第62話 危ない

 しばらくして、重たい腰を吹き付ける風に任せるように動かす。もうここに居ても悩みはないし、十分な休息は得られた。ここに居るよりも、今は戻って早乙女さんとの距離感を知るべきだ。


 背伸びして溜まった疲れを飛ばす。気分的なものでも、今の俺には大きな効果がある。秋がすぐそこまで近づいた今、この涼しさも離れると思うと、どことなく寂しさを身に感じる。


 多分、ここに来るのは今年最後かもしれない。寒さや感情に揺蕩うことすらもなくなり始めた最近だと、そう思うようになった。また来年、この防波堤に送られる風と波音を感じ取りに来よう。


 踵を返し、帰宅のために歩く。街灯なんてうっすらで、足元なんて暗順応した今でも見えにくい。でも、慣れた俺の感覚は不安要素を取り払った。大丈夫だと、今どこにいるのだと知らせて。


 防波堤の付け根が見えると、街灯は意味を成す。常闇に一筋の月光が差したような安心感。俺はそれを感じながら、目の前に意識を割かれていた。


 一瞬映った街灯下の影。人間のような外見に、幽姉妹かと思ったが、そんなことはなかった。


 「早乙女さん?」


 「あっ、七夕くん?」


 少し先に立つ俺の姉。無くしたものを見つけたように気づいた。その場合人間はどう動くのか、それは急いで取りに行く、だ。


 気づいて俺の方へ走ってくる早乙女さん。しかし、俺は焦った。この防波堤、実は老朽化が激しく、様々なところが欠けているのだ。特に足元。平坦と思って走る暗闇の中で、コケる可能性は大きかった。


 「早乙女さん、足元悪いから気をつけないとコケるぞ。歩いてゆっくり来てくれ」


 「え?何?」


 なんて言っても、手遅れなら無意味だった。俺や幽姉妹がここに初めて来た時、絶対に躓いてコケた場所が存在する。そこを暗闇の中で避けれるわけもなく、目で見える僅かな窪みに、既に右足が入りかけていた。


 「危ない!」


 「キャッ!」


 危ないからと、俺も歩いて向かっていた。しかし、態勢を崩す姿を見て、俺は自分のことなんてどうでもよくなった。思いっきり地を蹴って駆けた先、膝を曲げて防波堤の外へと投げ出される勢いで倒れ始める早乙女さんのとこへ、俺は向かった。


 千鳥足で高低差のある防波堤から、付け根付近の浅い海へと落ちそうになる。それを確認して、俺は咄嗟に左腕を強く握りしめた。しかし、それだけで止まるなんてのは、慣性の法則が許さない。勢いは消えず、俺はその腕を引っ張らないといけない、と、脳内で危険信号を出す。


 声に出して驚くことも、注意することも出来ない。そんな余裕のない今、俺はただ早乙女さんの腕を強く後ろへ引いた。それだけが唯一出来たこと。早乙女さんを助けるために出来た最善の策だ。


 早乙女さんは、引かれるまま防波堤に留まる。が、そうなれば俺が落ちるための力を借りたことになる。つまり、今度は俺が防波堤の外へ、浅い海へと落とされる。しかし俺はそれを受け入れていた。そうでないと助けることが出来なかったから。


 テトラポットもない、防波堤の内側の穏やかな波の立つ海。高さ3mはあろうかという防波堤から、俺は落ちる。あっ!っと手を伸ばす早乙女さんを見た瞬間、俺の背中に水の衝撃が加わり、目の前が海水で埋められた。


 背中はすぐに底へ着いたが、その痛みはなかった。水が緩衝材として働き、痛覚を刺激することもなかった。あるのは水温が俺の体を包むことにより、交感神経が働き、ただただ寒さを感じるだけの時間。


 痛い、よりも寒い、だった。


 「ぷはぁ!寒っ!!!」


 恐怖に勝ち、出た第一声。10月を控えた今、海は途轍もなく寒かった。全身を覆う海水。ピッタリと肌について寒さを逃してはくれない。ヤバいと思い、付け根側へと上がろうとする俺に、早乙女さんは言う。


 「七夕くん大丈夫!?」


 スマホの明かりによって見えないが、俺の安否が気になるのはよく伝わるほど叫んでいた。


 「怪我はしてないと思う。ただ寒いだけ。陸に上がりたいから、歩く先を照らしてくれない?」


 「う、うん!分かった!」


 膝上までになった海面でも、フジツボたちを踏みつける可能性があるので、ガクガク震えながらも、ゆっくりと確かな足取りで先へ進む。


 そしてやっと、早乙女さんと出会った防波堤の付け根付近まで到着し、ただ濡れるだけという自己犠牲でなんとか出来た。


 「大丈夫?ごめんね、私の不注意で」


 酷く落ち込んで、負い目を関じている様子。今日に良くないことが重なったんだ。傷心には辛いだろう。


 「いいや、色々とあった早乙女さんに寄り添わなかった俺も悪い。怪我はない?」


 側で話を聞いてあげるべきだった。昨日、寝る前に俺を捕まえてでも心の傷を癒やしたかった。その気持ちを理解していて、1人でここに来たのは反省すべき点だ。


 「うん。怪我はしてないよ」


 「なら良かった。取り敢えず、話は後にして今は帰ろう。俺も寒いのは苦手だし、話すこと考えることは落ち着いた時が良いから」


 「そうだね」


 戻ったら、話を聞いてあげなければ。俺が今後寄り添えるようになるためにも、早乙女さんの気持ちが埋めれるようになるためにも、家族として、俺のやるべきことをやる。


 求められることは全て、欲求を満たす行為。冗談でないならば、俺はそれに応えるつもりだ。負った傷を癒やすために、出来ることはなんだって。

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