であってはならない。それからいうと、君が担当する植草隆二はどうだ。現状では入金予定すら立っていない。また、交渉経過にしてもほとんど手つかずだ」
そこまで言い、気を使うようにひと呼吸入れる。
「まあ、本人の自宅には請求書を送っているがそれだけだ。これでは何時入金になるか、皆目見当がつかんよな。それが決算までに入金日が決まっていれば問題ない。更に、たとえ期を跨っても何時入金になるか確約でもあれば、病院としても許されよう」
直視し説得する。
「恵理子君、どうだ。今言ったことのうち、一つでも確実なものがあるかい?」
「…」
反論しようがない。何もないのである。すると、昨日のことが甦るのか、俯き加減に涙目となった。糸川が優しく説く。
「こうなったのも、私がきちっと君の仕事を見ていなかったのが、ここまでにした原因なんだ。だから君に責任はない。しいて言えば、私の管理責任だから、君に咎めが及ばぬようにするには、この患者の担当から外れた方がいい」
慰め言い含める。
「そのままにしておいたら、全責任が君に及んでしまうじゃないか。それを止めるのが僕の役目だし、今やってあげられることなんだ」
恵理子は心遣いを聞き耐えられなかった。
迂闊にも、昨日課長がそこまで庇ってくれ、叱責しているとは気づかず、咎められたことで泣きながら帰ってしまった。そして、今日も遅刻するなんて。
糸川の思いやりが胸に染みた。
私って、何と浅はかなんだろう…。しゃくり上げていた。
「有り難うございます…」嬉しくて、切なくて。そこまでしか言えなかった。
糸川が優しく肩に手を掛ける。すると、耐えかねたように糸川の胸に顔を埋めていた。
「課長!」
反射的に抱きとめ、後ろに廻した手で尻を弄る。
「ああ、課長…」
彼女の甘い吐息が、糸川を刺激した。目を閉じる彼女の顎を指先で上げ、優しく口づけをする。待ち望んでいたのか、積極的に受け入れた。長いキスが終わり、目を開け上目遣いで視た。糸川が恵理子の頭を撫で、優しく告げる。
「明後日まで我慢するんだよ。いいね」
「ええ、でも…」
諦められぬのか、物欲しそうな目になる。
「いいかい、それまで我慢するんだ」
「うん…」
密着する二人が離れた。
「それじゃ、今日から植草隆二の担当は牛島君にするからね」
「はい、分かりました。何からなにまで面倒を見て頂き有り難うございます」
彼女は何事もなかったように立ち、一礼して会議室から出て行った。その後姿を目で追う。豊満な尻が左右に揺れる様に、喉がごくりと鳴った。
さあ、証拠は揃った。この策でいけば監督不行届きなど屁にもなるまい。じっくり練った計画だ。今聞いたことを、植草の経過報告書に記し、動かぬ証拠となす。それに基づき、決算期末の勘定不突合の証拠書類として報告書に纏め上げる。
思惑通りに進んでか満足気な顔になり、胸の内で嘯く。
それで、他の不突合患者の書類に混ぜてしまえばいい。さすれば、今回の決算も無事迎えられよう。何にしても、色々併せれば現時点で三百六十万円にもなる。しかし、注意を要するのはこれからだ。これから治療費も相当多額になるだろうし、このまま回収見込みが立たなければ、それは病院にとって由々しきことだ。決して慈善事業ではない。支出ばかりで入金がなければ、経営は成り立たたん。
一端能書きを垂れるが、嘯く。
まあ、そんなことどうでもよい。それより、この未払患者で詰め腹を切らされないよう、火の粉が降りかからぬ策を講じることだ。とにかく、決算を乗り切るまで頑張らねばならん。
更に思惑を深める。
だから、どんな汚い手を使おうと、仕方がないではないか。それに金ずるの方も死守せんとならんしな…。
糸川は頬杖をつき、己の保身の悪知恵を働かせていた。彼女から確たる言質を得たことで、自信のようなものが湧き上がる。
さあ、恵理子にも引導を渡したし、かねてから手はずを取っていた例の策を進めるとするか。
含み笑いをし、会議室を出て精算業務課へと戻った。席に着くや軽く咳払いし、おもむろに佳織を呼ぶ。
「牛島君、頼みたいことがある。ちょっと来てくれないか?」
「何かご用ですか?」
糸川のところへ腰を振り来た。それを好色の目で迎え、これ見よがしに確認する。
「忙しいところすまんが、期末決算が近づいている。我が課としても、怠りなく未精算患者の不突合書類を作成しなければならない。ところで、君の持分の進捗はどうかね?」
「はい、私の持っている患者は、今のところ四件を除いて今月分まで、すべて入金になっています。それに、残りは不突合で来期回しになりますが、入金日も決まっているので問題ありません」
何やら、欺瞞の視線を投げ応える。
「課長、こんなところで宜しいですか。何なら繰越案件の書類をお持ちしましょうか?」
すると、くすぐったそうに返す。
「あいや、それには及ばん。やはり、佳織君は頼りになるな。それなら、書類提出期限まで余裕がありそうだ。それに仕事振りを見ていると、エネルギーが余っているようだし、何なら俺が少し吸い取ってやろうか?」
わざとらしく糸川の手が、佳織の尻に触れた。
「きゃっ、何をするんですか!」
驚き叫んだ。糸川にはわざとらしく聞こえる。周りの視線が佳織の悲鳴に集まった。それも何時ものことかという眼差しである。すると、玉山が声を上げる。
「課長、駄目ですよ。そんなことをしては。驚いているじゃないですか。しかし、課長のその癖は病気だからな。注意しても治らん。でも、駄目ですよ。これからそんなことしないで下さい」
またかという口調で、呆れ顔で告げた。他の課員も同様な目線になるが、直ぐに何事もなかったように業務に戻っていた。すると、佳織が尋ねる。
「課長、書類の方はどうしますか。お持ちします?」
「ううん、そうだな…。まあ、いいか。君のことだ、きちっと出来ているだろうからな」
「勿論です。その辺は手落ちがないよう注意していますから」
「分かったよ。おお、それとな。君にお願いしたいことある。危なく忘れるところだったぞ。実はな、恵理子君の持っている患者でな」
糸川は意識的に、時田に聞こえるよう喋ると、必然的に彼女も含め課員らが耳をそば立てる。
「いや、恵理子君も一生懸命取り組んでいるんだが、どうしようもない患者でな。ほら、君も知っているだろう。昨日騒いだ例の件だよ。佐久間先生が執刀し、三ヶ月前に集中治療室から一般病棟に移った意識不明の患者だよ」
「ええ、その患者なら知っています」
「そうか、それでな。恵理子君の方で通知を出しているが、一向に入金がない。これ以上彼女に持たせるのは酷だ。それで君に頼むんだが、彼女を助けると思って担当してくれないか。君の持分は、すべて処理出来ているだろ。頼むよ」
「ええっ、私がその不良患者の面倒を見るんですか?」
渋る口調に、糸川が突っ込む。
「そうなんだ。是非頼むよ。いや、先程な。会議室で恵理子君に相談を受けたんだが、私としてはこれ以上彼女には無理だと思ってな。いくらかでも負担を軽減してやろうと。それで、君しかいないとなったんだ」
「そうですか?」渋る。
「恵理子君を助けてやって欲しい。同じ課の仲間じゃないか。困っていたら、皆で協力し合って貰いたい。特に今回は期末決算用に不突合の繰越書類を作らねばならん。時間も限られているし、彼女には他の患者分に集中して貰う。どうだ、引き受けてくれるか?」
「課長の言われることは分かります。確かに期日が迫っているし、このまま繰り越すというわけにもいきませんからね」承諾する。
「そうなんだよ、時間的に余裕があれば、こんなこと頼まない。最後まで彼女にやって貰らうけど、今回ばかりは時間がないし、我が課としても、そんなみっともないことは出来ない。だからこそ君の手を借りたいんだ」
「そうですか。帳尻併せというか、煽てられているような、そんな風に聞こえますけど」
「いいや、そんなことはない。そんなつもりでお願いしているんじゃない。課員一同助け合うことが、今の時期は必要なんだ」
課員らがパソコンに向いつつ、耳をそばだてる。自分らに振られまいと、顔を上げる者はいなかった。
すると、佳織がぽつんと告げる。「仕方ないですね。引き継ぎますわ」
「そうか、それは有り難い。よく承諾してくれた。これで彼女も助かる。有り難う」
視線を恵理子に向ける。
「恵理子君、よかったな。佳織君が引き受けてくれるって」
すると、紅潮した顔の彼女が席を立ち、頭をぺこりと下げる。
「有り難うございます」
「はいはい、分かりました。時田さんに頭を下げられちゃ、断るわけにはいかないわよね。それじゃ、早速書類頂くわ。あっ、それと糸川課長。この件、お引き受けしますけど。ただじゃありませんよね!」
「ああ、勿論だ。ただで引き受けて貰おうなんて、そんな野暮なこと言うもんか。何せ、この臨戦体制時の案件処理だからな。分かっているよ。この件が上手く片付けられるかが、課全体の問題として見られる。全員が団結して当たるのは、どんなに重要なことか。そう言う意味からも、皆が協力し盛り上げてくれるのは意義あることだ」
皆に聞かせるよう吹いた。そして、佳織に約束する。
「そういうことで、今回の件では君の力を借りる。まあ、決算対策資料が出来上がった時には、そうだな、居酒屋辺りで一杯ご馳走するからよ」
「ええっ、それって私に対する褒美ですか?」
「ああ、そうだ。目一杯飲ませ、食わせてやるからな」
「…居酒屋ですか」
「何か不満でもあるのか?」
「いいえ、別にありません。けど…」
「けど、何だ。言いたいことあるなら聞いてやるぞ!」
「いいえ、結構です。居酒屋でも構いません」
「そうこなくっちゃ。俺も薄給の身ゆえ勘弁してくれ」
「はい、はい、分かりました」渋々応じた
課員らは、あまりにもけちな褒美で、あっけに取られていた。
「それじゃ、頼むよ」
「分かりました」返事をしウインクを投げ、席に戻った。さもあろう。恵理子からの担当替えは、先刻承知のことだ。事前に頼まれており、単なるパホーマンスに過ぎない。佳織への引継依頼は、効き目のある田舎芝居だった。
結果的に糸川に持ち上げられ、感謝したのは恵理子である。ただ、佳織との事前打ち合わせの想定外は、明後日の密会の約束だ。好色な糸川の、恵理子とのやりとりで偶然そうなった。
ところが席に戻った佳織は、直ぐにトイレへと駆け込む。
書類に目を通していると、内線電話が鳴り受話器を耳にあてる。
「はい、糸川です」
佳織の強い口調が耳に響く。
「課長、私よ!」
「おお、何だ。君か」
小さく返事をする。
「あら、何だはないでしょ。気づかないとでも思っているの!」
「何でしょうか、ご用件は?」
課員らに気づかれぬよう、白々しく返えした。
「まあ、何。その態度。そうなの、それだったら今夜の件取り止めにしましょうか?私じゃなくてもいいんでしょ」
「ええっ、何てこと言うんだ!いや、鈴木さん。そのようなことをおっしゃられても、先日あれ程約束したじゃないですか。今更キャンセルされましても…」
慌て、曖昧に返した。すると、佳織が構わず責める。
「あら、課長。私、鈴木ということなのね。そうなの、惚けるつもり。それだったら、もうあなたのこと嫌いになっちゃうから」
「鈴木さん、ちょっと待って下さい。その点につきましては、後程詳しくお聞きし相談させて頂きますので。是非、今回の件はよしなにお願いしたいのですが」
何とか言い包めようとするが、佳織が何故怒っているのか分からなかった。
「ねえ、それ程私が欲しいの?」
「は、はい。勿論でございます」
「それだったら、今晩会ってもいいわ」
「そうして頂ければ、大変有り難いことでして。はい…」
「あらそうなの。それだったら、あなたの唇に付いていたリュージュの件、納得するまで白状して貰いますからね!」
「ええっ?…存、存じております。鈴木さんのご納得のいくまで、説明させて頂きます。それで確認なんですが、本日夕方の六時で宜しゅうございますよね」
「はいはい、先日約束したところでしょ」
「その通りでございます。ご多忙とは存じますが、よしなにお願い致します。それではお待ちしております」
何度も頭を下げ、丁重に電話を切った。受話器を置き、息をして額の汗を拭う。まさか、佳織にバレているとは気づかなかった。 迂闊だった。つい気が緩んだのか、キスした後の処理を忘れていた。まさか気づかれるなんて。女の視線は鋭い。改めてそう思った。
さて、どうする。何て言い訳するか…。眉間に皺を寄せる。
そこへ平然とした顔で佳織が戻る。席へつくなり、「それじゃ、早速不良債権の引き継ぎでもするかな。恵理子さん、あなたの持っている書類を下さるかしら!」
大袈裟に告げる。更に、「それにさ、仔細も聞かなきゃならないし、これから会議室で聞かせてくれる?」
「ええ、宜しくお願いします」
「あっ、そうそう。課長に断ってから行きましょ」
わざとらしく言い、糸川に告げる。
「課長、宜しいですよね。何だか大変なようだし、引き受けるからには、充分説明を受けないといけないんで」
「おお、いいよ。会議室でもどこでもいい。行ってよく引き継いでくれるかい。おお、会議室なんて堅苦しいところじゃなくて、喫茶店でコーヒーでも飲みながらどうだい?」
罰が悪そうに促し、更に気を使う。
「コーヒー代は会議費ということで、伝票切っておくから」
「そうですか。それは嬉しい。お言葉に甘えちゃおうかな」
当然とでもいように返す。
「恵理子さん、そうしましょ。課長の奢りでさ」
「は、はい」躊躇いつつ承諾した。糸川にしてみれば、咄嗟の判断である。
二人きっりの会議室で、佳織が何を尋問するか分からない。さっきの脅迫まがいの電話を平気で掛け、何事もなかったように戻ってきた。それも一瞬のうちに、ルージュがついているなどと、恵理子との抱擁を鋭く嗅ぎ取っているとは。危なく今夜頂けるものを反故にされるところだったぞ。
まともに佳織を見られず、パソコンに目を落としながら勘ぐっていた。
それにしても、どうにか抱けることになったが、彼女のことを問われるに違いない。そのために引き継ぎとか言って、俺との仲を探る魂胆だ。そんなことだと思って、咄嗟に喫茶店へ行くよう仕向けた。喫茶店なら恵理子とて、そう簡単に喋らないだろう。会議室と違って人目があるからな。それに佳織だって、そう強引に追求はできまい。ああ、何とか喋らずに済みますように。
腕組みし、考えごとをする振りして祈る。
それにしても、香織とて何時ものような責めじゃ納得しまい。ここは、思いっきり悦ばせてやるか。さすれば、恵理子に嫉妬しても、自分が誰よりも愛されていると満足するだろうからな。しゃあねえ、勝負する前にマムシドリンクでも飲んでおくか。指技でひいひい言わせようぞ。
悶え泣き叫ぶところを想像しては、何時の間にかにやけた顔になっていた。
おっと、いけねえ。そんなこと考えている場合か。まずはさっき恵理子から仕入れた情報、これは間違いないだろう。それが事実なら、これは大変な問題として吹聴できる。執刀した佐久間にせよ、またこれを許した病院とて、このまま放置してはおけまい。
救急患者として運ばれ、一刻を争う事態なら。それは、当然の行為として認められよう。但し、その緊急手術はオペ同意書が、術後でも速やかに回収されることを前提にしての話しだ。
今までに、そんな事例は幾多とある。たとえ事後であろうと命を取り留めれば、何の問題もなく承諾する。それも最大の感謝というお土産つきでな。ところが、瀕死状態での成功率は、そんなに高くない。最大限努力しても、そのままお陀仏になることもある。それでも親族は、誠心誠意対応すれば納得する。まあ、たまに交渉が長引くこともあるが稀だ。
ところが、どうだ。今回の植草は、今だに誰一人として病院に来ない。確かに天涯孤独な人間はいる。この患者がそうかもしれないが、そればかりとは限らない。何か魂胆があり、どんな奴が現れ何を言われるか分からん。何せ本人は意識不明のままだ。聞きたくても聞きようがない。
それと問題は、植草の身辺調査を怠っていることだ。病院としても、その点を突かれれば最大の弱点となろう。その原因を作ったのが、罷り間違って精算業務課となれば、矛先は俺に向く。そうなれば責任を取らされる。
じっくり考え、見極めるように筋道をたてる。
そんなことになってたまるか。そのために植草の担当を佳織に代え、更に恵理子から仔細な情報を取り、未整備になっている督促経過報告書を作るのだ。当然、この報告書は我らにとり、都合のよい内容にする。
恵理子が佐久間医師に依頼している承諾書が「再三要請しているが、今だ未提出である」というように都合よく時系列に記し、尤もらしく不突合案件の仔細説明に入れ未添付のまま提出する。そして、この状態であれば問題が生じる旨の意見を添える。
旨意のところを究極の結論として位置づけた。己らの行為に正当性を持たせようと思案する。
更に当課としては、植草隆二が所持する運転免許証から、現住所と本籍宛に請求書を送付し、期日管理を行い遅れた段階で、督促通知まで発送した。請求業務のルールを怠りなく行っていることを強調する。本人が意識不明の状態であるが故、自宅のみならず発送できる最大限の範囲まで、フォローしていることを印象付けるのだ。
ほくそえむ糸川の目に狡猾な光が走る。
さすれば、我が課に責任追及は来まい。むしろオペ同意書を取り損ねている佐久間医師へと、その矛先が向くだろう。それに追い討ちとして、放置していることが当病院に不測の事態を招く恐れを予見し、問題を犯罪化させることにすればどうなるか。
まあ佐久間先生はこの患者により、今まで散々いい思いをしてきたんだ。それに院長や理事長とて、社会的に評価され有頂天になっている。このまま問題化させなければ、絶大な評価を得ている佐久間の事務的ミスとして、大目に見られよう。我々凡人と違って世間とはそういうものだ。
ふと無念さを滲ませる。
俺なんぞ学もなく、裏方でちまちまやって来た。日の当たらぬ地道な業務だが、ミスがあれば医師らと違いきつく罰せられる。こんなことがあっていいのか。勿論我らとて、それなりに誇りを持ち携わっている。でも、裏方は裏方でしかない。
それ故と言いたげに唇を噛み、怪しげな視線を浮かべる。
だが、同意書が取れていない事実を知られ問題が顕在化し、更に親族から取らずにオペを行ったのかと、いちゃもんをつけられるとなれば佐久間個人の問題に止まらず、病院としてどう対処してきたか問われよう。
そんな放置してきた事態を、週刊誌にでもリークされてみろ。大変な問題になるではないか。病院全体が蜂の巣を突いた様になる。それに、この植草だけに止まらず、当然他の急患オペの実態にまで及ぶ。
本来正論からいえば、緊急だろうがルールが優先する。決まりは事前にオペ同意書を徴求した上で行うものである。話題が騒がしくなれば、正論が優先する。事後で徴求するなど、とんでもないことだと世間は騒ぎ立てる。乗じて週刊誌やメディアが、激しく非難するに違いない。命の尊さや倫理観という絶対的価値を盾にな。
必然的に病院の姿勢が問われる。そうなれば尾ひれがつき、権威は失墜し信用は地に落ちる。理事長や院長は、ただではすまぬ。責任問題に発展するだろう。彼らにとって一番恐れることだ。従って、そんな事態を、指を銜えて素直に受け入れまい。
そうなる前に保身に動く。原因の追及を佐久間に向けるだろう。それは当然のことだ。だから、この俺に火の粉が降りかからぬよう手を打つのだ…。
病院側にしても、表ざたになる前に原因が佐久間にあると判断すれば、責任をおっ被せるに決まっている。遅かれ早かれ、この期末決算を乗り越えたところで動く。何となれば、そうしない限り中医協や諸々の機関に波及する恐れがあるからだ。ここは当院としても避けねばなるまい。
そこまでの筋書きを長々推測し、改めて秘策を見直した。糸川には、己の犯してきた怠慢の顕在化を防ごうという思惑がある。勿論、それだけではない秘め事もある。
そうさ、その顕在化を防ぐ仕掛けを、作ろうとしているんじゃないか。秘密を上手く繕い、他の不突合案件に紛れ込ませ表ざたにさせない。その代わり佐久間先生には、これから苦労して貰うという寸法さ。
そして更に心内で嘯く。
これぞ究極の悪知恵というもんだ。それじゃ早速、仕掛けに取り掛かるか。小一時間もすれば、恵理子から植草に係わる情報を、嫉妬に固まる佳織が聞き出すだろう。これを基にこれまで集めた資料と合わせ、我らの都合のいい記録簿を作り上げる。それにより、佐久間医師に揺さぶりをかける。そうさ、オペ同意書提出の最終期限を切る策でな。
それも今度は口頭でなく書面で渡し、その結果をこれも期限を定め提出するよう求める。勿論、この役目は俺が行う。重みをつけるためだし、ことの重大性を誇張する狙いからだ。
とりあえず、段取りはこれでいい。
どちらにしても、奴は同意書など取れるわけがない。植草側との接触は皆無だからな。今さら自宅や本籍に発送したところで、戻ってくるはずなどあろうか。それは我々がすでに経験済だから承知している。
佐久間も慌てふためくだろう。医師というのは専門分野には長けるが、それ以外となると赤子のようなものだ。プライドばかり高くて、他に何にも出来やしないんだからよ。
見透かすように心中で呟く。
ううん、多分泣きついてくるに違いない。はて、そうなったら何とする。そうだ、これも想定しどう対処するか考えておかねばならん。万が一、俺らを素通りして、院長に泣きつかれたらまずいからな。
いや、有り得るぞ。プライドがあればこそ、その可能性が大といえる。そうなる前に、こちらから先手を打っておくべきだ。さて、どう打つか…。それに院長対策も練っておかんとな。
そうだ今夜、佳織を抱きながら考えるか。
いや、待てよ。そんな余裕はねえか。彼女の嫉妬も相当だろうし、恵理子との関係をはぐらかすには、手を抜くわけにいかねえ。さあ、どうする。そうかと言って、病院に対する対策も疎かにできねえし、困ったもんだぜ。
うんにゃ、この際佳織に考えさせるか。究極の快楽を与えれば、意のままになるというものよ。昨夜の情事で、大方調教が出来るまでになった。万が一、恵理子のことがバレた時には騙す言い訳を含ませる技を使う。それで一挙に、性の奴隷と化せばいい。
そこまで詰めると、自然と笑みが零れた。
おっと、まだ気が早い。その前にその秘技を考えなきゃならん。そうか、騙そうとするからいけないんだ。ここは、正直に事実を告げた方がいいかも知れんぞ…。
佳織の性格を思い起こしていた。
頭の切れる女だ。これは正攻法で行こう。「つい胸の谷間に視線が行き、くらっとして及んでしまった。気づいたら唇を重ねていた。慌て直ぐに離れた。君に申し訳ないという存念からだ」とかな。
そして、更に考える。
そうだ、そこでジャブを打とう。俺は、弱い男だ。けれど、佳織のことを誰よりも愛している。この愛は、世界を支配する誰よりも強い。それほどお前が好きだ。だから偶然とは言え、彼女との過ちは悔いている。二度と起こさないから許してくれ。
そこで佳織の耳元で「誰よりも愛している」と、優しく呟く。そして極めつけの落とし文句を告げる。「もし君が許してくれないなら死んで詫びる」とな。
ここまで演技すれば、あの性格だ。俺を許し、闘争心を恵理子に向けるだろう。
机上に肘を立てて顎を載せ、にんまりと頷く。
うふふ、俺も悪知恵の働く男よの…。
それにしても、こんなことを考えていたら、何だか下半身がむずむずしてきたぞ。ああ、早く終業時間にならねえかな。
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