19 魔女の怒り

 胸元から取り出した笛を思い切り吹いた!


「──っくぅぅぅぅ!! あああああ!」


 イルヴァは完全に油断していた。至近距離で鳴り響く魔女に呼応する笛。あまりの大音響に耳を抑えてうずくまる。グリンはすっと胸がすく思いがした。あまり感情を表に出さないグリンだったがもしかしたらその時は笑っていたかもしれない。


 すっきりしたグリンは本来の目的を思い出す。あれだけ焚きつけられたのだから声を出して伝えてやろうと思ったが、相変わらず言葉は喉を越えない。無理をしてこんな街中で再び火球を噴きだしたら大変なことになると思ったグリンは今回は自重することにした。


 次にグリンは斜め掛けしたリリナのお下がりのポシェットに入っている紙と鉛筆を取り出して一筆認める。


『リリナはどこ? 僕達は家へ帰る』


 グリンはイルヴァに『紛らわしい真似はするな』『さっさとリリナの居場所へ連れて行け』『アイトリノ王国の女王は意地が悪い』と書き足したかったが小さな紙には収まらなかった。


 依然として涙目で耳を抑えてうずくまるイルヴァは、いきなりグリンから差し出された紙を受け取れなかったが、グリンはグイグイと彼女の肩を揺さぶって紙片を眼前に押し付けた。

 当然ながら女王の怒りは爆発する。


「ああもう! 鬱陶しい! 少年! こんなふざけた真似をして今から自分がどうなるのかわかっているんだろうな!?」


 グリンの手を払いのけるとイルヴァは頭を振って立ち上がる。グリンが手元から熱を感じ、咄嗟に手を引くと持っていた紙切れは灰になって崩れ落ちた。


 グリンは後ろに飛びのいてイルヴァと距離をとる。怒りが収まらないイルヴァは俯いたままブツブツと言葉を発していた。


揺蕩たゆたう水は透き通る。歓喜のあまりうねり狂う。天を仰いで舞い踊る」


 すると広場の噴水の水が空高く渦を巻いて立ち上った。イルヴァの周りに蛇のように纏わりつく。

 おそらくリリナのように不確かなものではない、『本物』の魔法をイルヴァは扱えるのだろうとグリンは察した。


「なぁ、水で岩に穴を開けることはできると思うか?」


 グリンがその言葉に反応する前に、視界に一筋の線が走った。足元を見ると石畳にはグリンの指が二、三本は入りそうな円形の穴が空いている。


「答えは『できる』だ。放出された水、それが針なのか杭なのか、はたまた矢なのか槍なのかは君が好きに決めてくれて構わないよ」


 グリンは大きく横に飛んで噴水から立ち上る水柱から距離を取る。立ち止まっていては格好の標的になってしまうと考え、飛んでくる水の筋からの狙いを外すようにグリンは爆ぜるように走り出した。


 グリンが駆け抜けた後を、足跡の代わりに水の凶器が何本も突き刺さる。石片が飛び散り、そのうちのいくつかがグリンを襲った。彼はなんとか身をよじり直撃を避ける。


 身体を反転させ、地面を這いつくばりながら、衣服を泥だらけにしながら、噴水に頭からぶつかりそうになりながら、グリンはなんとか降り注ぐ水の襲撃を避け続ける。

 グリンは人間の身体になってここまで激しく動いたことはなかった。息が切れ、胸が苦しい。竜は知らないヒトの感覚がグリンを襲う。


 遂にグリンは身体のバランスを崩し転んでしまう。穴だらけの地面から顔を上げるとイルヴァの黒いローブが視界に入る。攻撃を避けていたはずのグリンは知らぬ間に彼女の眼前におびき出されていたのだ。


 いつのまにか頭の後ろで結んでいた髪が解けていた。乱れた銀髪が汗で額に張り付く。

 喘ぐように息を漏らし、立っているのがやっとのグリンに、イルヴァは吐き捨てるように言葉をぶつけた。


「さぁ少年、なぜ自分がこんな目に遭っているのかわかるか? 私はさっきの些細な悪戯を叱っているわけではないのだよ」


 グリンは荒れた呼吸を整えるために大きく息を吐いた。人間の身体には活動の限界があることをグリンは身をもって痛感する。

 魔女の掌の上でなすがままに踊らされたグリンには、イルヴァの問いに答える余裕はなかった。


「答えは────君が災厄を招く存在だからだ」


 その言葉は降り注ぐ水の矢以上に容赦なくグリンに襲いかかった。自分のせいでリリナが不幸な目に遭っていることをグリンは嫌というほど自覚している。グリンは膝から力が抜けて崩れ落ちそうになった。


「昨日、今日の話ではない。竜の力は魔女を含めた地上の民の手には余るんだよ。近い将来、必ず争いの種になることは明白だ。幸いなことにまだ私以外は竜が空から降ってきたことに気がついておらず、当の竜は本来の力を失っている。さぁ、一国の女王が国民の為にとるべき行動はなんだと思う?」


「……」


「今のうちに竜の命を、禍根かこんを断つ以外に手はないと思わないか?」


──イルヴァはグリンの命を奪うと宣言した。 


しかし、


──死んでやるもんかとグリンは思った。


 人の姿になる前、天から落ちる前の竜の姿をしていたグリンならば自分の運命を呪うことはあってもそれに抗おうとはしなかっただろう。彼は神に近しい竜であるのに臆病で無能な自分を恥じて生きていた。


 だが今のグリンは違う。

 グリンには誰よりも会いたい人がいる。それが自分の我が儘であろうと、例え相手がそれを望んでいなかったとしても。


 リリナともう一度会って伝えなければいけないことがある。

 自分が『竜』であると、竜の存在が彼女の迷惑になるのならば『今までありがとう』も。

 だからグリンは魔女に会うために、魔女の言いなりにはならない。


 噴水から立ち昇る水柱は形を変え大きな一つの水の球になり、浮かび上がった。

 かろうじて立っているだけで精一杯のグリンは、ぼんやりと頭上を見上げる。


 場違いだがグリンは少しだけ空に浮く水球を美しいと思ってしまった。月の光を浴び、きらきらと光り輝く複数の青色がグリンを照らす。きっとそれはまもなく花火のように弾けて槍の雨になりグリンに降り注ぐのだろう。


 彼は決して命を諦めたわけではない、諦めたわけではないのだが、想いだけでは身体が言うことを聞いてくれない──グリンはゆっくりと目を閉じるしかなかった。

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