5 見上げる夜空

「おおっ! ふむ……これは……すごい!!」


 思わずリリナが感嘆の声を上げるほどに、グリンの白くきめ細やかな肌は手触りが良かった。つるつるしていて手が吸い付く感触にずっと触っていられるなぁとリリナは思ったが、当然ながらグリンは身体を跳ねさせて暴れた。

 そのまま身をよじってリリナの手からすり抜けると勢いよく温泉に飛び込む。


 グリンは少し離れた湯の中で鼻から上だけを水面上に出し、ジトっとした目でリリナに抗議の目線を送った。ひょっとすると出会ってからグリンが一番感情を表に出しているのは今かもしれない。

 リリナはグリンの反応の大きさに申し訳ない気持ちになりながらも、同時に人間らしい仕草に嬉しさを感じた。


「ご、ごめん、ごめんってば! つい出来心で。あまりにすべすべそうだったから……実際、すべすべだったんだけど……。そうだ! お返しに私のこともくすぐっていいから、ね? どこを触られても我慢するから!」


 何を言っているのか自分でもわからないがこんな悪戯で仲違いをしてしまったら目も当てられないとリリナは思った。焦ったリリナは必死にグリンを手招きする。


「ほらもうしないからこっちに来て? まだ頭を洗ってないでしょう?」


 幸いグリンはそこまで怒っているわけではないようだった。すぐに泳いでリリナの元へ寄ってくると座っていた椅子に収まる。リリナはほっとして息を吐いた。


(ふぅ、危なかった~。やっぱり欲望に忠実になるのは駄目。グリンに嫌われたら私は立ち直れそうにないし。うん、私はグリンに信頼される立派なお姉さんにならなくては!)


 リリナはグリンの頭を謝罪の意味をこめて丁寧に洗うことにした。一瞬グリンの髪の艶やかな手触りにまた意識を奪われそうになったが今度はなんとか堪える。背中にかかる銀色の美しい髪をリリナは無心ですすいだ。


 誘惑に打ち勝ち、手早く自分の身体も流し終えたリリナはグリンと肩を並べて湯船に浸かった。全身から力が抜けていく。二の腕に僅かに触れているグリンの小さな肩の感触に、リリナは今日一日の出来事が夢でも空想でもないと実感した。



 さっきのお返しにくすぐられるかもしれないと胸を抱いてそわそわしだしたリリナにグリンは気が付かなかった。

 乳白色の湯に浸かるとグリンは小さく息を漏らす。改めて自分の身体を触ってみる。小さな手に華奢な足、薄い身体。疑う余地もなく人間の子供の姿だった。


 姿と思い続けていたグリンだが子供の姿になりたかったわけではない。

 ちっぽけな自分の姿が見るに堪えられず、やるせない思いで空を見上げる。

 にいた頃より遠くに見える星空は不思議と以前よりも美しくグリンの目に映った。 


 なぜ今更になって人の姿になってしまったのだろうかとグリンは考えようとして止めた。

 何もかもがもう遅い。自分には既に関係のないことになのだから。

 グリンのぼんやりと定まらない視線は横で肩を並べ、くねくねと身体をよじらせて落ち着かない様子のリリナで止まる。


 この水色の髪をした美しい女性は全て自分に非があると勘違いしていたがそうではない。

 彼女は自分の命を助けてくれたのだから。


 グリンはリリナに「自分が勝手に落ちてきたのだからあなたが気に病む必要はないよ」と声を出して伝えようと思ったができなかった。 

 それは先ほどのように炎を吐き出して迷惑をかけてしまうことが恐ろしいだけではない。


 自分の正体と境遇を伝えたら彼女の心を乱してしまうと思ったから。

 何よりも、自分が一族から捨てられた存在だと知ったら、心優しい彼女は自分よりも悲しい顔をするのがわかってしまったからだった。


 人の姿になり、不思議と心も身体も敏感になったようにグリンには感じた。先ほど彼女に腹を触られた時などあまりのむずがゆさに飛び跳ねてしまったし、かと思えば今浸かっている温泉が身体の芯にまでどこまでも暖かく、心地好く感じる。


 人の姿になり、二本の足で降り立ったこの地には自分の知識だけではわかりえないことが溢れている。

 ただ、これからそれを知っていく資格が自分にはあるのだろうかとグリンは思った。



 日が沈み、立ち上る湯気の向こうの空に藍色が広がってきた。どこからか虫のなく声が聞こえる。


「グリン、お湯の温度は熱くない? 大丈夫? うん、ならよかった。……あのさ、嫌だったら答えてくれなくてもいいんだけど、グリンはどこに住んでたの? なんとなく方向だけでも教えてくれる?」


 首までしっかりと湯に浸かり、やっと平静を取り戻したリリナは目を細めながらグリンに尋ねる。火を吐くことができるなら火山や地底に所縁があるのではないかとリリナは考えていたが、グリンの反応は予想外だった。


 グリンは少し間を置いたが、真っ直ぐに天上を指差した。


「空? ……そっか、凄く遠くなんだね。きっとグリンを心配している仲間がいるだろうから、まずは連絡だけでもとれたらいいなと思ったんだけど」


 グリンは俯き、水面を見つめる。もしかしたらあまり触れて欲しくないことなのかもしれないと思ったリリナは話を変えた。あまり興味本位でこちらからグリンのことを詮索するのは避けたほうがいいのかもしれない。


「とりあえずグリンはいつまでも私の家にいてもいいからね。もう少し温まったらお家に戻って、お腹一杯にご飯を食べて、今夜はゆっくり休もうか」


 グリンは小さく頷くともう一度手の届かなくなった夜空を見上げた。

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