6 考えすぎる夜

「はぁ……可愛い……。ぶかぶか……いい……」


 湯上がりでほっぺたが桃色に染まったグリンの視線を感じて、リリナは桃色な思考から我に返った。


「で、でもそのシャツじゃ動きにくくて仕方がないよね。サイズの合った服は明日にでもすぐに用意するからね」


 簡素な黒のワンピースに身を包んだリリナはグリンには私物の紺色のシャツを着せてあげた。ただ着丈は膝下まで届き、袖からは手のひらが全く見えない。

 裸足のままではと、とりあえず履かせた木のつっかけもかなり大きく歩きにくそうだったので、リリナはグリンの手を引きながらゆっくりと歩いて家に帰った。



「今日からこの家はグリンの家でもあるんだからね」


 リリナは玄関の扉を開けてグリンを我が家の中に招き入れた。

 入口から続くひと間ではまず暖炉と若草色の柔らかそうなソファーが目に付く。奥には使い古された古風なテーブルと二脚の木の椅子が対面に置かれていた。


 壁や床には色濃い木目が鮮やかに残る落ち着いた空間。リリナはグリンをソファーに座らせると自分は調理場へと向かった。作り置きのシチューを温めて夕食をとることにする。グリンはソファーから身を乗り出してリリナの一挙手をじっと見つめていた。


 しばらくしてテーブルの上には木の皿に盛られた具だくさんのシチューと薄切りのパンが用意される。グリンの鼻がひくひくと動き、身体が自然とソファーからテーブルへと引き寄せられた。


「はい、そこに座って召し上がれ。この森は自然が豊かで山菜も木の実も川魚も豊富に獲れるの。……どう? この世界の食事はグリンの口に合うかな」


 見とれていた料理を勢いよく頬張ったグリンは顔を上げてこくりと頷く。すぐに再び木の匙をシチューに突っ込んだ。皿に視線が釘付けになっているあたり、その言葉は嘘ではないようだ。


(でもどうして召喚されたグリンはヒトの姿になったんだろうなぁ)


 シチューで白く汚れたグリンの口元をふきんで拭いてやりながら、リリナはずっと考えていた疑問を頭の中で巡らせた。


 はたして動物や魔物がいきなり人間の姿になってここまで自然に振る舞えるものだろうか。

 グリンは最初から二足歩行をし、手をどうやって使うものなのかを理解していた。


 最初から言葉と文字を理解しているのは魔法陣が作用したおかげかもしれないが、言われたことを理解し、それにふさわしい人間的な反応を教わらずに的確に返すのは特異なことではないだろうか。


 何か参考になるものはないかと必死に魔導書や母の言葉を思い返すが、リリナには一つも心当たりが思い浮かばなかった。そもそも人の姿をした使い魔の話など聞いたことすらないので単純な比較は土台無理なようにも思う。

 唯一リリナに推測できたのは、元のグリンがきっと高度な知能を持った生物だったのだろうということだけだった。


 グリンは目の前のシチューの具を一つ一つ掬って材料の味を確認するように口に運んでいる。あどけないその姿はリリナの小難しい想像を打ち消した。

 そうだ。そんなことは今はどうでもいいのだ。詳しい素性はいつかグリンが話したくなったらゆっくり聞けばいい。

 今はこの可愛らしいお客さんをこれから毎日どうやってもてなすかを考えようとリリナは心に決めた。


「おかわりも沢山あるからね」


 言い終わらないうちに差し出された空になった器を受け取りながらリリナは穏やかにほほ笑んだ。 



「いろいろあったから今日はもう休もうか。奥に私の母が使っていた空き部屋があるんだけど、……今は物置になっちゃってるから、今日は私と一緒の部屋で寝ようね」


 リリナは緩む口元を必死に堪えながら早口で説明する。決して嘘は言っていない。

 これは致し方ないことなのだ。不安で寂しい思いをしている子供に添い寝をしてあげるだけ……。


 ベッドをグリンに譲り、自分はソファーで寝るという選択肢もあったが、小柄なグリンとならその必要はない。何よりそんな勿体ないことはできない。


 桶の中で同じ皿を洗い続けていることに気付きハッとすると、食後も音も立てずにちょこんと椅子に座っているグリンがこちらをじっと見ていた。同じ動作を繰り返す変な人だと思われていないといいのだが。


 グリンの手を引いて二階に上がり、リリナは自室の灯りをつける。ベッドの他には化粧台と洋服箪笥、小さな書き物机しかない簡素な部屋だった。


 リリナは幼い頃の母親の記憶を思い浮かべながら、ベッドの上にグリンを寝かしつける。大人しくなされるがままのグリンの肩まで布団をかけ、そっとおでこを撫でた。

 照明を消すと月明かりだけが部屋を満たす。リリナの所作は優しかったが鼻息だけは荒い。


「お、おやすみグリン」


 リリナはグリンのおでこにそっとキスをした。あまりの鬼気迫る表情に、グリンが寝ぼけまなこでなければ怯えていたに違いない。

 リリナが一定のリズムで頭を撫でているとグリンは目を閉じすぐに寝息を立て始めた。


 薄らと窓から漏れる月光に照らされたグリンの顔をリリナは改めてまじまじと見る。肩まで伸びた銀色の髪、透けるような白い肌、女の子にしか見えない長いまつ毛と形の良い鼻、ちょこんと乗った桜色の唇。

 あらためて見ても人間の子供、それもとびきりの美少女にしか見えない。


 しみじみとリリナは自分の都合だけでグリンを使い魔としてこの地に呼び出してしまったことを申し訳なく思った。

 今更ながらとんでもないことをしてしまったものだと思う。ただそれと同時にこれからの生活はきっと楽しいものになる予感もした。


 混ざりかけの絵の具のように相反する気持ちをリリナはまだ処理できずにいる。そのことが一つの行動を彼女に躊躇ためらわせていた。


(唇を奪っちゃえばすぐにでも『私だけのもの』になるんだけどね)


 本来ならば魔女と使い魔は口づけを交わして正式な契約を結ぶ。要するにリリナとグリンの契約はまだ完了していなかった。

 グリンを明確に自分の使い魔とすることは彼の今後の運命を決めてしまうということでもある。それが今のリリナにはひどく恐ろしいことのように思えた。


 初めて会った時のグリンの泣き顔が今もリリナの脳裏から離れない。リリナには彼が泣いていた理由はわからないし、グリンの本心も未だわからないままだ。

 彼にとってあの涙は些細な出来事だったのかもしれないし、取り返しのつかない悔恨が溢れだしたものなのかもしれない。


 いずれにせよ自分には人ではない存在を人の姿にしてしまった責任がある。

 グリンを元の姿に戻す方法がわかるまでは身を粉にして彼の面倒を見ようとリリナは強く心に決めた。


「……よろしくね、グリン」


 リリナは目の前の天使のような寝顔の少年の頬を包み込むようにそっと撫でた。グリンの体温を感じた後、ベッドの反対側に回り込んで静かに布団に入り、グリンの横に添い寝をする。


 魔女の時はゆっくりと、普通の人間とは違ってあまりにもゆっくりと過ぎていく。


 だから今日までリリナは自分が依然として一人前の魔女になれていないことにそこまでの焦りを感じていなかった。

 しかしグリンと出会った今はもう違う。

 自分が魔女として未熟であることを、ここまでもどかしいと感じたのはリリナにとって初めてだった。

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