13 雲の上の珍事
風石の力で悠々と空に浮かぶ飛空船リンゴンの窓から見える景色は青に染まっている。覗き込んだ窓の下を流れていく雲にグリンは微かな郷愁を覚えた。
てんやわんやの騒動もひとまず落ち着き、後ろ手に手首を縛られたリリナと、自由の身のままのグリンは飛空船に乗せられた。船上の二階にある中央操作室の手前、小窓以外に何もない物置小屋に二人一緒に押し込められる。
仮にも、誘拐犯とその被害者が連行中も同じ空間にいるのは異常な事態なのだが、それはアイトリノ王国の人々の暮らしがあまりにも安穏だったのが理由だった。端的に言うなら誰もが平和ボケしているのである。
圧倒的な女王の統治力により犯罪はめったに起きないし、国民にものんびりとした風土が漂っていた。それは女王親衛隊ですらも例外ではないらしい。
さっきまでグリンと一緒に窓の外を眺めていたリリナも今は大人しく壁を背に座り込んでいる。その顔は地上に居た時より穏やかで、落ち着きが戻っていた。
「初めての空の旅がこれかぁ~。もう、絶対あらぬ疑いを晴らして、帰りは飛空船の旅を満喫してやるんだから! ……ん? あぁ、手首は痛くないよ。あまりきつく結ばれてないし。それに抵抗する意志がないことを示すにはこれはこれで丁度いいかも。グリンの方こそいきなり空の上に連れて来られたけど平気?」
ここ数日でリリナはだいぶグリンの表情を読み取れるようになってきた。今のグリンは初めて会った時の涙を流していたグリンを思い起こさせる。リリナにとっては見ているだけで胸が締めつけられるような顔をしていた。
「何度も言うけど私は怒ってないよ、グリン。最後まで手を出さないで我慢できたのを褒めてあげたいくらいだもん。それに正直なのは素晴らしいことなんだから。こうなったのは全部私の責任。気にしないでね」
窓辺で俯いていたグリンは何も言わずにリリナの横に座ると、鉛筆をポシェットから取り出してリリナに見せた。
「あ、そっか。最初から筆談をすれば、もっと上手に騎士団の人達とやりとりができたよね。駄目だなぁ、私。でも次はきっとうまくやってみせるから。実はアイトリノに知り合いがいるの。私がその人と話ができれば問題はすぐに解決するだろうから安心していいよ。だからグリンはあそこのお姉さん達としばらく飛空船の中を探検してきたら? きっと面白いよ」
リリナが目線を送った入口のドアには丸い窓がついており、先程からひっきりなしに違う女性の顔が現れていた。好奇の目つきをした女王親衛隊の面々はグリンに興味津々で、地上で凛々しかった女騎士の面影はない。
しばらくの沈黙の後、ドタドタと一際大きな音がして扉が勢いよく開いた。リリナは思わず身構えるが杞憂だった。なだれ込んで来た見覚えのない女性達の目的は明らかにグリンだけだったのだ。
グリンはあっという間に囲まれ、複数の女性からちやほやされ始めた。
「きっとこの子は森で酷い扱いを受けてショックで口がきけなくなってしまったんだわ」
「なんてかわいそうなの!? 私達が癒してあげなくちゃ」
「ほら、甘い野イチゴのタルトと白ぶどうのジュースだよ」
好き勝手言われながら、代わる代わる差し出される食べ物を全てグリンは拒まずに口に入れる。リリナは実感しているがグリンはかなりの食いしん坊だった。
思わず漏れる甘味に対してのグリンの満足げな表情にリリナは微笑ましい気持ちになるが、その愉悦がすぐに萎えていくのを見て心配にもなる。
(美味しいものを食べているのに素直に喜べないって残酷だなぁ……)
リリナが苦々しく思っていると、背後から現れた一人の女性の影にはしゃいでいた騎士達は静まり返った。
「おやおや、おや。私が居ぬ間に随分とお楽しみのようですね」
シトラの冷たい声色に、女騎士達は蜘蛛の子を散らすようにグリンの周りから離れる。まるで教師に悪戯が見つかった女学生のようだった。
「まぁいいでしょう。グリン君の可愛さに夢中になる気持ちはよくわかりますから。……そ、それでですね。私、ここにはある崇高な目的を持ってやってきたのです」
リリナは嫌な予感がした。このシトラという名の隊長は時に目の色が怪しく変わるのだ。きっと今は危ない。
──それが同族嫌悪だということを指摘するものはこの場には誰もいない──
「この子はどこからどう見ても可憐な少女にしか見えません。これは仕方のないことなのです……」
誰かに弁明するような口調でシトラはもじもじと顔の横で毛先をいじっていたが、息を大きく吸うととんでもないことを言いだした。
「グリン君が本当に男の子であるのかどうかを確認させてもらいたいのです! ほんの少しだけおち──男性器を見せてください!」
「いきなり何を言ってるんですか!! この変態!!」
「う、うるさいですね! 変態は誘拐犯のあなたの方です! 私は仕方なく──」
シトラの言葉は途中で呑み込まれた。
それは一瞬の出来事だった。
グリンが言われた通りに自分のズボンと下着を一気に下ろしたのだ。
部屋の入り口から覗き込む親衛隊の面々も含めてグリン以外の視線がとある一点に集中する。グリンは無表情のまま、欠片ほどの羞恥心も見せない。
誰もが身動きしないまま、窓の外から微かに風の音だけが聞こえた。
いち早く我に返ったのはリリナだった。慌ててグリンに駆け寄り、周りからの視線を遮ると縛られた後ろ手でなんとかズボンを上げる。いかんともしがたい空気で場がざわつく中、やっとシトラは放心状態から我に返った。
「か、確認できましたね、はい。グリン君はこんなに可愛らしいのに本当に立派な男の子でした。いやはやまったく────まさしく私の天使ですわ」
最後にぼそりとつぶやいた危険な一言は湧き上がる喧騒に紛れて幸い誰にも聞こえていなかった。
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