29 湯けむり天国
「リリナは本当に料理が上手なのですね。どの品もとてもおいしくいただきました」
せめてこれくらいはと、皿を洗いながらシトラは珍しくリリナを素直に褒めた。自慢ではないがシトラはほとんど料理を作れない。
「大した腕前じゃないと思うけど、イルヴァさんやシトラに喜んでもらえるのは嬉しいよ。お母さん譲りの秘伝のレシピはまだまだあるから期待してて。それじゃ、お待ちかねのお風呂に入ろっか。我が家自慢の温泉なんだよ」
「ええ、私も裏庭の温泉はずっと気になっていたので楽しみですわ。ですが最初はやはりグリン君が一番に入浴するのがいいと思います。その後に私達二人が交代で入りましょう」
「……え? なんでグリンと一緒に入らないの?」
「………………はい?」
リリナの純粋な疑問に二人の間に沈黙が流れる。シトラの頭の中ではリリナの言葉が反響していた。
(グリン君と一緒にお風呂……。混浴!? 二人はいつも一緒にお風呂に入っていたのですか!? なんて羨ましい! じゃなかった、ついに本性を表しましたね! やはりあなたは危険人物でした! グリン君は私が必ず助けて差し上げます!)
頭に血が上ったシトラは据わった目でリリナの両肩を掴もうとするが、既に竹の篭に入ったお風呂セットを抱えたグリンが視界に入る。グリンの青い瞳は澄んでいて一点の曇りがない──ようにシトラには映った。急速にシトラは落ち着きを取り戻す。
(いや、ここで感情を爆発させるのは得策ではありません。見方によればこれはチャンスです! だってグリン君と一緒にお風呂に入れるなんて、もう天国に招待されるようなものじゃありませんか!)
「そ、そうですね。裸の付き合いという言葉もありますし、やはり遠慮せずに一緒に入浴するべきですね」
「それがいいよ。きっとみんなで入った方が楽しいから。我が家のお風呂はグリンもすぐに気に入ってくれたんだよ。ね、グリン?」
グリンはこくりと頷く。シトラは平静を装うも緩みっぱなしの口元を引き締めるのに精一杯だった。
実際に温泉の脇にやってきたシトラは緊張して口数が少なくなっていた。当然だがグリンに今から裸を見せることになるからだった。
本来は子供相手に気にすることはないのだが、グリンが相手だとどうしても視線を意識してしまう。性的にではなく、単純に自分の身体がグリンの目にどう映るのかが心配だった。
シトラも自身のスタイルは悪くないと自負している。普段剣術の訓練で鍛えているだけあって身体は引き締まっているし、かといって出るべきところは出ていて女性らしさも失ってはいない。
洗い場でシトラ以外の二人は躊躇いなく衣服を脱いで籠に入れる。グリンの裸は神々しくて直視できないが、雪のように白い肌は女性から見ても羨ましくなるくらいだった。
その時信じられないものをシトラの目が捕らえた。
リリナの双丘である。
(な、なんなんですのあの大きさは。そんなおっぱいあまりにグリン君の教育によろしくないのでは!? あぁもう! 人の世界に不慣れなグリン君にあれが普通だと思われたらたまったものじゃありません!)
シトラはいら立ちを隠さずに衣服を勢いよく脱ぎ始めた。なんだかもうどうでもよくなってしまったのである。
「はい、じゃあグリンの頭はいつもみたいに私が洗うね。グリンはシトラの髪を洗ってあげたら?」
「──へっ!?」
その言葉にやり場のない怒りからシトラは我に返った。気が付けばグリンに手を引かれ木製の椅子に座らされている。背後には確かにグリンの気配を感じた。
少しずつ湯をかけて優しく髪を撫で始めたグリンの手にシトラの背筋がゾクゾクとうずく。温泉に浸かってもいないのに身体が熱くなってきたシトラにグリンはぽつりと呟いた。
「……赤い髪、綺麗」
(ああ、幸せ過ぎてなんだか私、幻聴まで聞こえてきましたわ。なんて愛おしい天使のささやき……)
グリンにとっては何の気もなしに思ったことをそのまま口にしただけだろうがシトラはそうは思わなかった。
初めて私はここにいていいのだと言われたような気がした。なんならここに居てほしいとさえ言われたような……。
思えばグリンには出会ってから醜態しか晒していない。そんな自分の全てをグリンは肯定してくれたように思えた。
都合のいい解釈だったがかけがえのない勇気をもらったシトラは明日から自然にグリンと接することができる気がした。幸せ過ぎてこのまま魂が抜けなければいいのだが。ああ、今こそこう言う時か、『夢なら覚めないで』
そこからのシトラの記憶は曖昧だったが、湯に浸かりぼんやりと星空を眺めていると微かに意識が戻ってきた……と思ったらまた抜けていく。魂が自由だった。
その原因はちらちらと視界に入るグリンの裸だと、リリナにしつこく話しかけられて我に返ったシトラはやっと感づいた。
幸福な時間を余すことなく堪能しているシトラはまず自分に一つの制約を課した。
グリンを極力直視しないことである。今の自分には裸のグリンはあまりに刺激が強いとシトラは思い知らされた。さっきからずっと鼻の奥がツンとするのだ。愛しのグリンが浸かる湯を欲望のまま赤く染めるわけにはいかない。
「まさかグリン君が言葉を話せるようになっていたなんて。はぁ、ここはやはり極楽だったのですね……」
「ふふっ、シトラもすっかり温泉の虜みたいだね。それでイルヴァさんが私達に魔法の指導をしてくれることになったんだけど、一体何をするんだろうね? 心当たりはある?」
「ふぅ……もう、私……。……え、はい、何でしょう。心当たり? イルヴァ様の魔法の指導? ううん、魔法と言っても魔女の使う魔法と人が使う魔法は似て非なるものですから私の意見はあまり参考にはならないかと思います。それはリリナもご存じでしょう?」
「もちろん、知識としては知ってるよ。簡潔に言うなら魔力を用いるのが魔女の魔法、魔石の力を用いるのが人の魔法だよね」
「ええ、その通りです。ただ別に魔女に魔石が扱えないということではありません。要するに自分の身体中に魔力を帯びている魔女が、わざわざ採掘された魔石に頼る必要がないということですわね。姫様は私達への指導もあったので例外的に魔石も使用していましたけれど。私はあくまで人の魔石使いに過ぎません。あなたの力になれるかどうかは……。そうだ、その代わりに私からは剣術の指南をしてあげますわ。護身術にもなりますからきっと役に立ちますわよ」
「おお! あのレイピア捌きは初めて見た時からずっとかっこいいと思ってたんだぁ。私にもできるかな……。ええと、こうして──てやぁ! ──えいっ! こんな感じ?」
湯に浸かったままリリナが腕だけで派手にレイピアを突く仕草を繰り返した。大きな胸が揺れ無慈悲な波が起こる。その全てがシトラに容赦なくかかった。
「……もうあなたに教えることは何もありません」
「なんでよぉ!」とリリナがシトラにすがりつく。押し付けられるありえない大きさと柔らかさに、いよいよシトラの赤い髪が逆立つがこの場にはグリンがいた。シトラはいつか目障りな脂肪の塊をもぎ取ってやると心に決め、辛うじて気持ちを静めた。
騒がしい二人から泳いで離れたグリンは、温泉を囲む岩に顎を乗せて安らいでいる。
グリンが優しい目線を送る先には、肩を寄せ合うように膝を抱えて座る二体のゴーレムが静かに眠りについていた。
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