3 びしょ濡れの二人

「ああ、もう! どうなっても知らないからね!」


 誰に向けるでもなく吐き捨てるようにリリナは叫んだ。故郷である慣れ親しんだ森が燃え尽きてしまうよりかはマシだと、足元に転がっていた杖を拾い意識を集中する。リリナは頭に浮かんだ水の魔法を唱えた。


 無論、加減はできない。


「──雨が私の思う雨ならば、天の彼方の一滴、降られる前に私のもとに。粒の形は、お気に召すまま」


 すると晴れ渡っていた空に灰色のもやが立ち込め始めた。靄は集まって密度を増していき、すぐに不気味な暗雲となる。辺りをあっという間に薄暗くする異様な大きさだった。


 森から立ち昇る黒い煙と雲の境目が無くなった時、大きな滴が勢いよく落ちてきた。その量はどんどん増していき、滝のような雨が視界を覆う。


 目の前の雨はただの雨ではない。一粒一粒が魔力をまとっている。

 森から昇る煙と空からの水滴は打ち消し合って灰色の霧が満ちていく。青の炎も雨に滲んで薄まっているように見えた。


 確かな手応えを得たリリナは少年の手を引き、近くの大きな木陰へと急いで身を落ち着ける。唱えた魔法を固唾を飲んで見守っていたため随分濡れてしまったが、少年に気にした様子はなかった。

 せり出した枝に覆われ周囲とは切り離された空間は、リリナの昂った心を少しだけ落ち着かせてくれた。


「もう、なんてことしてくれるのよ」


 二人はずぶぬれの姿で向かい合った。相変わらずの無表情だが少年の瞳は申し訳なさそうに沈んでいる──ようにリリナには見えた。リリナは掛ける言葉を探して頬をかく。


「君がわざと森に火を放ったわけじゃないのはわかってるから大丈夫。ああ、でもなんてことしてくれる、は君のセリフか。……本当にごめんなさい」


 少年は不思議そうに小首をかしげる。初めての小動物的な反応にリリナは笑みを漏らした。


「本当に可愛らしいなぁ、君は」


 リリナは少年の濡れた前髪を優しく手櫛で整える。彼はリリナの手を拒まずにじっとしていた。

 局所的に猛烈な雨が降りしきる中、靄の向こうに目を凝らすと炎が消えかけている。リリナはほっと胸を撫で下ろした。滴の勢いに反して雨音がほとんどしないのは雨水の魔力と炎が打ち消し合っているからだろう。


 しかし、炎が治まると問題になってくるのはリリナが降らせた雨の方だ。彼女は魔法の力を制御できないのだから。

 降り出した魔力を帯びた雨はいつ止むのか当の本人にもわからない。陽が落ちる前には止むかもしれないし、数日の間降り続くかもしれない。

 雨雲の範囲は狭いはずだが、このまま大陸中に魔力を帯びた雨を降らせれば多くの人々や自然界に予期せぬ被害を与えるかもしれなかった。


「……何やってんだろうなぁ、私」


 雨を降らせる魔法を唱えたのは半ば仕方がなかったとは言え、少年を呼び出したことに関しては弁明できない。どちらも自分の実力不足と怠慢が招いた結果だとリリナは痛感していた。

 己が未熟なせいで他人にまで迷惑をかけるのはごめんだとリリナは常々思っていた。だから母親と離れ、森の奥深くに一人で住んでいたのに。

 頬を伝い、唇をなぞった雨粒がリリナには苦々しく感じた。



 木の幹を背に力なく座り込んだリリナを見て、少年も同じようにすぐ横に肩を並べて座る。警戒していた野良猫が自分に懐いてくれたかのような仕草にリリナは落ち着きを取り戻す。愛おしさに言葉が自然と零れ落ちた。


「……君はやっぱり純粋な人間、『ヒト』じゃないんだよね?」


 なんだか不自然な尋ね方をしてしまったが、ここははっきりとさせておかねばならないとリリナは表情を引き締めた。火を吐く人間など存在しないのだから、彼は召喚された際に人の姿になってしまった、人ならぬ存在としか考えられない。


 少年は──首を縦に振った。自分の言葉に明確に反応してくれて安心したリリナは更に言葉を続ける。


「良かったぁ、声は出せなくてもちゃんと人の言葉はわかるんだ。そっか、そうだよね。例えば炎を吐く動物が君の本当の姿だったりするのかな?」


 あえて魔物という言葉は使わないでリリナは横目で少年の姿を窺う。少しの間を置いて少年は小さく頷いた。


「まぁ、別に君の正体はなんだっていいんだよ。ただ、あんな風にむやみやたらに森を焼かれたら困っちゃうなって。次からは気をつけてね?」


 少年は再びこくりと頷いた。リリナはそっと彼の頭を撫で、おでこに垂れた水滴を拭った。


「うん、ありがとう。雨が止むまでここで休んでようか。君もいきなり人の姿になって戸惑っていることだろうし、少し気持ちを落ち着かせた方がいいだろうからね」


 暫くの間、ぼんやりと魔力を帯びた雨が森を潤していく光景を二人で見守る。炎が消えたからか、打ち消されず地面を跳ねる雨音が心地良く耳に響いた。

 穏やかな沈黙は苦ではなかったが、ずっとこのまま黙っているわけにはいかない。素直になってくれた少年に自分が何をしでかしてしまったのか伝える必要がある。

 リリナは小さく息を吸うと覚悟を決めて口を開いた。


「あのね、今見てもらった通り、実は私って『魔女』なんだ。魔女ってわかる? 自ら魔力を生み出して、魔石に頼らずに魔法が使える人のことなんだけど。ようするに私も普通の人間じゃないの、君と同じ。それで、多分なんだけどね、私が君のことをこの地に召喚しちゃったんだと思う。ついさっきまで使い魔を召喚する魔法陣を描いてたんだ、私」


 もう現実から目は背けられない。可能性は一つしかないのだ。

 少年は顔を上げ、きょとんとした様子でリリナのまなこを見つめる。あどけない顔はどこからどう見ても女の子にしか見えない。


「君にも自分の生活があったのに勝手にこの場所に連れてこられて怒ってるよね、本当にごめんね。私、君が元の姿に戻れるようになんでもするから。きっと住んでた場所に帰れる方法も見つかる……と思う」


 リリナの言葉を聞いた少年は濡れた長髪から飛沫が飛び散るくらいに首を強く横に振った。元の姿に戻らなくてもいいというのだろうか。それとも今まで住んでいた場所に帰りたくない理由がある?


 しかし見た目が人間に変わってしまった自分の姿を見て、少年が声もなく涙を流していた光景はリリナの脳裏に色濃く刻まれていた。きっと今はまだ思考が混乱していて頭の中が整理できていないのかもしれない。


「……もしかして私に気を使ってくれてるの? 優しいなぁ君は」


 リリナは不思議そうに首を傾げる少年を見て、自分がこの地に呼び出してしまった彼を再び自由にしてあげたい気持ちがより強くなった。


 とは言っても具体的に何をすればいいのかリリナには皆目見当もつかなかない。使い魔を召喚する儀式が奇跡的に成功したのだとしても、今も自分が魔法をまともに操れないことに変わりはないのだ。


 少年の存在全てがリリナの理解の範疇を越えている。人間の姿をした使い魔を連れた魔女の話などリリナは今まで一度も聞いたことがなかった。

 どうしたものかと考え込むリリナの手に、少年の手が伸びてきた。

「ん? どうかしたの?」とリリナは尋ねるが、少年は応えずにリリナの手のひらに人差し指を這わせる。

 白く綺麗な指がゆっくりと線を書く。その意図をリリナはすぐに察した。


「──すごい! 文字が書けちゃうんだ!? ……グ・リ・ン? グリンが君の名前なの?」


 グリンは口元を微かに緩めて頷く。勘違いかもしれないがリリナには確かにその顔が笑っているように見えた。

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