第4話 出立

 まだ日が地平線の下にかかり始める早朝、『水の森』から風をきって駆けてゆく一騎の騎馬があった。

 黒く輝く毛並みに同じ黒色の翼を持ち、風のように駆ける跳び馬だ。リズミカルな蹄の音が響き、人馬は一直線に『水の森』の端を目指す。


 鞍上あんじょうで手綱を握るのはエルド公だ。

 金色の髪を一つにまとめ、騎馬用の服装にマントは羽織らず、背には護身用と思われる弓と矢筒やづつを固定している。

 『水の森』を囲む草原はかなりの広さだが、跳び馬には問題ない距離だ。朝の金色の日差しが草原に差し込むと同時に、人馬は草原の端に辿たどり着いていた。いったんそこで跳び馬を停め、エルド公は背を伸ばし、


 広い草原の端は切り落とされたかのような崖であった。

 端のあちらこちらから、『水の森』から広がるいくつかの川が滝となって、ふもとに向けて流れ落ちている。ただ、あまりにも高いためか、途中で霧となって消える滝も多い。雲のようにただよう霧に朝日があたり、小さな光があちらこちらに輝いている。その上から大きく虹がかかっていた。

 エルド公は、霧でかすむ地上を眺めたのち、ためらいもなく、掛け声とともに勢いよく空中に飛び馬を乗り出した。




(うわあぁぁぁあ!)


 凄まじい落下の感覚に、明は悲鳴を上げた。

 ついさっきまでは、相当な速さで走っていたはずだ。跳び馬の脇腹に固定されたかばんの中で、揺れに辟易へきえきしながらも辺りの様子を窺おうと、かばんの隙間から何か見えないか必死に目をきょろきょろさせていたのだ。

 

 いきなりの浮遊感、その後の落下という感覚の切り替わりに、まだ身体がついていけない。明は必死で、かばんに一緒に入れられている切丸に呼び掛けた。


(切丸! 切丸! 起きろって、起きろ!)

(……え、ああ、お前か)


 白木の箱の中から切丸の寝ぼけた声がする。本当に寝ていたんだ、こいつ。


(今どうなってんだ、落ちてるぞ俺たち!)

(あ、そうだな、かなり落ちてるな。……心配するな、今『水の森』から降りてるんだ)

(降りてる?)

(ああ。今もう降りてるってことは、そろそろ歯ァ食いしばれ)

(まさか、落ちるのか?!)

(降りてるって言ってんだろ。だから歯を食いしばれ)


 次の瞬間ぐんっと身体に、内臓という内臓が目や耳から出るかのような強い圧がかかり、明は気を失った。


 ほぼ垂直にふもとへ向けて落下していたエルド公は、近づく頃合いを見計らい、跳び馬の手綱を軽く引き合図をする。跳び馬はわずかに首を地面に平行に上げた瞬間、たたんでいた翼を一気に広げた。

 曲線を描きながら気流を捉えた跳び馬は、ふもとで大きくしぶきをあげる滝つぼや渓流けいりゅう、いくつか点在する森の上を駆け抜けていく。


 霧や水しぶき、ほほを切る風が気持ちよくて、エルド公は小さく笑った。『水の森』から降りる道は、空を飛べるこの跳び馬でしか辿たどれない。跳び馬は、風を切りその風さえも軽々と超える速さを持つ。乗りこなすには技量も必要だが、その速さや空気の圧に耐えられる身体の構造が必要なのだ。


 朝日は地平線から姿を現し、周囲はすっかり明るくなってきた。グルカンまでは、渓谷けいこくをあと三つほど過ぎる必要があるが、早めに出て来たのと少々飛ばしたおかげで、あと一刻ほどで到着できそうだ。

 と、跳び馬が首を振りかすかにゆらぐ。

 跳び馬の脇腹に固定したかばんから、何か音が響いたのにエルド公は気付いた。


「少し、休むか」


 跳び馬の首を軽くたたき、エルド公は手綱を引き地面を目指した。


 

 どれだけ気を失っていただろうか。

 明は、草の香りとぱちぱちと木が燃える音で目が覚めた。目を開けると樹木だろうか、青い空を黒々と切り裂き、天に向かい高々と伸びているのが見えた。


(お疲れ、まな板)


 声がした方に目を向けると、側にはさやに納められた切丸が置かれていた。


(……切丸、俺、生きてたぁ~)

(情けない声出すなって。でもまあ、初めての降下だったがよく頑張ったな)


 切丸の後方に目をやると、手にカップらしきものを持ってエルド公が木にもたれていた。その視線の先を見て、明は息をのんだ。


 明が生きていた世界では見たことも無いような山脈がそびえている。高低差の大きな稜線りょうせんのうち、とりわけ低いところからいくつかの滝が流れ落ちているが、その多くは途中で半分くらい霧となって虹色に輝いていた。一番大きな滝はふもとの緑の森に落ち、滝つぼと思わしきあたりは霧でけむっている。


(あの滝の出どころが『水の森』。俺たちが昨日までいたところだ。そして、その周りにあるのがティエパ山脈という)

(見た感じ、凄く高いな。あと、山というよりかは壁に見える。衝立ついたてとか)

(確かに。ティエパって、ここの古い言葉で『盾』って意味らしい)


 エルド公がふいにこちらを振り向いたので、明はぎょっとした。まるでこちらの話を聞いてるかのようだ。

 すらりとした長身と、背中まである金の髪。顔立ちは美しいが女性的ではなく、同性から見て好ましいと思えるような整った顔立ちだ。そしてやはり、耳が尖っている。


(エルド公だっけ? 本当にエルフなんだ……)

(まあな。他にもいろいろ種族があるんだぜ)


「そろそろ行くよ。グルカンで仲間と会う約束をしている」


 エルド公はカップを片付け、焚火の後始末をすると、誰に言うでもなくつぶやいた。


(この人って、俺らに話してんの?)

(……力が強い人だからな。何となく判るんだろう。

 今休憩してるのも、お前がやばそうだったから、俺がエルド公に知らせたんだ。

 昨日の今日だしな。でももう一時間くらい休んだから、そろそろ出発しないと)


 そう言われて明の脳裏にぱっと、昨日エルド公の狩小屋の台所の光景が広がった。まな板として使われた恐怖感が戻ってくる。


(俺、またあんな事されるの嫌なんだけど。 切丸、エルド公に言ってくれよ)

(そんな細かいコミュは取れん。ほら、行くぞ)

(そんな……うわっ)


 エルド公は、切丸と明をかばんの中にしまい込んだ。すでに日は昇りきっている。

跳び馬は、木々の間を抜け前方に高く跳びあがると、翼を開いて気流を捉えた。


(さあ、もうすぐグルカンだぜ)


 切丸が、嬉しそうに歓声を上げた。


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