3

 トラヴィスが窮屈な二段ベッドで眼を覚ますと、ルームメイトの姿はすでになかった。

 枕もとの目覚まし時計を見ると、七時十二分。アラームをセットした二分前だった。

 アラームを解除し、小さな洗面台で顔を洗った。フライトはアサインされていないので、襟つきのカーキのユニフォームを着る。

 士官食堂で朝食をとると、トラヴィスは飛行隊のレディルームに向かった。


 時刻は八時二十八分。当直将校が電話をとっている。

 並べられた椅子の列はどれもパイロットたちでいっぱいになっていた。それほど広くもない部屋に二十人の男たちが集まると、その熱気で室内の温度が二度は上昇したように感じられる。

 前から三列目、いちばん右側の席がひとつあいている。トラヴィスはフライトスーツ姿のパイロットのとなりに座った。

 彼が腰を下ろすかおろさないかのうちに、横のパイロットが話しかけてきた。

「やあ。新しく来た、トラヴィス・コナーだろ? 話は聞いてる。きみがおれの上官でなくて嬉しいよ。おれはジェイ・ショート。ジェイでいいよ」

 ブロンドに明るいグリーンの瞳、なかなかのハンサム。世の中の人が戦闘機パイロットと聞いて思い浮かべるような顔だ。

「ジェイ。何のジェイだ?」

「なんにも。ただのジェイさ」

 ちょうどそこへ中隊長が姿を現した。手にはファイルを持っている。

 アッシュ・ヘイリー中佐は部屋を埋めたパイロットたちを見回すと、おもむろに口を開いた。

「おはよう諸君。入港まであと五日となった。

 今さら言うまでもないことだが、まずひとつ。入港前とはいえ、訓練中は気を抜かないように。

 ふたつ。入港準備中に問題を起こさないように。どちらも、守らなかった者は入港中ずっと当直にしてやるからな」

「そいつが死んでいてもですか?」誰かがまぜっ返す。

「生きていると死んでいるとに関わらず、だ」

 中佐はそのパイロットを一瞬にらみつけ、

「さて、すでに聞いている者もいるとは思うが、新しいメンバーを紹介する……」

 ヘイリー中佐はトラヴィスの経歴を長々と披露するようなことはしなかった。名前と階級、これから乗ることになる機種、以前の所属部隊は部隊名だけが伝えられた。

 トラヴィスの短いあいさつがすむと、待ちかねたように中佐は今日のフライト予定を発表した。その中に、トラヴィス・コナー大尉の名前はまだなかった。

「それから、コナー大尉はドクター・コワルスキ少佐のもとに出頭するように。まあ、いつもの性病検査だな」

 最後のせりふにパイロットたちはどっと沸いた。

「タマを引っこ抜かれないように注意しろよ」誰かが叫んだ。

「ドクター……なに少佐だ?」トラヴィスはとなりのジェイにささやいた。

「コワルスキ。心配するな、ただの航空医官だよ」


 トラヴィスが医務室を訪れると、ドアは開いていた。中には白衣を着た男がひとり。机に向かって書類を書いている。

 気配に気付いたのか男は椅子から立ち上がり、トラヴィスに、入ってくるようにとうながした。

 白衣の胸の縫い取りが、かろうじて、“少佐”……“コワルスキ”と読める。ぽっちゃりした体をカーキ色の制服で包んでいるので、まるでテディ・ベアのようだ。

「トラヴィス・コナー大尉です。お呼びですか、少佐」

「はじめまして、コナー大尉。私はモーゼス・コワルスキ。名前で呼んでくれてかまわないよ」少佐はほがらかな調子で言った。「私はもともと民間人だし、そのうちうしろに乗せてもらうことになるかもしれないのだから」

「そうですね、ドクター。それもあなたが私の健康状態にオーケーを出してくれるかどうかにかかっているわけですが」

 航空医官はパイロットたちの置かれている状態を理解するために、一定時間、飛行に同乗するよう定められている。

 この少佐はトムキャットの後部座席に座るには、少しサイズオーバーだな。トラヴィスは思った。

「さあ、まずはそこへ座ってくれ。きみが一日でも早く飛べるようにするためにも、健診は必要だ」

 戦闘機パイロットほど厳しいチェックが課せられる職業はない。最初の身体検査で志願者の多くがふるい落とされ、訓練中にも定期的に健康診断を受けることが義務づけられている。だから健康診断はパイロットたちの恐怖のタネともいえたが、それだけに、今も飛び続けているのは優秀さのあかしでもあった。

 時間をかけて彼の体を頭のてっぺんからつま先までくまなく調べ終わると、少佐はトラヴィスにむかって微笑んでみせた。

「今のところ認められるのは軽い痔疾と……まあ、これはパイロットの職業病のようなものだからね。それと交戦時のむち打ち損傷……その後くびの具合はどうかね?」

「良好ですよ」

「めまいや耳鳴りは?」

「ありません」

「夜、眠れなかったりとか?」

「おかげさまで寝つきはいいほうなので」

「そう……」

 少佐はしばらくカルテにペンを走らせていたが、

「これまでに、プライベートでも――カウンセリングや精神分析を受けたことは?」

「どういう意味ですか?」トラヴィスは思わず尋ね返した。自分でも声が硬くなっているのがわかる。

「ああ、そんなに気にしないでくれ。形式的な質問だよ。こんなふうに長いこと航海に出ていると、誰でもときには気が滅入ることがあるし、プライベートでも何か問題を抱えていればなおさらね。そんなときに悩みを相談することで解決の糸口がみつかることもある。特にきみはその――戦闘で……」

「そうです」医者がそれ以上言う前に、トラヴィスは勢い込んで言った。

「そのことについてはもう、いやというほど聞かれましたよ。確かにね。気分のいいものじゃないですよ。友人とそのRIO〔レーダー迎撃士官〕は死んで、おれは生き残ったわけですから。でもそんなことにいつまでもかかずらっているわけにもいかない。おれはこうして飛び続けているんですからね。もちろん必要とあらば、何があったか説明することはできますよ。おれたちがどうやってミサイルをよけようとしたか、あいつがどんなふうに死んだか――」

 トラヴィスはそこで言葉を切った。彼の勢いに気圧されたのか、少佐はペンを持ったままおし黙っている。

「……そのときのことまで、今あなたにお話ししなければなりませんか?」

「いや」軍医少佐は敵意のないことを示すように両手を広げた。「知ってのとおり、私は航空医官にすぎないからね。きみの精神分析をおこなうようにと命令されてはいないし、その技能もない。ただ私が望むのは、大きなストレスを負っている戦闘機パイロットが安全に任務を遂行できるよう、医学的な助言ができればということだし、それが私に期待されている仕事でもあるのでね」

 そんなことはわかっている。トラヴィスは心中ひとりごちた。合衆国海軍は何百万ドルという飛行機を、スリルを楽しむパイロットたちのおもちゃにするために購入しているわけではないし、そのうちの頭のいかれたパイロットが、何万ポンドという爆弾を、罪のない人々の頭上に落とすとも限らないというわけだ……。

 ドクター・コワルスキが、診察したパイロットの健康状態を他に漏らすことはないが、情報は医療ファイルに閉じこまれ、もしおれが何かを起こしたときには、それが白日のもとに――軍事法廷かあるいは事故調査委員会に――さらされることになるんだろう。

「わかりました、ドクター」トラヴィスはつとめておだやかに言った。

「何かあったら、あなたに相談することにしますよ」

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