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 いくら巨大だからといって、乗員を遊ばせておくほどの余裕は空母にはない。フライト許可を待つあいだ、トラヴィスは書類仕事に追われた。

 将校パイロット、それも大尉ともなると、飛行機を飛ばすほかにそれぞれ管理すべき職域を持っている。彼が新たに配属されたということは乗員に空きができたということにほかならず、前任者の引継ぎ、報告書の作成、ファイルの整理が山積みになっていた。

 その点では、早めに休暇を切り上げたのは正解だったかもしれない。

 待機所の机で書類を書いていると、ジェイ・ショート大尉が姿を見せた。どうやら彼は新米中尉ニュー・ガイの教育係をまかされているらしく、ちょくちょくレディルームに顔を出す。

「だいぶはかどっているみたいじゃないか」

「まあな」

「ニュー・ガイのついでに、そっちのめんどうもみてやるよ。どっちも中隊の新入りっていう点では一緒だしね」

「そりゃどうも。ところで“獲得”の綴りはどう書くんだ?」

「a-c-q-u-i-r-e-m-e-n-t だよ」

 メモパッドに綴りを丁寧に書き込むと、トラヴィスは椅子の上で大きく伸びをした。

「飛ぶ前から書類仕事なんて、もううんざりだよ。大学時代のレポートでじゅうぶんだ。正式な報告書の書き方なんて習ってないんだからな。ジェイ、おまえ大学では何やってたんだ?」

「英文学だ」

 冗談だろ、というトラヴィスの表情を見て取ったのか、

「ホントだよ。ディケンズ専攻。だからおれ、広報担当なの」

 飛行日誌を書いたら飯にしようぜ、というジェイの誘いをうけて、トラヴィスもふたたび机に向かった。

 待機所には窓がないので、一日じゅう中にいると、昼か夜かの区別がつかなくなる。書類仕事はたいていのパイロットから敬遠されていた。“机を飛ばす”のは面白くもなんともないからだ。

 ものの十五分もしないうちにジェイのキーボードの音が止まり、続いてプリンタが紙を吐き出す音が響いた。

 英文学専攻というのはあながち嘘でもないらしい。

「着替えるのが面倒くさい。ダーティ・メスで食おうぜ」

 ジェイはフライトスーツのままだった。士官食堂はふたつあり、ひとつは襟付きのシャツを身につけていないと締め出しを食ってしまう。

 ふたりは中尉を誘ってレディルームを出た。

「そんなにクサるなよ、トラヴィス。何も問題がなけりゃ、たぶんあと半日もすれば、ドクターが中佐にOKを出すさ」

「だといいがな」

 健診のときの自分の言動がコワルスキ少佐の診断に影響を与えていないといいが、と彼は思った。やつらはおれとおれのRIOの身に何が起こったかを理解することなんかできやしないのに、下される診断はいつも一方的だ……。

 士官食堂ダーティ・オフィサーズ・メスにはすでに多くの先客がいた。ほかの飛行隊のパイロットたちも、それぞれ自分たちのテーブルに集まっている。

 三人はVFA‐304のエンブレムが描かれたテーブルに座った。

「着艦にはもう慣れたか、新米ニュー・ガイ?」

 ジェイが聞いた。誰もがこの若い中尉を名前では呼ばず、海軍伝統のあだ名で呼ぶ。

「ええまあ……でも、チビりそうになるのを我慢できるようになったっていう程度ですけど。夜間着艦なんて、考えるだに恐ろしいですよ」

「上出来だよ。夜間着艦は誰でも怖いさ。そうだろ?」

「ああ」トラヴィスはうなずいた。「F/A‐18ホーネットF-14トムキャットに比べて低速飛行時の安定性が高いから、着艦しやすくなったとは思うが、危険なことに変わりはないからな」

 中尉は神妙な面持ちで聞いている。

「トラヴィス、そんなにニュー・ガイをびびらせるなよ。今度の訓練でほんとにチビっちまうかもしれないだろ」

 ジェイがにやにやしながら言った。

「おまえが話を振ったんじゃないか」

「入港数日前からは夜間着艦訓練はしないんだ。万一事故があっちゃ全員の休暇が台無しになるっていう、司令の意向でね。そのかわり出港後は、まるでおれたちを甲板に叩きつけるのが趣味みたいにやらされるけどね」

「飛行訓練もいいですけど、フィリピンがどんなところだかも気になりますよ。僕、本土ステイツから出るのははじめてだって言いましたっけ?」

「なるほどね、そりゃ気になるだろうな。トラヴィス、きみはそこから飛んできたんだろう? 何かこの坊やに話してやれることはないのか?」

「前にも言ったかもしれないが、おれはあそこで乗り継ぎをしただけだし、それだって一日中基地に留め置かれたから、外の様子はほとんど見てないんだぜ。ただ言えるのは、ニューヨークよりは暑いってことだけだ」

「やれやれ」ジェイはおおげさにため息をついたが、べつだん気を悪くしたふうでもなかった。

「それじゃふたりともまったくのシロウトってことじゃないか。まさか海を見たこともないとか言うんじゃないだろうな?」

「ようジェイ、楽しそうだな。何の相談だ?」

 いつのまにかVFA-304のほかのパイロットたちも集まってきていた。

「パーティーの相談ならいつでも乗るぜ。ちょうど今、ひとっ飛びしてきたところなんだ」

「心強いな、まあ、こっちへ来て座れよ」

「休暇の申請はもう出したのか?」

「とりあえず出したよ、まだどこに行くか決めてないけどな」

 寄港地を訪れたことのあるものは口々に、どこがいいとかあそこを見なければだめだと言い、初めて訪れるものは何が買いたいとかどこの酒が安いとか勝手なことをしゃべり出した。

 あっというまにテーブルのまわりはお祭り騒ぎになり、別の飛行隊の連中も参加してきた。誰も、誰が新入りなのか上級者なのか気にしなかったし、トラヴィスにいたってはまだ、誰が誰なのか区別がつきかねた。

 彼らの多くはフライトデッキからそのままやって来たようなグリーンのフライトスーツ姿で、トラヴィスは自分がひどく場違いに感じた。

 まわりは彼の存在を気にしていないようだったので、とりあえず書類だけは仕上げてしまおうと、トラヴィスはひとりでレデイルームに戻った。

 当直士官のデスクでは、フロストが艦内電話で誰かと話をしている。

「――今度は、あんたも来るんだろ……え、何だって? 馬鹿言うな……あんたが来なけりゃ始まらないだろ……そりゃ知ってるさ、けど、そんなことどうにでもなるだろうが……そうだ、頼むよ……」

 しゃべりながら、トラヴィスにむけて、「そこで待ってろ」と手で合図する。

「ああ、わかってる……じゃあな、もう切るぞ」

 受話器を置くとフロストは言った。

「どこほっつき歩いてたんだ、トラヴィス? 大事な話があるから二一:〇〇までにCAG〔航空団司令〕のオフィスに出頭しろ、というボスの伝言で、おれはここでおまえをずっと待ってたんだ」

 トラヴィスは時計を見た。まだ二十時をちょっと過ぎたところだ。

「フロスト、あんたは行かないのか?」

「どこへ」

「ダーティ・メス。みんなで集まって休暇の相談をしてるぜ」

 フロストが今夜当直なのを承知したうえでトラヴィスは言った。

「おれがサボってるように見えるか?」

 返事をするかわりにトラヴィスは肩をすくめた。

「おれだったら、CAGのオフィスに呼び出されるようなまねはしないがね。さっさと行ったほうがいいぜ、ボスは気が短いからな」

 フロストはからかうように言った。

 トラヴィスは言われたとおりに司令のオフィスへ向かった。

「失礼します、コナー大尉ですが」

「入りたまえ」

 航空団司令ともなると、その執務室には絨毯が敷かれ、机もスチール製などではない。艦の揺れにもびくともしない、重厚なマホガニー製だ。

 トラヴィスは足を踏み入れるとほぼ同時に敬礼した。

 部屋の中にはCAGのほかに、中隊長のヘイリー中佐もいた。トラヴィスが中に入ると、机の前に座っていたCAGが立ち上がった。

 司令はすでに白髪も混じり始めた大佐で、目じりには彼もパイロットであるという証の細かいしわが刻まれている。灰色の眼は優しげだったが、タカのような鋭さも宿っていた。

 先にCAGが口を開いた。

「まずは、おめでとう、大尉。コワルスキ軍医少佐が飛行適格の判定を出したことをきみに伝える」

「ありがとうございます」

 トラヴィスは心底ほっとした。

「これできみも正式にわが中隊の一員になったわけだ」中佐が言った。「あらためて歓迎するよ、トラヴィス」

「そう、わが航空団も優秀なパイロットをまたひとり手に入れたわけだな」

 大佐が続けた。

「きみの記録を見せてもらった。飛行学校、前の部隊、転換訓練部隊でも優秀な成績を修めている。それからこの戦闘報告書のコピーも……」

 大佐は机に眼を落とした。そこに広げられているのは彼のファイルであるらしかった。

「一度でも実戦を経験することは、大きな強みになるだろう。きみが経験し、学んだことを、他のものにも教えてもらいたい。ここでの仕事にもすぐ慣れてもらえるものと期待している」

「努力します」 

 トラヴィスは短く答えた。大佐が報告書の内容についてそれ以上つっこんで聞かないように願いながら。

 大佐はふたたび椅子に座りなおした。それが面談終了の合図だった。

 執務室を出て、トラヴィスは中佐としばらく並んで歩いた。

「大佐はああ言ったが……」

 曲がり角まで来るとヘイリー中佐は足を止め、彼に向き直った。

「おれは、きみはここでイチからのスタートだと思っている。もちろん経歴は大切だ。だが、最も重要なことは、きみが過去にどんなに優秀であったか、ではなく、これからも優秀であり続けるかどうか、だ」

「はい、中佐」

 ヘイリー中佐は中隊の誰よりも背が低かったので、いきおいトラヴィスを見上げる格好になる。まっすぐこちらを見つめるその黒い瞳は、彼の心中を見通しているようだった。

「フライト・スケジュールの都合がよければ、早速明日から飛んでもらうことになるだろう。今夜、あまりハメをはずさんようにな」

 中佐はにやりと笑った。トラヴィスも微笑み返した。

「おやすみ、大尉」

「おやすみなさい中佐」

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