23 溢れる想い

 歩き回れるほどに広々としたバルコニーには品の良い白のブラウスに、紺色のロングスカートに身を包んだ女性の姿があった。

 イルヴァ達が見下ろす先、物憂げに空を眺めていたのは──リリナだった。


「え、ええ!? あれは……イルヴァ様と、グリン!」


 上空からこちらに向かってくる二人に驚きを隠せないリリナはバルコニーの中央に走り出す。イルヴァの杖がゆっくりと高度を下げ、二人は地面に降り立った。

 リリナは目の前の光景がまだ信じられないのか一瞬、躊躇したがすぐにグリンの胸に体当たりをする勢いで抱きついた。


 顔をくしゃくしゃにするリリナの目にはあっという間に零れ落ちそうなくらいに涙が溜まっていく。グリンはしがみついてくるリリナの背中にそっと手をおいた。その顔は優しく微笑んでいるようだった。


「ついさっきまでグリンはリリナに会いに行くためにちょっとした冒険をしていたんだよ。さて、リリナ達はこのまま客室でゆっくり休むといい。シトラ達には今から私が話をつけてくるから。それじゃあおやすみ、リリナ、グリン」


 イルヴァは杖をバルコニーの手すりに立てかけるとリリナとグリンの二人を同時に抱き寄せて愛おしそうに額を寄せた。ふんわり漂う甘い香りにグリンは目を閉じる。


「あの、イルヴァ様、本当にありがとうございました!」


「リリナ、イルヴァ『様』は止めてくれと言っただろう。それに礼を言われるほどのことは何もしていない。むしろこちらが謝らなければいけないことばかりだよ」


「そんなことないです! 私達だって──」


 イルヴァがそっと差し出した人差し指がリリナの鼻先に当たり、言葉は遮られる。柔らかな表情で黒衣を翻したイルヴァは再び杖にまたがり、夜空へ飛び去っていった。

 グリンとリリナは姿が見えなくなるまで悠々と空に浮かぶアイトリノ王国の女王を見送った。



 二人はしばらく呆けたまま夜空を見上げていたが、身体が冷えないようにリリナはグリンの手を引いて室内に戻った。リリナにあてがわれていたのは来賓用の部屋で白と青を基調にした清潔感のある一室だった。


 歩いても全く音がしないふかふかの青い絨毯の上、部屋の中央に置かれた大きなベッドがまるで空に浮かぶ雲のような印象を抱かせる。


 部屋の天井に吊るされている照明も貴重な魔石が使われているのか、夜なのに昼のように明るい。窓際に置かれた真っ白なテーブルが眩い光を反射して輝いていた。


 グリンはてっきり約束を守らずにここに来たことをリリナから怒られるかと思っていたがリリナの表情は穏やかだった。


「グリン、とりあえずお風呂に入ってきたらどう? もう一人で入れるよね?」


「……」


 いつもと違うリリナの様子にグリンは違和感を感じたが、素直にリリナの言葉に従う。

 グリンは備え付けの浴室で身体を流した後、用意されていた子供用の白のシャツとサスペンダーが付いている緑色のスラックスに着替えた。よく似合ってはいたが、育ちのいいお嬢様が男装をしているようにも見える。

 グリンがベッドに腰掛けると、リリナはとつとつと会話を始めた。


「……それで、グリンと別れてどこかに連れられて行く途中に、いきなりイルヴァさんがやって来て親衛隊の人達から解放してくれたの。イルヴァさんは一国の女王樣だから、私の立場でどうやって話を取り付けようか考えてたんだけど、一番理想的な展開になったんだ。今回の件がシトラさんの独断だと聞いた時から期待はしてたんだけどね」


 おそらくグリンはリリナが迎えに来るのをただ大人しく待っていればよかったのかもしれない。それでもグリンは自分の行動を後悔していなかった。


「エルツの森での私とグリンのことは全部イルヴァさんにはお見通しだったみたい。『グリンを迎えに行くからあとは私に任せて、リリナはゆっくりしていてくれって』すぐに行動してくれたの。……イルヴァさんは母さんの古くからの友人で、小さい頃からずっと私の憧れの人なんだ。でも実際に目にするとびっくりするよね、昔と全く容姿が変わってないんだもの」


「……」


「でもグリンは私が思っているよりずっと大人なのかもしれないね。イルヴァさんを連れて私に会いに来てくれたし、一人でお風呂にも入れる。こうして初めて見る衣服もちゃんと着られるなら、これからは私が着替えを手伝う必要も無いのかもしれないね」


 きちんと留められたグリンのシャツの袖のボタンを確認すると、リリナはしみじみとつぶやいた。


 リリナはこの部屋に一人で残されている間、グリンに対して自分に何ができるのだろうかだけを考えていた。

 そして嫌というほど痛感した。今回のような騒動を避けられず、グリンに対して何もしてあげられなかった無力さを。


 リリナはもう一度グリンに出会えたら自分の思いを伝えようと決めていた。

 魔女と使い魔の契約はまだ完了していないということ。そして、


──落ちこぼれの魔女よりも本物の魔女に仕えた方がグリンは幸せになれるだろうと言うことを。


 颯爽と夜空を舞うイルヴァと、背後に寄り添うグリンの姿を見てリリナの心は決まってしまったのだった。


「ねぇ、グリン。もう心配事もないし、バルコニーに出て夜景をゆっくり見てみない?」



 カーテンの向こうには大きな月が浮かんでいて二人は吸い込まれるようにバルコニーへと出た。

 この城から見える夜空は、慣れ親しんだエルツの森にも繋がっている。しかし今はその実感がリリナには持てない。華やかな都会と田舎とも呼べない森。住んでいる世界が違うのかもしれないとすら思った。


 リリナはグリンより先に手すりへと歩を進める。その手はもうグリンと繋がれていなかった。


「私、ずっと考えてたんだ。グリンと出会ってから今日までのこと。……色々大変だったけど本当に楽しかった。本当に。」


 リリナは両手で手すりに手をかけ、身体を預けながら空を眺める。昨日の夜は深い森の中にいたのに今立っているのは大国の居城。どこかふわふわした気持ちのまま、リリナは包み隠さずに自分の思いを吐露した。


「イルヴァさんって本当に素敵な人だよね。あの人こそが本物の魔女なんだと思う。グリンもそう思ったでしょ?」


 グリンは首肯する。魔女を魔女たらしめるのは魔力の大きさではなく使い方だと言うことをグリンは嫌というほどその身に教えられた。


「うん、そうだよね。それで、あの……実は私とグリンの使い魔の契約はまだ完了していないんだ。だから……だから、このままアイトリノに、イルヴァさんの所に残ったほうがグリンにとってはいいんじゃないかな。別に今後グリンと私が二度と会えなくなるわけじゃないし、元の姿に戻る方法だってイルヴァさんならきっとすぐに……」


 俯くリリナの顔は、水色の髪に覆われてよく見えない。一方でグリンの不満は爆発寸前だった。

 無事にリリナに再び会えた。明日には森にも帰れる。自分はこんなにも嬉しいのに彼女は何をごちゃごちゃ言っているのだろうとグリンは思った。


 それ以上の言葉をグリンはリリナに言わせたくなかった。

 文字を書いている暇などない。


 魔女と使い魔が契約を結ぶ方法を、グリンはリリナの母シアの部屋の書物を読んで既に知っている。

 グリンはリリナの手を引いて思い切り背伸びをすると、迷いなく自らの唇をリリナに重ねた。

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