17 逃げられない相手
グリンは暗闇の中、市街地の細い通路を編むように進む。大通りに戻るとグリンはチェーンの先へと手を伸ばして吹いた。何度か手にした笛の振動は先ほどからずっと変化がない。
ふと一つの可能性が頭に浮かんだとき、グリンは一度足を止めるしかなかった。
自分が移動し続けているのに笛の振動の大きさが変わらなくなったということは、
──リリナはグリンと同じ速さで移動を始めたということではないのか?
グリンが周囲を見回すと左手に噴水のある開けた広場が見えた。近くに人の気配がないことを確認するとグリンはベンチの一つに座る。大きく息を吸い、できるだけ息が続くように細く笛の音を鳴らし続けた。
リリナがどこかへ移動しているのなら、グリンが静止している今は笛の振動が次第に小さくなっていくはずである。
しかし震えの大きさは一向に変わらなかった。それどころか今度はさっきより明らかに振動が大きくなっている。グリンは辺りを見回すが誰もいない。口にした笛はもはや唇に力を入れなければすっぽ抜けてしまいそうだ。
グリンはいよいよ訳がわからなくなってきた。
女王親衛隊の宿舎を抜けだしてから、吹いた笛の振動は段々と大きくなっていたので、少なくとも最初のうちはグリンがリリナに近づいていたのは確かだと思われる。
その次に笛の振動の大きさに変化が無くなり、今度はグリンがベンチに座っているのに吹いている笛の震えが大きくなってきた。
つまりそのまま受け取るのなら、リリナの方からグリンに近づいてきているということになるのだが……。
リリナはアイトリノにいる知り合いを通じて、今までの森での生活に対する弁明を試みると言っていた。その為に身柄を拘束されても抵抗をしなかったのだから、説得を放り出して逃げ出したことは考えにくい。
仮にリリナが全ての問題を解決したにしてはあまりに時間が早過ぎるし、それならば彼女はグリンがいるはずの女王親衛隊の寄宿舎に向かうはずだから、グリンと反対方向に進む笛の震えは小さくなるはずだ。
たった今もリリナはどこかへ連れて行かれているのだろうか? それも自分の近くを通っている?
それとも笛の調子自体がおかしくなってしまったのか? 一体いつから? 自分の行動は全て無駄足だったとしたら?
必死で頭を悩ませているグリンは、向かいに見える噴水の向こう側から人の気配が近づいていることに気が付くのに遅れた。その足取りは堂々としており、むしろ自らの存在を誇示しているようにすら思えた。グリンはゆっくりとベンチから立ち上がり噴水の向こうの人物に視線を送る。生易しい相手ではなさそうだ。
姿を確認できたのは黒いローブを着た女だった。噴水と円形の広場を囲む街灯に照らされている。フードの奥の翡翠のような瞳が妖しく光っていた。
──先程鉢合わせを避けた女が、なぜかまたグリン目の前に現れたのだ。
彼女はハイヒールで石畳を鳴らしながらグリンにゆっくりと近づいてくる。
「こんばんは、そんなに急いでどうしたのかな?」
グリンの目が更に険しくなる。ベンチに座っていたグリンに対して、この女は『急いでいる』と言い放ったのだ。
即ちグリンが街中を駆け抜けて、リリナを探しまわっている姿を見られていたことになる。目の前の女は何故かグリンの存在をずっと泳がせていて、グリンはそれに全く気がついていなかったことになる。
警戒した眼差しでグリンは上から下までまじまじと若い女の姿を捉える。身体のラインが浮き出た黒のローブに包まれたしなやかな身体。透けるような白い肌に、全ては見えないが端正な顔立ち。フードからは収まりきらない鮮やかな金髪が溢れ出している。
人間の男なら誰でも見とれてしまう美貌だったが、グリンが動じることはなかった。
今はこれ以上得体の知れない人間に関わっている暇はない。笛が振動している限り、リリナが近くにいる可能性は高いのだ。多少強引な手を使ってでもこの女から離れるべきだと、グリンは視線を女の顔に戻した。
「ここに来るまであまりにも街が静かだと思わなかったのかい? それともそんなに探しものに夢中だったのかな?」
確かにあまりにも辺りに人気が無いのは気にはなっていた。ただその方がグリンにとっては都合が良かった。
その原因はどうでもいい、自分がリリナを探していることを目の前の女が知っている理由も。
グリンは自分の前に立ち塞がる邪魔者でしかない女への不快感を隠さない。そのグリンの反応はいたく彼女の気分を害したらしかった。
「……愛らしい顔をしているのに、やけに仏頂面じゃないか。そんなに私のことが気に入らないのかい?」
グリンは小さく首を横に振ると、事を荒立てないように彼女の横を通り過ぎる。これ以上しつこく付きまとってくるのなら本気で逃げればいい。目の前の女は厄介な相手に違いないが、グリンも自分の足には自信がある。
もうリリナに会いに行くことしか頭にないグリンは不気味な女の相手をしないように努めた。
「そうか、なるほど。そもそも君は私のことを全く知らないのだったな。私は──」
グリンが背後から聞こえてくる言葉を無視して歩を進めると、ふいに生暖かい夜風がグリンの首筋を撫でた。
グリンが瞬きをすると、横を通り過ぎたはずの女は再びグリンの正面に立っている。
どうやらグリンは見逃がしてもらえないらしい。
「おいおい、躾がなっていないようだな。人の話は最後まで聞くものだろう? 私の名はイルヴァ・ヴァンフォッセン────この国の女王だ」
自らの正体を明かしたアイトリノ王国の女王イルヴァは被っていたフードを脱ぐ。
彼女は切れ長の美しい瞳を細め、不敵な笑みを浮かべた。
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