10 一国の女王
グリンとリリナが近づいてくる飛空船から藪の中で息をひそめることになる日の朝、王都アイトリノに一人の女性の姿があった。
周囲を六本の塔に囲まれた冷ややかで無機質な灰色の城。その最上部のバルコニーから遠くの空を眺めていた女性は翡翠を思わせる美しい瞳を細めて言葉を洩らす。
「──やはりエルツの森に異常が起きているのは疑いようがない。いきなり私が出向くわけにはいかないし、すぐにシトラを向かわせるか」
身体にまとわりつくようなタイトな紺色のロングドレスをまとった背の高い女性は美しく整った顔を微かに歪ませる。手すりに背中を預けながら流れる金髪をかきあげる仕草は画題になりそうなほど麗しい。
しばらくして屋内から凛とした声が響く。姿を見せたのは赤髪の女性だった。肩にかからないほどのボブカットで片目は前髪に覆われている。長いまつ毛が印象的な臙脂色の瞳は自信に溢れていた。
身にまとう金ボタンのついた、生地の厚い灰色のワンピースは軍服のようにも制服のようにも見える。
「よく来てくれたな、シトラ。街の様子は?」
「はい、イルヴァ様の言われたように市街地を見て回りましたが特に異常は見られませんでした。数日前の局所的な大雨により一部河川の水量が増しましたが、氾濫までは至らず、水位は徐々に治まりつつあります」
「それは良かった。私も夜更かしした甲斐があったというものだ。この話はもう気にしなくていい。どれ、紅茶でも飲んでいってくれ」
イルヴァは直立していたシトラをバルコニーの隅にある椅子に座るように促し、テーブルを挟んで対面に自分も座った。
「さて、ここからが本題なんだが、今日の午後は戦闘訓練の予定を変更してエルツの森に飛空船で向かって欲しい。ライム湖付近にひと際高い黄緑色の樹木と一軒の小さな家屋があるはずだ。そこの住人をアイトリノに連れて来て欲しいんだよ」
イルヴァが話をしている間、テーブルの上のティーセットが独りでに動き、あっという間に二人の前に琥珀色で満たされたカップが用意される。不可思議な光景だが、イルヴァとシトラにとっては日常のようだった。
「ええ、承知しました。しかしやけに突拍子もないお話ですね。ライム湖の辺りはつい最近も私たちはリンゴンで飛行していますが、そのような建物も人物も見た覚えは一度もありませんが……」
「だろうな。アイトリノの国土のはずれにある迷いの森。そのさらに奥深くに普通の人間が住んでいるとは考えにくいのは当然のことだからな。別に何もなければないでそのまま手ぶらで帰ってきて構わない。ただ──誰もいないはずはないんだ」
その明らかに含みがあるイルヴァの言葉に赤髪の女性は頷いて目を閉じる。一呼吸置いてゆっくりと開いた目は輝きに満ちていた。
「……何やら面白そうなことになりそうですね。承知しました、女王様直属の親衛隊長であるシトラが、勇気と誇りを持って任務を遂行して参ります」
シトラの表情が緩み、微かに口角が上がる。彼女はまるで獲物を見つけた肉食獣のような歓喜を無理矢理に抑え込んで冷静を保とうと努めていた。
「よろしく頼む。……あまり張り切りすぎるなよ」
「ええ、遠回しな激励として受け取っておきます。それでは失礼します、イルヴァ様」
眼前の紅茶を一気に飲み干し、わざとらしいほどに仰々しい礼をして去っていく部下の姿をイルヴァは苦笑して見送った。
「まったく、相変わらずあいつは紅茶を喉の乾きを潤すものだとしか思っていない。普段は冷静だが実務となるとすぐ前屈みになるのも悪い癖だ。まぁ余程のことがなければあいつも手荒な真似はしまい。──さて、私も準備に取り掛かるとするか」
立ち上がったイルヴァは再びバルコニーから身を乗り出して東方の空に目をやった。その方角にはこれから数刻もせずにアイトリノの技術の結晶である飛空船が飛んでいく。
「あの子と会うのはいつ以来になるかな。まさかこんな形になるとは思わなかったが──全てがシアの手のひらの上なのは認めるしかなさそうだ」
アイトリノ王国の女王イルヴァ・ヴァンフォッセンはぼんやりと城下町を見下ろしながら、伏し目がちに呟いた。
かぐわしい紅茶は手が付けられないまま冷めていく。
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