8
ジェイがトラヴィスを連れて行ったのは、オロンガポの路地裏にある店だった。壊れたネオンサインがぶら下がっている横に、狭い階段がある。入り口は階段を降りた半地下にあり、言われてみなければそこに店があるとは気付かないような場所だ。
「ほんとにこんなところに店なんかあるのか?」
「まあまあ。入ってみればわかるよ」
重い扉を開けた瞬間、大音量のロックに頭を殴られた。難聴のカタパルト士官が流しているのではないかと思うくらいだ。
ブラックライトが不気味に室内の様子を浮かび上がらせている。レンガ壁に沿っていくつかソファが置いてある以外は、まともに椅子と呼べるものはない。
フロアにはなるほど、空母乗り組みの士官らしい男たちがたむろしている。暗くてはっきりしないが、見知った顔もいるようだ。
中には海兵の飛行隊所属と思しき連中も見受けられた。お上品な海軍に比べて二倍でかい声で笑い、十倍の量の酒を飲んでいるのですぐわかる。
床はタイル張りで、何か得体の知れないものでところどころネバネバしている。トラヴィスは床の水たまりを避けて歩いた。
店の中央には十フィートくらいの長さのテーブルがでんと設置されていた。テーブルの下には白く光る細長い箱のようなものが置いてある。
それがバスタブだということに、トラヴィスは近くまできてようやく気づいた。なぜそこにそんなものがあるのかまったく見当がつかない。
バスタブの中は泡立った
「とりあえず何か飲もうぜ。ここではビールはタダなんだ」
店の奥にはバーカウンターがあった。その端ではフィリピン人のバーテンダーが注文をさばいている。
ジェイはトラヴィスをバーカウンターまで引っ張っていった。何人かがカウンターに張りついてウィスキーを飲んでいる。
トラヴィスはそこに、どこかで見たような顔を発見した。
「チーフ……?」
カウンターに片肘をついて店内を見回している男は、航空機整備科の先任曹長だった。トラヴィスが初飛行のあとに整備記録を渡した男だ。彼の前には〈サン・ミゲール〉の空き瓶がボウリングのピンのように並べられている。
「おっと、ここで敬礼はなしだ」メンテナンス・チーフが言った。
「まあまず一杯飲め。おれのおごりだ」」
鼻先に、なみなみとビールが注がれたジョッキが突き出された。
トラヴィスは言われるままにジョッキをあおった。地獄のように冷えたビールが喉を流れ落ちる。口元についた泡をぬぐうとようやく、この気の狂った室内にも耐性がついた。
「さて、
音楽のボリュームが下がり、フロアにチーフのだみ声が響き渡った。
どこに
「この中でまだ“着艦”したことのないやつは前に出ろ」チーフが叫んだ。
「おまえだよ、お嬢ちゃん」
チーフがトラヴィスの背中を押した。
「おれは――」
着艦ぐらいしたことがある、とトラヴィスは言いかけた。
「しっ、黙ってろ」
ジェイが言った。見ると、ほかのグループからも、まわりに小突かれてフロアの中央に押し出されてきているものがいる。
彼らは店の真ん中のテーブルに集められた。
今夜の新顔は四人いた。海軍からは彼とニュー・ガイ、それからE-2ホークアイのパイロット。これから何が始まるのか、お互いに顔を見回している。もうひとりは海兵隊員だった。
彼らの前にチーフがおごそかな足どりでやってきた。
「おまえたちにはこれから着艦訓練をしてもらうことになる。この“デッキ”でな」テーブルを叩く。天板は堅い木製で、相当使い込まれているようだった。
「着艦もできないようでは一人前と認められんからな。さあ、誰から行くんだ?」
チーフが新入りたちをねめ回した。音楽はドラムビートがきいたものに変わっている。
「おれが行こう」トラヴィスが言った。
「三番ワイヤーをヒットしろよ!」観客がはやしたてた。
トラヴィスは“飛行甲板”を見回した。
「三番ワイヤーなんかないじゃないか」
「よく見ろ、ここにちゃんとある」
チーフがテーブルの下を覗きこんだ。指差すところを見ると、天板の端から六インチごとに三本の線が刻みこまれている。
「手前から、一番、二番、三番ワイヤーだ」
「四番は?」
「カウンターの端だ」
チーフは“ワイヤー”を指差しながら続けた。
「一番ワイヤーをとらえるものは、臆病者と呼ばれる。二番ワイヤーなら、まだしらふだとみなされて、もう一杯酒を飲まされる。三番ワイヤーをとらえた幸運なパイロットは、クラブにいる全員に一杯おごるのがきまりだ」
「じゃあ、今夜おれの財布はすっからかんになりそうだな。ところで、四番ならどうなるのか聞いてないぜ」
「四番ワイヤーなら、どうしてそのまま海につっこまないのかって言われるさ」
カウンターのまわりにいる何人かが樽を持ち上げ、ビールをカウンターにぶちまけた。
トラヴィスはテーブルの端から数歩離れた。助走で勢いをつけて飛び上がる。跳び箱の要領でテーブルに手をついたところビールですべり、したたかに胸を打った。一瞬息が止まる。
彼の体はニスの塗られたカウンターの上を弾丸のように滑ってゆき、かろうじて顎先がカウンターから飛び出るくらいの位置で止まった。天板のへりを両手でつかんでいなければ、頭からビールの浴槽に突っ込むところだった。シャツの胸元からジーンズの太股まで、ビールでべとべとだ。
「今のはボルターだ」
トラヴィスがカウンターからすべり降りるとチーフが言った。
「どうして。ちゃんとヒットしたじゃないか」
トラヴィスはシャツのまだ乾いている部分で手を拭きながら反論した。
「着艦するときに、
チーフは歯をむき出した。それが彼の笑顔らしい。
「ここではおれがパドル、すなわち、おれがルールだ」
「……」
「チーフの言うことに従えよ」
ジェイがジョッキを差し出した。
「今度はちゃんとやれるさ。さあ、もう一杯飲むんだ……」
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