第3話 目覚め
「ねえ、明さん! 近くにとても綺麗な滝があるんだって」
嬉しそうな弾む声が聞こえる。肩までの栗色の髪を揺らして、彼女が振り返った。
(おい、相棒、大丈夫か?)
暗闇の中、頭に直接響く声に、一瞬ここがどこか混乱する。
夢か。彼女は誰だ。綺麗な、可愛い声だったな。あれは、夢だったのか―――
(おい! 起きろって!このまな板!)
(ひえっ!?)
脳に直接響く怒声に、明は一気に『現実』に引き戻された。
目の前にはキリカとシュトゥーカ、エルド公がいた。エルド公の手には、例の中華包丁、切丸が握られている。
(お前があんまりうるさいから、目が覚めちまったぜ。一体どうした)
(……刀みたいな包丁で、腹のうえでキャベツ切られた)
(――はっ! そうかもしんねぇと思ったけどよ! それだけであんな悲鳴あげてたのかよ)
一瞬きょとんとしていた切丸だったが、明の答えにあきれたように声をあげた。
(昨日の夜、俺が一緒に仕事した時は全然大丈夫だったろ。まな板なんだから、そうそう切られて死ぬことなんてねぇよ)
(でも! 何だか違うんだよ、本当に刃物は怖いっていうか)
(俺も刃物だっつーの。あーもう、判った、わかった)
切丸にどんなにあきれられようが、今の明は本当にあの刃物類が怖くて仕方がない。慣れるといったって、あれを身体に打ち当てられ、身体の上で滑らされるのだ。
それを考えただけでも、ぞぉっと身体中の毛穴が逆立ちそうだ(あればだが)。
(そばに居てくれ!)
(無理だよ!!)
(何でだよ! お前包丁だろう、俺とセットじゃないか!)
(気持ち悪い事言うな)
切丸の苛立つ感情が、指ではじかれるように次々と明の脳裏に撃ち込まれる。思わず明は叫んだ。
(言っとくけど、俺はここ最近来たばっかだぞ! 頼むから側にいてくれ! 助けてくれ!)
(甘えやがって、自分で何とかしようと思わないのか。……ああ、だからか)
その時、エルド公がそっと切丸の刀身に手を添えた。
「……切丸、刃鳴りがすごいぞ。落ち着きなさい」
そう言われて、切丸がはあ、と呟き、怒声を止めた。改めて周りを見ると、キリカとシュトゥーカが耳を押さえて台所の端に縮こまっている。
「キリカ殿、何があった?」
「エルド公……」
切丸の刃鳴りが止んだので、キリカは恐る恐る手を耳から離した。
「スープの材料を切っていたのですが、いきなりこのまな板が跳ね飛んだのです。こういう事は初めてなので……。それと同じくらいに書斎の切丸が鳴り始めて、仕事どころではなくなりました」
「そうか……判った」
エルド公は、周囲を見渡す。
床にはスープの材料の野菜が散乱している。そして、向かいのかまどの上の壁には、包丁が突き刺さっていた。
「その包丁も、私の手から跳ね飛ばされたのです」
「怪我は無かった?」
「はい」
キリカの無事を確認した後、エルド公は改めてまな板を見下ろした。手を伸ばして、そっと持ち上げる。
「キリカ殿、私が迂闊だった。貴女方に怪我が無くて本当に良かった……料理は別のまな板を使ってくれ」
「はい……。エルド公はどちらへ」
「裏の小川にいる。朝食が出来たら呼んでくれ」
まな板の上に切丸を重ねて持ち、エルド公は台所を後にした。
狩小屋の裏の小川は、その上を柳の枝が蓋い、枝が揺れるごとに朝の光がきらきらと川面に反射している。ごく浅い川底は、色とりどりの丸い小石で覆われており、その上を澄んだ清浄な水がなめらかにうねりながら流れていた。
エルド公は、川岸の柔らかい草の上にそっと明を置き、その側に並べて切丸を置いた。
「私はお前たちが何者かはよく判らぬが」
エルド公も、明たちの側に座る。
「切丸がよく刃鳴りする。そして今朝の出来事からすると、やはりお前も同じなのだな」
(同じ……?)
声が聞こえる訳でもないのに、何だか会話をしているようだ。不思議な人だな、と明はエルド公の整った顔を見上げた。
(エルド公は、力が強いから。何となく俺らのことが判るみたいだ)
側の切丸が、心なしか誇らしげに語る。しばらく沈黙が落ち、辺りは川のせせらぎの響きと風が草原を渡る音のみが響いていた。
「落ち着いたようだね。では、試してもいいかな」
(え?)
次の瞬間、エルド公は流れるようにガウンの下から細い剣をすらりと抜いた。そして、一気に明に打ち下ろした。
まるでスローモーションのように、エルド公の動きが見える。その手に握られた剣も、振り下ろす動きにも、一切の躊躇もない。
(う、うわあぁああぁぁ!)
明の身体に剣が撃ち込まれた。その瞬間、明は身体に剣が叩きつけられる痛さに息が止まった。
死んでしまう、とても痛い。いやだ、いやだ、嫌だ!
固く目を閉じた瞬間、まな板、と叫ぶ切丸の声が聞こえた。つられて目を開けた瞬間、空に跳ね飛ばされていくエルド公の細い優美な剣が見えた。視界の端に、エルド公がすでに切丸を手に振りかぶり、打ち下ろす姿が見える。
(うわ! 切丸!)
目を閉じる間もなく、切丸が明の胴体に打ち込まれた。思いのほか重い打撃だったので、明は思わず息が止まる。
だが――。
切丸は明の胴体を打ち込んでいるが、跳ね飛ばされていない。そして、明の身体には切り傷一つ無いようだ。
切丸を持ち直し、改めてエルド公は振りかぶる。そして、もう一度、一気に明に打ち下ろした。明の脇腹あたりに強い衝撃と、ゴンっとくぐもった打撃音が草原に響いた。
「……切丸だと、弾かないのか……」
呟くと、エルド公は切丸を草の上にそっと置いた。そのまま、側に座り直し、何事か考え込み始めた。
三度も剣で切られ(殴られ?)、明は呆然としていた。ただ、少し判ったことがある。
剣など、刃物はやっぱり嫌だ。
「嫌だ」という感情の他は、剣を跳ね飛ばす瞬間や、どうして跳ね飛ばしたのかも覚えていない。
そして、切丸の場合は、どう言う訳か跳ね飛ばせないということだ。相手が切丸でも切り込まれるのはもちろん嫌なのだが。
(俺の事も跳ね飛ばしたら、相棒辞めてやるつもりだったんだがよ)
切丸が、話しかけてきた。
(お前、刀とかが嫌なんだな。毎回こんなだったら、まな板としては致命的じゃないか?)
(……うるさいな。切丸とワンセットなら、問題ないじゃないか)
(は?! 何言ってんの?! 問題大ありだ! 今の俺、仕事は包丁だけじゃないんだからな)
(中華包丁じゃんか。他になんの仕事があるんだよ)
二人が言い合いを始めると、エルド公がふと二人の方に視線を向けた。
「切丸、また刃鳴りしている……やっぱりこのまな板も、何かあるのだな」
小さく呟くと、エルド公はため息をついた。
狩小屋の方から、シュトゥーカがエルド公を呼ぶ声が聞こえる。振り向くと、弾むように走ってくるエルフの娘が見えた。
「エルド様、朝食が出来ましたよー」
明と切丸を持ち、エルド公は立ち上がった。
今日グルカンに戻ったら、オルドゥンに相談しなければなるまい。まさかと思っていたが、自身のもとに『道具』が二つも揃ったようなのだ。まだ確証は持てないが、八割がた切丸と同じ『道具』だろう。
ただ。
エルド公は、困惑した表情で、手に持った明をチラと見た。
「でも、まな板なんだよな……」
え?と言う明と、くすくす笑う切丸を抱え、エルド公は狩小屋の方へ戻っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます