第69話 仕返し

 手が動くのは、俺の意思に沿ってなのだが、我ながらその理由を知り得ない。普段、赤く染まることのない頬が、赤く染まり、物理的とはいえ珍しい早乙女さんの姿に、俺は目を奪われる。


 「でもさ、筆って扱い間違えると危ないから、これは七夕くんにおとなしくしてもらうしかないかな」


 筆は、はっきり言って長い。箸や歯ブラシといった、口に何かしらの関係のある棒状の道具と似て、学校や両親から扱いに注意を促される道具だ。


 昔のニュースに目を向ければ、大きな怪我を負った学生も存在するのだとか。それを適当に振り回し、偶然目や口の中を激しくついてしまえば、それは後戻りが出来なくなる。


 「仕返しをされるために待つっていうのも、新鮮で良いけど、どうなんだろうな。風呂上がりにすることじゃないのは、今して分かった」


 正対する俺たちは、とっくに入浴を済ませた身。顔とはいえ、保湿をしているかもしれない、はたまた別の液を施してるかもしれない顔に、好き勝手塗り合うのは憚られるのが普通だった。


 「でも、私はそれを許した。だから七夕くんも許すべき。いや、お姉ちゃんからの命令です」


 「姉からの命令なら、余計に聞きたくないんだけど?」


 「それでも聞かないとダメ。それが、いじわるをした罪滅ぼしだから」


 「……まぁ、今更自分がしといて仕返しに必死に抵抗することはないけどさ」


 面倒を好きだと思う稀有な人間ではない俺。これから顔を洗いに行く必要が出たのなら、内側から悶々とするような、面倒への嫌悪感が現れる。


 しかし、それよりも遥かに上回るのが、早乙女さんとの時間の愉悦。俺も感化されたか、側で早乙女さんと話を続けることで、次第にその話の内容に引き込まれて行くような、自分が望んで引き込まれて行きたがるような気持ちが芽生える。


 淡くて微弱。とても形容し難いほど極小のそれが、俺には心臓を震源地として響く。


 「何色が良い?やっぱり同じ色?それとも青とか緑にする?」


 ふと、目を合わせれば、嫌うのではなく、何かしらの理由を含んだ表情で、サッと逸らす。絶対だと、逸らす理由が絶対に悪ではないと思えるから、気分を害することもない。


 恍惚とした気持ちは分かる。それに踊らされ、侵されて、感覚も何もかも麻痺してるんじゃないかっても。だから、それに惑わされ続ければ、この先どうなるのかも、分かる気がした。


 「何色でも良いよ。早乙女さんの好きな色で」


 知りたい欲があった。思えば、何度も何度も話を続けて、知れたのは極僅か。好きな色なんて知ったとこでどうするのか、なんて思うほどちっぽけで、今更興味もないことも、俺は知りたい。


 「だとしたら……これかな」


 最も自分を表すに近い色。よく巷でも聞くようになった、最近有名な【白】。塗料も絵の具のようで、俺の乏しい色彩の種類と相まって、ただの白色としか言えないその色。早乙女さんの、乳白色の肌をも凌駕する真っ白。淀みも汚れもない、純粋無垢な早乙女カラー。


 「白、好きなのか?」


 「好きだよ。何色にも染まれるし、何色にも染まってない。単純に綺麗だから」


 確かに、何度もその色彩を見て、目の前の美少女を頭の中で思い浮かべるほど、その単色は美しい。清楚を語るには、十分だ。


 「七夕くんは、赤色が好きなの?」


 パレットに、適量の白の塗料を垂らして、でも目は俺と合う。これまで合えば合うだけ逸れていた、漆黒の双眸が、俺の答えを求めていた。ノールックでつけられる筆先の白は、ベタ塗りにしても多すぎるほど、分量ミス。


 「いいや。赤はそんなに好きじゃない。好きなのは、淡い桃色か、渋い紫色かな。落ち着きっていうか、暗くても明るさも持ち合わせてるような色が好きだ」


 聞かれてないが、次の質問を先読みして俺は答えた。俺個人では、自分の好きな色なんて心底どうでもいい。価値なんて皆無で、聞くだけ時間の無駄だから。


 でも、早乙女さんのことは気になる。そのように、もしかしたら早乙女さんも、俺と似た気持ちで聞いてきたのではないかと、俺の本懐は思いたがっていた。


 「そうなんだね。私と似てる。白の次は、青藍色っていう青の中でも、藍色に寄った暗めの色が好きだから」


 「珍しいな」


 「でしょ?意外と好きな色はあるんだよ、私って」


 変だとは、正直思った。だって、好きな色を、それも知れ渡った端的な名前ではなく、具体的な色を2つ目として持っていることが、俺には普通とは思えなかったから。


 でも、それが良いところだとは思った。好きなものには嵌ってのめり込む。自分の欲や意思に沿って、従順に行動する。俺に弟としての立場を求めて接することと似ていて、我を貫く人としては普通と思える。


 「それじゃ、何書こうかな」


 ベチャッと、叩きつければ放ちそうな筆に、ゴクリと唾を飲まされる。蛇に睨まれた蛙ではないが、動いて回避なんて許されない今、俺は無駄に動悸だけが激しい。早乙女さんに何かされると思えば、それが理由で。


 きっと、一歩ずつ近づいているのだろう。人に対して興味がない俺が、似た境遇の人と出会ってから感化され、今も尚、その親近感が距離感を縮めて、興味を出し始めている。


 多分、これからの俺は、大きく変化する。それは確実で、早乙女さんが関わることは間違いない。そう思えたのは、筆が近寄る寸前だった。

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