20 竜の居るべき場所

 もう時間は残されていない。今この瞬間にもイルヴァの生み出した魔力の込められた水の塊から、数多の水の槍がグリンに降り注いでもおかしくなかった。


 グリンは覚悟を決めて目を閉じ、頭を抱えてうずくまった。今の身体に一滴でも竜の血が流れているのなら、急所への直撃を避けられれば命だけは繋ぐことができるかもしれないと考えたからだ。


 可能性は限りなく低いだろうし、この瞬間を凌いでもリリナに会えるわけではないのだが、グリンは希望を捨てたくはなかった。

 偉大なる竜からちっぽけな少年の姿になってしまったが、最期の最期でグリンは自分の臆病な性分を克服したのかもしれない。


 しかしそのいじらしい覚悟もすぐに無に帰すに違いなかった。今のグリンの命運は王女であり魔女であるイルヴァの匙加減一つで決まってしまうのだから。


 グリンが丸くなり身を強張らせる姿を見て、イルヴァは耐えかねたように顔を歪ませた。


「……あの神に近しい存在である竜がここまで惨めな姿を晒すのか。恥も外聞もなく、埃まみれになって。そんなにリリナに会いたいのかい?」 


 グリンは返事をしない。イルヴァを見ることもなかった。


「そうだな、確かに一方的にこちら側の言い分を押し付けるのも公平ではないな。よし、ここで君に最後の機会を与えよう。もう言葉はいらない。笛の音を鳴らすなんて小賢しい真似もさせない」


 イルヴァが身体の前で真横に手をかざすと、頭上に浮かぶ水球から、氷でできた美しいレイピアが落ちてきた。

 金属質な音を立てて目の前に降ってきた一本のレイピアにグリンは初めて顔を上げた。


「それを私に突き刺して構わないよ。どこでも構わない。顔でも、喉でも、心臓でも。その刀身が私の身体を貫くまで、私は一切この場から動かないと約束しよう」


 噴水の近くの街灯が煌々と二人を照らし、二人の影を伸ばす。影すら美しい魔女。胎児のように丸くなる竜の少年。


 この魔女は何を言っているのだろう。

 グリンにはイルヴァの行動の意図が理解できなかった。こんなことをして彼女になんの得があるというのか。

 ただ、不可解な光景を目にしてもグリンの意志は既に決まっていた。


 グリンは力を振り絞り静かに立ち上がると落ちているレイピアを拾い、迷いなく後ろに放り捨てた。一度イルヴァに鋭い視線を送ると、再びグリンは膝を突き、丸くなる。


 グリンはリリナの教えを破らず、イルヴァへの敵意をその身に封じ込めた。

 今ここで目の前の相手に刃を向けて生き残っても意味はない。そんなことをしては二度とリリナに顔向けできないのだから。


「……結局、何もしないのか。とことん根性なしなのだな、君は。少年、残念だがここでお別れだ。恨んでくれて構わない。どうか魂になって、大人しく天に帰ってくれ」


 失望した様子のイルヴァは心底つまらなそうに言葉を吐き捨てると片手を天に掲げた。

 

 死の間際、グリンが頭に思い描いていたのはリリナの笑顔だった。

 竜が大地に降りたのなら姿をくらませ、誰とも関わるべきではなかったのかもしれない。それでもグリンはリリナと出会えて幸せだった。


 竜の姿の頃は生きているのか死んでいるのかわからない時間が長かった。竜だった頃はずっと修行しかしてこなかったグリンにとってリリナとの日々は初めての感情の連続だった。


 もうこの足は地面に沈んでしまいそうなに重く、全く動かない。ただ最期にリリナに会いたいとグリンは未練がましく思った。

 しかしグリンの事情は魔女であり、王女でもあるイルヴァには関係ない。


 初めて会ったときリリナが降らせてくれた雨はどこまでも優しかった。今から最期に目にする雨はどこまでも冷たい雨に違いなく。


 うずくまっているグリンにも感じるほどの魔力の高まり。膨れ上がった巨大な水の球はグリンの上空で無情にも弾けた。


 水滴は数え切れないほどの鋭利な槍に姿を変えて降ってくる。


 到底避けられる範囲ではない。

 

 身体中を強張らせるしかないグリンは哀れにも


────びしょ濡れになった。



 最後までグリンはイルヴァの行動の意図がわからなかったが、だったのだ。


「……ただの水だよ。頭は冷えたか? さて、君はよほど天に帰りたくないらしいな。それならば私に一つだけ誓いを立てられるか? 竜の子よ」


 何が起きたのかわからずに濡れた髪の間から覗き見るイルヴァの表情は先程と変わって穏やかだった。最初から知っているグリンの意志をあえて確認しているようにも思える。


「これから先、やむを得ない事由もなく人間に危害を与えない。いいかい?人間には、だ。それだけを約束して欲しい。そうすれば私も、君を客人のようにもてなすと約束する」


 水溜まりの中で這いつくばるグリンは上目遣いでイルヴァを見上げて頷いた。元からそのつもりであったし、きっとリリナもそれを望んでいるだろうから是非もない。


「ありがとう──。それでは戯れはここまでにしようか。服を乾かして、落ち着いたらリリナの所へ連れて行ってあげよう。もう一歩も歩けないだろう? 簡単に限界を迎える、それが人間の身体というものなんだよ」


 初めてイルヴァはグリンの名前を呼んだ。呼ぶに値することを認めたのだ。

 魔女であるアイトリノ王国の女王は、人間の姿になった竜の子の存在を受け入れることに決めたのである。


(どうやらリリナはこの愛らしい竜をしっかりと手なずけたらしいな)


 グリンに手を差し出しながら、イルヴァは初めて微笑んだ。 

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