7 本の魔法

 明朝、薄明りの中リリナが目を覚ますと横には変わらず寝息を立てる一人の少年の姿があった。全てが夢ではなかったことにリリナは思わず安堵する。


 ベッドから立ち上がりカーテンを開けると、目をこすりながらグリンも体を起こした。着ているシャツは着崩れてあられもない姿になってしまっている。


「おはよう、よく眠れた?」


 こくりと頷くグリンの表情はほぼ変わらないが、感情がないというわけではないのをリリナは実感していた。これからの暮らしを考えると朝からにやにやが止まらない。


 一階に降り、食卓で向かい合って朝食を食べながらも、リリナはグリンとの今後について考える。                            

 もちろん、リリナはグリンにこの家から出ていってもらいたいわけではない。むしろいつまでも居てほしい。

 だからこそ、グリンには選択肢を与えたいと考えていた。もしグリンが望んでくれるのなら二つ返事で魔女と使い魔の契約を正式に完了させればいい。ただ今は冷静な判断がグリンに下せるとは思えなかった。


 真っ先にすべきことはグリンがしばらくこの世界で快適に暮らせるようにするための準備だろう。今のグリンには穏やかな時間が必要だとリリナは思った。


 なんの気なしに「グリンって人の住む世界については詳しいの?」とリリナは尋ねて可笑しくなった。森に引きこもっている魔女である自分も人間社会の常識には疎い方なのだから。


 バターが塗られた朝食のパンにかじりついたままグリンは横に首を振る。その反応はリリナにとっては意外だった。だとするとグリンの人間としての振る舞いは知識ではなく本能的に行われている可能性が高い。


──果たしてそんな魔物や生物がこの世にいるのだろうか。


「……じゃあこれから少しずつ教えてあげるね。グリンも人の生活に慣れないといけないから」


 あっという間に朝食を食べ終えたグリンにリリナはさて何から説明したものかと思案する。グリンは何を知っていて、何を知らないのか少しずつ擦り合わせていく必要があった。


「まず、私の住んでいるこの家はアイトリノ王国、ここらへんで一番大きな国のはるか西、エルツの森の奥深くにあるの。ここは別名迷いの森とも呼ばれているくらい緑が濃いから、慣れるまで外を歩くときは私から離れないようにね」


 グリンは素直に頷く。リリナは微笑んでポケットから黄色い包み紙のキャンディーをひとつグリンに差し出した。食べられるんだよともう一つの中身を自分の口に放り込むとグリンもそれを真似る。

 口の中に広がるまろやかなミルクの甘さにグリンの目は見開かれた。


「ここは僻地だから人は全く来ないけど、私は母さんの残してくれたある魔法を使うことによって森の外のコタの村まではすぐに辿り着けちゃうの。私はそこの村で森で足りない生活用品を調達しながら暮らしているんだ。実際にその魔法を体験したら驚くから今度連れていってあげるね」


 グリンはまた首肯し、手の平を差し出す。リリナは困惑するが、グリンの期待に満ちた視線には勝てなかった。貰った二つ目の飴玉をグリンは大事そうに両手で包んだ。


「それで私は今からその村に行ってグリンの衣服を用意してくるね。急いで戻って来るからそこまで時間はかからないと思うけど。その間この家で大人しく留守番していられるかな?」


 グリンは食い気味で頷き、手を差し出す。この子はひょっとして飴が欲しいだけじゃないかとリリナは思わずにはいられなかったが、仕方なく三個目の飴をグリンにあげた。


 食卓からソファーに移動したグリンのもとにリリナは二階の奥の部屋から本を三冊持ってきた。

 のぞく表紙は、


『アイトリノ地方かわいい生き物図鑑』

『魔石の基礎活用術』

『勇者コリンの冒険』


「ただ待つのも退屈だと思うから私が子供の頃に読んでいた本を置いていくね。とにかく絶対に家の外には出ないように! 約束だよ!」


 グリンはリリナの言葉に素直に頷いた。

 着替えて外出の支度をしたリリナは、何度も後ろ髪を引かれる思いで玄関を背にする。とにかく急いで帰ろうとリリナは森の奥へ走り出していた。



 リリナを見送ると、グリンは早速目の前の本に手を伸ばす。

 今まで修行しかしてこなかったグリンにとっては、雑多な内容の本がとても新鮮に思えた。

 貰った飴玉を口の中に放り込むとグリンはかなりの速さで手にした本のページをめくっていく。


『勇者コリンに助けれられたスミノ姫は全ての褒美を拒むコリンの唇に自らの唇を重ねました。流石の勇者もその褒美だけは断れなかったのです』


『魔石の活用により人々の生活は画期的に豊かになりました。火石の灯りは夜を昼に変え、氷石により夏でも冬が手に入り、風石により人は翼を得て、土石でできたゴーレムにより城を築いたのです』


『アイトリノに生息する生物の中でも選りすぐりの愛らしさを誇る生物を筆者が独断で抜粋し精密に描写しました。私の可愛いの基準はつぶらな瞳の持ち主であること、いかに毛並みがモフモフしているかで決まる傾向にあります。貴方もそうでしょう?』


 グリンは三冊をものすごい速さで読み終えるが、その後も同じページを何度も見返した。本の内容ではなく、本というものがこんなにも自由であることを初めてグリンは知ったのだった。


 今までにない知的好奇心に耐えかねたグリンは遂に我慢できずに立ち上がった。





「ただいま……ってあれ? グリン?」


 家を出た時と異なり、居間のソファーに女の子みたいな男の子の姿が見えない。まさか外に出てしまったのではとリリナは冷や汗をかく。ソファーの上には用意した三冊の本だけが残されていた。昨日グリンが履いていたつっかけも玄関に残っている。


 もしかして本に飽きて二階のベッドで寝ているのかもしれないと思ったリリナは、焦りながら階段を上るがグリンの姿は寝室のどこにも見当たらなかった。


「グリン!? どこに行ったの!?」


 階段を踏み外す勢いで再び一階に戻ってきたリリナは頭が真っ白だった。やはり屋外に出てしまったのかとグリンのいそうな場所を想像しながら玄関ドアに手をかけたところで一つの可能性に気が付く。


──まだあの場所を確認していない。


 リリナはグリンとは縁がないと考えていた一階の奥の母親が使っていた部屋へと向かう。そこには無数の引っ張り出された本が散乱し、散らかっていた。

 中央で本の山に埋もれていたグリンはゆっくりと顔を上げてリリナを見る。


「もう、散らかして。……はぁ、良かったぁ」


 目に涙を溜めながらリリナは安堵した。本の魔法にかかってしまったかのような、今までに見たことのないグリンの瞳の輝きに、リリナはとてもそれ以上怒るに怒れなかった。

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