16 飛び出した覚悟

 リリナはグリンに『お利口に待っててね』と言い残したが、グリンはその約束を守らないでリリナに怒られに行くことに決めた。


 グリンはシトラが背中を見せた隙をついて三階の窓から飛び降りたのだ。もちろんグリンの身体には傷一つない。身のこなしの軽いグリンにとってその程度の高さから地面に降りることなど造作もないことだった。


 グリンは振り返ることなく宿舎の端に位置する植木の陰へと走った。シトラの部屋から死角になる壁際に体を滑り込ませると、周囲に人の気配がないことを確認する。

 そのまま小さく息を吐いて人間離れした跳躍力で高い塀の上に飛び乗る。壁の外にも通行人の姿はない。グリンは居住区の外へ飛び降りて止まることなく勢いよく駆け出した。



 シトラ達はグリンのことをひ弱な少年だと思っているので、しばらくは寄宿舎や敷地内を探すことだろう。


 しかし姿を消したグリンの目的にはすぐに勘付くはずだ。そう時間が経たないうちに、リリナを取り巻く警備が今以上に厳しいものになることはグリンにも容易に想像できた。

 辺りは陽が沈みかけ、薄暗くなり始める。闇に紛れることのできる今夜が、リリナに再び会える唯一の機会になるだろうとグリンは腹を括った。


 一度走り出すと身体が羽のように軽い。斜め掛けしたポシェットとポニーテールを揺らしながらグリンはリリナの家で読んだ冒険譚を思い出していた。

 どの物語の主人公も常に自分から行動を起こし苦難に立ち向かっていた。最後には自らの幸せを勝ち取りながら、周りの人々も幸せにしていた。


──同じような主人公に、自分はなれるだろうか。

 

 綺麗に敷き詰められた白みがかった石畳はグリンが真新しいブーツで駆け抜けると小気味いい音を鳴らした。

 背の高い街路樹が均等に植えられ、整然とした道路からは人々の生活臭はあまり感じられない。吸う空気さえエルツの森よりも冷たく感じられた。


 ここがまだ女王の管理下の土地であり、市民が立ち入りを許されていない場所だとしたらグリンは見つかっただけで捕らえられる可能性がある。従ってグリンは目立たぬように、細心の注意を払い移動することにした。

 リリナが会いたがっていた人物が誰なのかわかれば話は早いが、グリンには見当もつかない。いずれにせよリリナの居場所がわかっても危険を冒すのは夜が更けてからの方がいいだろう。


 自分を知っている女王親衛隊とその宿舎から距離を置くように走り続けていたグリンは、そびえ立つアイトリノ城の見え方が先程とだいぶ変わっていることに気が付く。シトラ達の宿舎は王国の中央に位置する城から見て真北にあるので、そこを出て円を描くように東へ走ってきたグリンは現在、城の北東側に立っているはずだ。


 幾重にも重ねられているであろうアイトリノ城の城壁はここからでも迫りくるような迫力があった。その城の周囲を等間隔で取り囲む白い塔がやけにグリンは気になる。塔の本数は六本あり、時計の針のように順番に辿っていけばいつかはリリナに再び会えるかもしれないとグリンは漠然とそう思った。

 人の目を避けながら通りを駆けるグリンは追手がいないことを確認すると一度速度を落とす。


 グリンは街路樹を背に、胸元からチェーンに取り付けられた『魔女に呼応する笛』を取り出すと、頬っぺたを膨らませ思い切り吹き鳴らした。

 グリンに笛の音は聞こえない。リリナ曰くこの笛の音は魔女にしか聞こえないらしかった。


 さらにこの笛は魔女が近くにいればいるほど大きく振動する。グリンが何も考えずにリリナの真横で吹いた時は笛が跳ねて手元から滑り落ちてしまうほどだった。


 どの程度の距離まで音が届くかは定かではないがグリンは笛を吹きながら四方を見回す。すると微かに笛が震える方角があることに気が付き、グリンは思わず立ち止まった。

 今いる位置から南西、つまり城の南側にきっとリリナはいる!


 グリンはこのまま足を止めずに、城を囲む塔のうち、真南に位置する塔を目指すことに決めた。

 おそらくリリナは笛の音が聞こえにくい屋内にいる可能性が高い。グリンの身体能力がいくら並外れていても、そのような場から更に警備の目をかいくぐってリリナを助け出すのは並大抵のことではない気がした。


 跳ねるように走るグリンの胸元のチェーンが振り子のように揺れる。

 もし兵士に捕まったらもう二度とリリナに会うことができなくなるかもしれない。それでもグリンは動かずにはいられなかった。

 何より自分の目の届かぬ場所にリリナが行ってしまったことが彼には耐えきれなかったのだ。自分の中で彼女の存在が想像以上に大きくなっているのことをグリンは認めるしかなかった。


 深入りしそうな妄想を振り切るようにグリンはもう一度勢いよく笛を吹いた。

 手元の笛の振動は先程より確実に大きくなっているのがわかる。かなりの速さで走り続けているグリンは着実にリリナの側に近づいているようだった。


 いつのまにか日没を迎えていた。薄闇の中、グリンから見て、今は城を挟んで二つの塔が左右対称に見える。つまり城の東側にグリンはいた。その時、微かに人の気配を感じたグリンはとっさに止められた馬車の陰に身を隠す。


 一呼吸おいてゆっくりと顔を出した。街灯の近くには身体にまとわりつくような黒のローブに身を包んだ人物の姿が確認できる。暗がりと同化して見づらいが身体のシルエットからしておそらく女性だろう。


 グリンの目が思わず見開かれるが、落ち着いて観察するとリリナとは明らかに別人だった。彼女はもう少し背が低く、逆に胸はもっと大きい。


 グリンは進む道を変えるか迷っていると、視線の先の黒衣から吸い込まれそうな緑色の瞳が光った。一瞬息を呑むが、どうやらこちらには気が付いていないらしい。


 それでもグリンの足は本能的に前に進むのを拒んだ。来た道を引き返し、違う裏道に入ることにする。

 角を曲がる際にもう一度視界に映った黒い人影は身動き一つしなかった。

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