第70話 人と何か

 「自由で良いかな?」


 「それが早乙女さんらしいしな。好きなこと書きなよ」


 何を書かれても、描かれても、結局の所幸せは変わらない。筆が、俺を貶すように、辱めるように顔全体をなぞるだけで、それに我慢する時間が変わるだけだ。


 「そしたら……普段言えない悪口でも書く?」


 「秘めたのか?そんなに不満を与えてるつもりはないんだけど」


 目の前で、筆の先を見ろと言わんばかりに近づけては、くるくると催眠術をかけようと回す。追わなくても、視界から消えないそれは、何もかも俺の意識を奪っていく。


 不満。それは軋轢の口火。そこから始まる家族内での喧嘩は、きっと日常茶飯事だ。何度も家族での喧嘩を見てきた俺は、この歳にして喧嘩なんて見飽きた。


 しかし、早乙女さんとなら良いかもな。なんて思うほど、家族という関係性に、本当を感じている。愛情があって、温かい。喧嘩してもそれが長続きしない、お遊びのような無意味な時間潰しの喧嘩。


 やってみたいと、思いはした。


 「不満はないけど、こういう時って悪口が普通じゃない?」


 だから、少しくらい不満はあってほしかったと思ってしまった。巫山戯て喧嘩して、仲直りの難しさやその後の楽しさ、感じる喜怒哀楽の全てが、詰められた喧嘩を。


 「バカとかアホとか、姉弟なら、弟から思われてそうなことを書きたい」


 「なら、俺が早乙女さんに思ってることを、俺に書けば?」


 「七夕くんが私に思ってること?」


 首を傾げて、そこには【?】よりも幸福感が強く込められているようで、どこか愛おしくも鷹揚としていた。


 「そう。変人ってやつ」


 「ひどっ!」


 一瞬にして瓦解するように、見るからにテンションも下がる。実は演技や隠し事が苦手だと、ここ最近で知り始めているので、こうして顕になる行動も、その1つなのは間違いない。


 「両目の下に一文字ずつ、変と人を分けて」


 「それはそうなんだろうけど……私って変人って思われてたの?」


 「距離感が元から変だったからな。鼻が合いそうなくらい近い距離で話すし、何かあれば部屋に来て拗ねるし、何がしたいのかよく分からなかったから」


 当時は、だが。今ではそんなことは少ないと思う。俺の部屋に来ることも少なくなって、距離感は少し離れた。落ち着きを取り戻したというか、俺との間に1つの隔たりを得たような。


 とにかく、喉まで出かかったその答えを、吐き出せるとこまで今は知りたい。その欲が強くて、変人となった早乙女さんについても、多くを知りたかった。


 「今は落ち着いたから、変人とはあんまり思わないけど。何か理由あったのか?」


 「……さぁね。それも解明中だよ。多分、文化祭が終われば万事解決すると思うよ」


 奇遇だ。俺も、文化祭を共に終えれば、きっと何かしらのポイントは掴めるはずと思っている。見えない先に、この関係がどうなるのか。良好か不良か。


 「だったら、それまで変人だな。ほら、早くしないと固まるぞ」


 「そうだね。でも、もう少しつけてから、変人って言われた恨みを載せて書くよ」


 「……結構気にしてるんだな」


 「変人なんて人生で初めて言われたからね」


 「それもそうか……?」


 早乙女さんならば、あり得ると思った。言動に嘘はついてる様子はなくて、何よりも瞳にブレも迷いも無かった。元父からも言われなかった、自分に似合ってて似合わない言葉。変人。嫌そうに、突き放すような言葉を選んだというのに、その口端は上へと上げられていた。


 「よし、それじゃ書こうかな。動いたら目に入るから気をつけて」


 「優しさはあるんだな」


 「失敗したら色々と大変だから。優しさっていうより、面倒を避けるための当たり前の気遣いだよ」


 それを、俺は優しさだと思うが。


 もう、仕返しを受け入れて、触れる筆が全身を擽るようでも微動だにせず、変と人が逆から書かれる感覚を、身に感じて覚える。


 水分は少なくて、泥濘に足を踏み入れたかのような感覚は、泥濘とは違って受け入れやすかった。心地良いと言ったら変態の域だが、それでもすぐそこに、筆を持つ早乙女さんが居るのだと思えば、その漆黒のくせに澄んだような瞳の奥が、俺の心を癒やし温めた。


 「ほれ、どうだ」


 「……綺麗に書けたのか?」


 「それは自分で確認すると良いよ」


 「だな」


 あまり待ち運ぶこともなかったスマホを、移動が増えてから持ち運ぶようになり、寝巻きのポケットから不慣れな手付きで取り出す。カメラを起動し内カメへ。


 「やっぱり、読めないくらい汚いな」


 早乙女さんは、クラスでも知られる秀才。そしてそれに倣ったかのように、字は途轍もなく綺麗だ。しかし、筆の根まで使って書いた【変人】は、あまりの太さに読めるはずもなかった。


 「人だけは読めるけど、変は隙間がなくて四角に見えるぞ」


 「はははっ。そうだよね。一画目を書き始めた時に思ったよ。これ、絶対書けないって」


 高々に笑って、その裏切らない柔和な笑顔と、そのせいで潤み始める瞳が、俺には幸福感を与えた。身に沁みて分かる、早乙女さんの笑顔の良さ。もちろん完璧で、少しずつ惹かれるのすらも感じた。


 「いやー、やっぱり恨みが強いと文字も書けないね」


 「変人だけで、そんなに恨みを持てるなら、不満なんて溜まりに溜まってそうだけどな」


 冗談だとしても、不満がないことは、やはり相性が関係しているのだろうか。

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