轟音を立てて輸送機が空母甲板に着艦したあとも、下士官のロード・マスターに肩を揺さぶられるまで、トラヴィスは立ち上がることができないでいた。

 具合でも悪いのですかと尋ねる下士官に、手を振って大丈夫だと答える。自分から志願してここへ戻ってきたというのに、このざまは何だ……。

 さえぎるものの何もない空母上に降り立つと、強い潮風が吹きつけてくる。熱帯の太陽が鋼鉄の甲板をじりじりと焼く。トラヴィスはこの大海原でひとり、どこにも寄る辺ないような、一方で故郷ふるさとへ帰り着いたような心持ちになった。

 甲板上では、色とりどりのジャージとヘルメットを身につけたクルーたちが忙しく立ち回っていた。そのうちのひとりをつかまえ、VFA‐304飛行隊の待機所レディルームの場所を尋ねると、トラヴィスは彼の新しい“家”へと入っていった。

 背もたれの高い椅子がいくつも並ぶレディルームには、フライトのないパイロットたちが思い思いの格好でくつろいでいた。

 奥にあるデスクには口ひげを生やした将校が座っている。トラヴィスはその前まで歩いていき、敬礼した。

 先に連絡を入れておいたものの、飛行隊長である中佐は彼の顔を見ると、驚いたような呆れたような表情を浮かべた。

 型通りの着任の挨拶をすませると中佐は言った。

「VFA‐304へようこそ、コナー大尉。しかし本当に来るとは思っていなかったぞ。休暇を楽しんでもばちは当たらん。西海岸は初めてなんだろう?」

「ええ、ですがこちらにはまだ友人もいませんし……ひとりでは特にすることもなくて。それに、自分の乗ることになるホーネットを早く見てみたかったものですから」

「なるほどな。まあいい、早くこの隊やふねに慣れてもらうのにこしたことはないんだからな。見てのとおり、今は全員揃っていないから、正式な紹介は明日になる。きみの部屋だが……そうだ、フロストのところがひとつ空いていただろう。あとで案内してもらうといい」

 うしろでほかのパイロットたちがくすくす笑うのが聞こえた。何で笑っているのかはわからなかったが、おそらく彼と同室になる男のことだろうと察しはついた。だが、どんな男だろうと、今の彼にはどうでもよかった。

 それから中佐は新米中尉ニュー・ガイを呼び、彼を居室まで案内するように言った。

「ここに来られる前はどこにいらっしゃったんですか?」

 狭い通路を先に立って歩きながら中尉が聞いた。

「VFA‐127だ」

「そのときもホーネットを?」

「いいや、トムキャットだ。機種転換訓練を受けてすぐこっちへ来たからな」

「じゃあ、格納庫ハンガーへ寄って行かれますか? メンテナンス・チーフもいつもそこにいますし。ご紹介しますよ」

「いや、いい。空母は初めてじゃないしな。あとでひとりで行ってみるよ。ジムもあるんだろう?」

「ええ、もちろん」

 若い中尉は新任の大尉から、前いた部隊のことやこれまで訪れたことのある場所のことをあれこれ聞きたがった。特にトラヴィスはあと一週間もすれば部隊が入港することになる港から来たのだから、観光地や店について聞かれるのも当然といえた。

 しかし彼が生返事をしていると、ついにあきらめたようだった。

 居室のあるコンパートメントまでくると、最後に中尉は言った。

「何か好きな飲み物があればあとで言ってくださいね。それと、コーヒー代の徴収は月末ですから」

 ノックして入ってみると、部屋の主は不在だった。二段ベッドにはどちらもきちんとシーツがかけられている。しかし、下のベッドの毛布がまくり上げられているので、そちらが先住者のものなのだろう。机の上にも写真立てひとつないので、この部屋に住んでいる人間の人となりはまったくわからない。

 トラヴィスは上のベッドにダッフルバッグをおろした。

 ふと見ると、ベッド上に一冊の本が置かれているのが目に入った。聖書かと思ったが、そうではない。『神こそわが副操縦士』とある。

 そのとき、ドアが開けられた。

 ふり返ると、濃いグリーンのフライトスーツを着た男が立っていた。

 身長はトラヴィスと同じくらい。プラチナ・ブロンドの髪を海兵隊なみに短く刈り込んでいる。がっしりしたあごと薄い唇、それに狭い入り口をふさぐように立っているせいもあって、威圧感さえ覚える。

「誰だ、あんた?」

 留守中の闖入者に、男はいぶかしげに首をかしげた。冷たいアイス・ブルーの瞳が値踏みするかのように細められる。その視線は、トラヴィスのカーキ・シャツに留められた大尉の階級章とウイングマークの間をすばやく行き来した。

「トラヴィス・コナーだ。VFA‐304に配属された」

「ああ……。ボスが言っていたやつか」

 男は合点がいったというふうにうなずくと、右手を差し出した。

「イアン・フロストだ」

「よろしく」

 ふたりは短い握手を交わした。

「あんたのロッカーは右だ。中には何も入っちゃいないからな。好きにやってくれ」

 フロストはそれだけ言うと、自分のベッドにごろりと横になった。

 トラヴィスは言われたとおり、ふたつ並んだロッカーの右側を開け、バッグに詰め込んできたフライトスーツや制服をハンガーにかけた。そのほかの私物は多くない。前の部隊を思い出させるようなものはすべて処分してきたからだ。

 荷物を整理し終えると、最後に残ったベッド上の本を手に取った。

「これ、あんたのだろう。『神こそわが副操縦士』?」

「そうだ。こっちへ放ってくれ」

 トラヴィスは本を手渡した。

「戦闘機乗りなのか?」

「そいつを書いたやつはな」

「あんたは?」

「ホーネットに乗ってる」

「おれはいつから飛べるだろうか?」トラヴィスは聞いた。

「おれに聞くな。そいつを決めるのはボスだ。明日聞いてみりゃいいだろう」

「実はまだ休暇中なんだ、表向きはな……。たまたまC‐2Aに空きがあったから乗せてもらったんだ」

「なんだって?」フロストがベッドから上半身を起こした。「じゃあ、わざわざ休みを返上して来たのか? ――あんた、相当いかれてるぜ」

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