第56話 抵抗不可
こうなることは可能性として考えていた。何度も七夕くんに「男は獣」だと諭されていたのだから、それは当たり前に。しかし、実際その場合に陥ってしまうと、過去のことも干渉し、私の四肢の動きを止めた。
近づく八尋先輩から逃げようと思っても言うことを聞かない。この先どうなるかなんて容易く理解出来るのに、それでも私は待ち構えた。座ってる以上、足でも手でも攻撃は出来る。最低限の足掻きだが、するしかなかった。
「私も、一方的にやられたと言えば、先輩と同程度の信頼を得ているので、退学は免れないですよ」
「出来るのか?俺はお前の体を撮る。それをネットに投稿されたらどうなるだろうな。もうお前の今後は抑止出来てんだよ。黙って無抵抗のままいろ」
高圧的な態度。不満なく生きてきた人間、若しくは親に甘やかされて育ち続けた顔だけが良い人間に多い一面。心底嫌いだ。私と真逆の生活を過ごし、その上で他人を支配する。そんなことが許されるわけがないというのに。
距離はまだあった。テーブルを避けず、片足をテーブルに載せて私の方へ歩く。その時に、しっかりと危険を感じた。自分にこれから何が起こるのか、逃げなければどうなるのかを。豪胆に構えても無意味だと、逆の境遇で生きてきた人間に対する嫉妬を一旦忘れて、私は瞬発的にソファから腰を離した。
「おっとぉ!!」
「――ん?!!」
しかし、正面から戦おうとして、途中離脱が叶うわけもなく、逃げ遅れた左腕をがっしりと掴まれた。運動能力も高く、それに応じた筋肉質な体躯だからこそ、その掴む力は私には痛みを与えた。
「ここに来て逃がすかよ」
常軌を逸した人間の目。元父ほどではないが、冷めきったその瞳と、欲に駆られた後先考えないその低能は、今の私にしか意識を割いてないようだった。
掴まれた瞬間、私の体は仰け反った。掴まれただけじゃなく、腕を若干引っ張られたからだ。私もそれなりに運動能力は高い。結構な速さで逃げ出したため、その引き戻される力は抗えないほど大きい。
焦りを身に感じ、小学生から教わっていた教訓。私はそれを本能的に思い出し、即座に実行した。目の前の空気を肺がパンパンになるほど吸い、そして。
「助け――ん!」
しかしそれも無駄だった。カラオケ店は声が通りにくいのはもちろんのこと。だからこそ、強めに叫んで助けを求めようとした。それを考えられないほど低能ではなかったらしく、叫ぶ瞬間に私の口を、私を引き寄せ、抱きしめながら塞いだ。
「叫ばせもしねーよ」
耳元で聞こえる、これまで優しいと思っていた声。私に寄り添って、心寂しい私を好きだと言ってくれた声。それは今はもう、大嫌いで嫌悪してもしきれないほど癪に障った。
ピッタリとくっつく体。私はそれが嫌だった。きっと、浮気をする人だと知らなくて、今まで通りの体裁を保った八尋先輩となら、優しさに包まれたと勘違いして喜んでいた。
でも今は違う。離せと、汚らわしいと、同じ部屋にいることが苦痛でしかなかった。いつの間にか嫌いになった心も、最初から好きではなく、
「もうお前は逃げられない。助けられもしない。詰みだ」
その答えを、私は睨んで示した。だからなんだと、お前のような人間に屈することはしないのだと、確かに目を見て。
「そんな怒るなよ。俺だってお前に引けを取らない、予約が埋まらないくらいのモテ男なんだ。光栄に思ってもらいたいくらいだ」
気持ち悪い。確かに容姿が良いことを理解して、それを武器に戦う人は尊敬するしカッコいいと思う。しかしこの男はその方向を間違えている。ただのゴミクズだ。
「それじゃ、始めるか」
そう言って、私の洋服の中に手を忍ばせ始める。抱きしめているとはいえ、同じ人間。片手は口にあり、もう片方は服の中へと入ろうとしている。この状況で、私の両腕は右腕だけが固定されていた。
左腕はなんとか出来る。そう思い、引き離すために全力で八尋先輩の左足を叩こうとした。と、その瞬間、それも先読みしていたと言わんばかりに、今度はソファへ私を抱きしめたまま座る。
「これで、抵抗はほぼ無理だな」
抗う術を悉く封じられる私。座られた時点で、両足も自由になり、私は拘束される。身動きも取れず、声も出せない。されるがままだ。抗うことで恐怖と目を逸らせていたが、それも出来なくなり、次第に呑まれていく。
体を捻って逃げ出そうとしても無理。叫ぼうとしてもカラオケ店内では意味がない。無力な私は唸って「やめて」と意思表示するしかなかった。
「お前がもう少し賢ければ、誰かを呼べたのにな。1人で解決しようとするのがバカだったぜ」
怖い。この先どうなるか分からないことが怖い。これまで優しく接してくれた人が、こんなにも変わるのだと、私は初めて知った。欲に駆られて、好きなように振る舞う。そんな人だったなんて、微塵も感じなかったのが怖い。
思い出す。まるで幼き頃の元父を見ているようだ。
――しかし、私は賢くなかったけれど、私の家族は優しくて、心配性で、私のためなら賢くなってくれる。それはいつだってそうだ。これから先も、私は彼を信じている。
ポケットに光るスマホの明かり。それに気づかない八尋先輩は、私の肌に触れる。胸へと迷いなく迫るその腕を止めるのは、私ではなかった。
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