第72話 上着
きっと私は、自力では【恋】を知ることは難しいと思う。自分がこれまで受けてきた相手からの懸想を、私は、空いた心の隙間を埋めるために受けてきたから。
人それぞれの恋があるなんて、そんなの百も承知している。しかし、実際問題恋って何なのだろう。自分の想いにいつの間にか気づくのが、なんて耳にするけれど、そんな分かりやすいわけもなく、現在私は困りに困っていた。
目の前で、お面をいじって塗料を適当に塗る七夕くん。彼を見て、私は好意が芽生えているのを自覚する。それでも、恋愛感情かと聞かれれば、それは定かではない。
確かに、触れたいとか、遊びたいとか、恋愛感情を抱いてるとも思える行為をしたいと、それは切実に思う。しかし、それは家族になった時も抱いていた思いでもある。
私の願い。家族と仲を深めて、これまでの虚で、寂寥なちっぽけな思い出を、どうにか輝かせたいという本懐。それと思いは何ら変わりない。
だとしたら、何が私にとっての恋だろう。顔を見れないほど頭の中で、優しく私に手を差し伸べる七夕くんが微笑むこと?それなら恋してる。無理矢理押し倒して、その一線を超えること?それなら恋してない。
依存なのか、依存している恋なのか……私にそれを理解するのは、難攻不落の要塞を攻略すると言っても大仰ではないだろう。
「早乙女さん?」
「ん?」
筆をパレットに戻して、それから身動き1つとらない私を、眉を寄せて怪訝な様子で伺う七夕くん。我に戻った瞬間に声をかけられたので、間を置くことなく返事をした。
やはり――顔はじっと見れない。好き……だからか、依存して、それを好きだと勘違いしてるのか。依存から好きに転移することは、私自身良くないと思ってる。拠り所として甘えれば、それは私を自立不可能な人間にしてしまうから。恋をするなら好きからがいい。
お互い手を取り合う関係から、依存へと進み、それを恋だと思うのは、私には憚られる恋だ。
「どうしたの?」
「固まってたから、何してるのか気になって」
「あぁ……疲れて考え事してた」
疲れてはいない。けど、考えたことで疲れはした。
「大丈夫?少し休むか」
「大丈夫大丈夫。早く終わらせるんでしょ?続けて後で休もうよ」
「いや、俺が休みたいから休ませてもらう。だから、早乙女さんも、進めるならゆっくりしててくれ」
気遣いは不要な関係。でも、七夕くんは時折、私に対して優しさを過剰に与えてくる。玉に瑕な部分だけど、それが私には癒やしで、悩みを増加させる要因でもあった。
そんな優しくされては、どうも恋を知らない私の頭の中で混乱という勘違いが起こる。
私は知ってる。並の家庭で、親や親戚からの愛情を受け、育ってきた人と、私たちのように片親から愛情はなく、日々喧嘩や不幸せな表情を見させられた人たちとでは、大きな感情の変化があるのだと。
だからこれも同じ。並の家庭の子供ならば、恋するまでの愛情に対する耐性が存在する。しかし、私たちは耐性があっても小さい。故に、些細なことでも恋だと思ってしまうのだ。
優しくされたら、微笑まれたら、幸せを感じさせられたら、楽しいと言われたら、触れることを許してくれたら……。たったそれだけでも、私は好きだと思ってしまうのだ。
「ちょっと部屋出る」
「うん」
考えて、ありとあらゆることを長考する私を横目に、部屋を出た七夕くん。背中は大きくて、触れたらどんなことを思うのかと、乏しく寂しい、感覚を司る記憶の中で私は思う。
そして残された、私の部屋に羽織るために着てきた上着が、私の目を奪う。ドキッと、見られてないのに、上着を気にしたことを見られた気がして激しく跳ねる心臓。
でも、私の手は止まらなかった。サッと伸ばされた手の先に、畳まれたネイビーの寝巻き専用の上着。罪悪感に苛まれるなんてことはない。苛まれるのではなく、楽しんでいるのだ。
何故手を伸ばしたか、それは――寂しかったから。とも言えるし、匂いが気になったから。とも言える。多分、どちらも正解で、私は自分の気持ちに素直に従った。
早く、と。戻ってくる前に、私はその上着を羽織った。
「……温かい」
背中から、七夕くんが私を抱きしめてる……なんては思わないけど、似た感覚ではある。声もしないし気配も感覚もない。けれど、それなのに私は安心感に包まれる。
同じ柔軟剤だから、匂いに大差はないけど、若干シトラス寄りの、男の子っぽい匂いが鼻腔を撫でた。この部屋に、この家に私だけしか居ないと、もうこの時は思っていた。それ以外考えられないほど、不必要なことは頭の中から取り除かれた。
大きい大きい、七夕くんの存在も、七夕くんの上着によってかき消された。だから、私は身を任せて、幸せを全身に受けようと脱力し、床に体を倒した。天井が見えて、シーリングライトが視界を奪って、何もかも考えないで……適当を思って倒れていた。
瞼が重い。睡魔が襲いに来たのだと分かっても、抗うことがバカだと、無抵抗でいた。すると、扉がガチャッとすることで。
「――はっ!」
焦った。間違いなく七夕くんだと思ったから。体を起こし、扉へと視線を向ければ、そこには驚くこともなく、まだ私が上着を羽織ってることに気づいてないのかと思うほど、落ち着いた様子の七夕くんが歩いて戻ってきていた。
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