第49話 おはよう

 簡素な部屋に、ベッドの上には置き去りにされたようなぬいぐるみ。そして何よりも目を奪う、倒れた美少女である姉。どこを見ても必ず姉が目に入ってしまうほど、綺麗な寝方だった。


 「やっぱりか……」


 元から床に寝るわけでもないだろう。何よりも、今落ちましたと言わんばかりに、毛布が半分だけ倣うように落ちていた。


 まだ9月下旬。半袖半ズボンの部屋着なので露出は多いというのに、落ちた影響で腹部がほとんど露出している。へそが見えるか見えないかの位置で、目を奪うには十分だった。


 そんな早乙女さんにゆっくり歩み寄る。落ちても起きないのだから、足音で起きるようなこともないだろうが、普段の起床時間と30分ほどしか変わらないのに熟睡しているのはイメージ通りだ。


 顔を見ようと膝を曲げれば、スヤスヤと気持ち良さそうに眠る表情が可愛らしく映る。この人が昔、元父から甘えることを奪われた人なのかと思うと、信じられないほどの可愛さ。心の中が温まるような眠り方に、俺も何故か笑顔になる。


 「幸せそうに寝てるな」


 今の生活に満足しているようにも思える眠り方に、俺は邪魔をする気は起きなかった。入ってくる前は、好奇心から頬をつねってやろうとか、デコピンしてやろうかと思っていたが、この表情を見る方が得だと思った。やはり美少女は、笑顔が1番だ。


 見続けたら気配で起きてしまうこともあるため、床で寝かせ続けるわけにもいかず、俺は勝手に触れることを謝りながら膝裏と背に両手を入れ込み持ち上げる。


 軽すぎるな。


 フワッと持ち上がる体は、柔らかいとか細いとか、そういう感想よりも先に軽さを伝えた。150後半とは思えない軽さだ。10kgのお米を2つ持つ方が重いと思えるくらい錯覚する。


 持ち上げた早乙女さんを、すぐ側にあるベッドの上へと運ぶ。距離なんて50cmもないため、男なら誰でも簡単に寝かせれる。脱力してる人は重いと言うが、そうでもなかった。


 そっと寝かせて毛布を掛け直す。いびきもなく、変わらない表情に、俺は心配事なんて消えて見ていた。ただ、寝相が悪くてベッドから落ちただけだと、思えば笑みが溢れるだけだった。


 俺は可愛いには弱いのだと自負してる。だから、今可愛いと思う早乙女さんに対して、浮気をしている八尋先輩のことが自然と浮かぶ。ただ普通に幸せになりたくて、こういう表情を見せ合って共有したいと思う人に浮気とは、と。


 大変だな、早乙女さんも。


 許せなくても、暴力はいけない。だから少しでも平和に解決出来ればそれでいい。弄んだことは許したくない。されたのは俺じゃなくても許したくない。だから、反省し続けるように、何かを……。


 「おはよう、七夕くん」


 考え事をする時は、いつも下を見る癖のある俺。目を開けた早乙女さんに一切気が付かなかった。


 「あっ、おはよう。起こしたか?」


 「ううん。起こされてないよ。元々起きてたから」


 「元々?いつか――わっ、何々?」


 ベッドの横で座る俺の上半身に手を回して、所謂ハグというやつをしてくる。一瞬で理解不能に陥り、それは未だに続く。流れ的にこうなる説明がつかなかったから、混乱は当たり前だった。


 「実は、七夕くんがお母さんにいってらっしゃいって言った時に起きて、七夕くんが起きてるなら私の部屋に呼んでいたずらしてやろうと待ってたの」


 「……ってことはわざと落ちたってことか?」


 「そういうことだね。痛かったけど耐えた」


 やはりあの音で起きないなんてことはないか。


 「寝相悪いの期待してたのに」


 「寝相は悪いよ。落ちたり逆さまになるのは日常茶飯事だから」


 「マジか。それは良かった」


 何が良かったかなんて、忍び込めば何回も見れるということに対してだ。忍び込むことは滅多にないが、疲れを癒やす時には結構ありかもしれない。


 「それで、満足か?」


 「うん。手を出されるか気になったけど、七夕くんって性欲がないっていうイメージ通りだったから満足」


 「姉に手は出さないだろ。心配で入ったんだし」


 「その割には、幸せそうに寝てる、なんて言ってたけどね」


 「本当に幸せそうだったからな」


 もし質問の意図が、彼氏持ちの私に手を出すかの試験としてだったら、それは少し胸が痛い。八尋先輩とどれだけ距離を縮めても、浮気をする最低人間として別れなければならないのだから。それは無意味で可哀想としか思えなかった。


 俺の今は、少し解放された気分だ。彼氏持ちとして一線を引かなければならない存在である早乙女さんと、これからは引かなくて良くなったのだから。だから罪悪感はほとんどない。


 今の状況で詰め寄れば詰め寄るほど、優しさと寂しさがどれだけだったのかを知ることになり、同時にそれを今まで埋めていたのが浮気男、八尋先輩だったと知ることになる。悔しいというかなんというか、無駄な時間を使わされた気分になる。


 もっと早かったら、なんてな。


 「ところで、この状況は?」


 暗い話は今はいらない。明るく楽しい会話をしたい。早乙女さんとは仲を深めたいからこそ、雑念は捨てる。


 「これは弟とのコミュニケーションです」


 腹部に巻き付いた腕。ガッチリと固定されて逃さないのだと伝わる。目の前には寝ながら巻き付こうと必死な早乙女さんが居る。向き合ってるから、距離がどれだけかも知ってる。


 30cmもない至近距離。俺には結構厳しい距離だ。

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