第73話 結局談笑

 「あれ?なんで俺の上着を?」


 本当に気づいてなかったらしい。私の座った体を見ると、第一声でその違和感について聞いてきた。冷や汗をかくように、心臓付近が激しく動いたが、些細なことだった。


 「これは……なんとなく?」


 「なんとなく?寒かった?」


 そんなこともあるわけがなく。


 「いや、着てみようかなって、弟の着る物はどんな着心地なんだろうって」


 袖口をキュッと握り、離さないぞと私は思っていた。咄嗟の、子供が玩具を取られる前のような行動に、自分自身、変だとは思った。けど、これは少なくとも前とは違い、好意に近しい気持ちに気づいてるからだと、それは分かった。


 「俺の着る物か……お下がりなら知ってるけど、逆は初耳だな」


 ポカンと、意図を理解出来ない、その、鈍いけど時に鋭い眼を突きつける。


 「それで、どうなんだ?着心地は」


 「うん、結構良いよ」


 結構なんてレベルじゃない。ずっとこうして、もっと贅沢を言うなら、七夕くん本人に……なんてことを思うほど、上着という、ただの物に対して情を抱くほどには最高。


 冷静で、狼狽しないようにと、偽る姿は迅速だったため、七夕くんに微塵も怪しまれてはいない。今何をどう思ってるのかは定かでもないけれど。


 私と似たような気持ちを前に、難攻不落の要塞を感じてくれてるならば、それに越したことはない。似た者同士、相性が良いってことだから。


 お手洗いか、その他自分の部屋に向かったのか、未だに頬の真っ白な塗料は消えていない。取ることを忘れていたわけでもないだろうに。残そうとしてくれたのか。


 戻ってきて問い終えると、椅子ではなく床に。これから続けるんだと座る。胡座をかいても、伸ばされた背筋は今時珍しい。


 「それ、今日借りとく?見てると、気に入ってるように感じるから提案するけど」


 ベッドに腰を掛ける私を、いつもとは真逆の、下から見上げて更に質問を続けた。


 「いいの?」


 「どうせ、ベッドにダイブすれば脱ぐし、そんなに使うものじゃないからな。秋に毎年使う程度で、頻繁にとはいかないし」


 「そっか」


 この、近くに七夕くんを感じれるアイテムを、このまま保有出来るのなら、今よりも何倍も嬉しい。同じ家で、同じ柔軟性を使って、何もかも鼻腔を擽る匂いは同じなのに、特別な、七夕風帆という匂いが感じられる。


 唯一無二の、落ち着く匂い。1分で寝られそうなほど、それは甘美とも言えた。


 「だったら、今日借りとこうかな。脱ぐのも面倒だし、何よりも幸せだから」


 言ってハッとしたのはもう遅い。きっと最高の笑顔を見せただろう。それも初めて……だろう。心の底から湧き上がる気持ちに、素直に反応した私の脳内は、幸せホルモンが過剰も過剰に分泌を繰り返して、いつの間にか勝手に口を動かし、声帯を操った。


 ――幸せだから。


 それを言ったのは、過去に何度もある。しかし、想いを込めたのは、記憶上初めてである。堰き止めていた土嚢が、渓流の氾濫に耐えられなかったらしい。


 爆発的に漏れ出す想いは、私でも制御不可であった。


 「幸せなら何よりだ。俺もそれで、幸せになる」


 本音だと、私は分かってる。それだけの長い付き合いというわけでもないが、確実に、七夕くんも心の底からの発言だったと。


 やはり、私だけが変わってるんじゃない。七夕くんもまた、過去の寂寥が抜けてきているのだろう。それは私の勝手な思い込みで、浮かれてるだけの妄想なのかもしれない。しかし、そんな理想郷を描いたとしても、あながち間違いだとも思わない。


 「幸せを分け合えるっていうか、お互い与えれる関係っていいよね」


 「そうだな。特に俺たちだったら、よくそう思う」


 私の部屋でも、もう緊張すら消えた様子。足枷になっていた彼氏という存在が消えて、すっかり好きなように言動をするようになった七夕くん。私との距離感を、次第に掴んでいるのかもしれない。


 「変わったよね、私も七夕くんも」


 「彼氏さんが居なくなってからな」


 お面に手を伸ばすことはない。私と目を合わせることもなくて、視線は天井に、体は仰け反って脱力して。私に、素で居ることを嬉しく思わせるように振る舞う。


 「これまではずっと彼氏さんがって言ってたけど、その縛りがないと、もう好きに動けて楽だな。気にすることはないし、その上で早乙女さんとも関われる。文句なしの生活だ」


 「嬉しいこと言うね。私に不満はないの?」


 「不満……最近俺の部屋に来なくなったことだな。それは少しの不満だ。興味ないのかって、気にするから」


 「気にしてたの?」


 「そりゃ、ほぼ毎日と言ってもいいほど来てたのに、突然来なくなると不思議に思うだろ」


 ここ最近は、ずっと顔を見ることに抵抗があった。話すことにも、関わることにも。だから避けるように、部屋を訪れることはなかった。けれど、七夕くんはそれを望んでた……ならば、時間を無駄にしたかもしれない。


 この想いが依存ならば、どの道好きになることは避けられない。どれだけ好きから相手を想いたくても、もう想えない。だとしたならば、もうこれ以上、気づかないふりをするのも避け続けるのも、必要ないだろう。


 意識することで、何かが変わるとは思わない。これまでと同じく、顔も見れない時間があるだけ。しかしそれを、私は取り除く。


 「なら、明日からはしっかりと遊びに行こうかな」


 まずは文化祭から。

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