第2話 水の森にて


「エルドさまー、おはようございますー」

「エルド公、お早うございます。朝餉をお作りいたしますので、厨房失礼いたします」


 爽やかな朝の空気と、地平線から雲を切り分けるように差し込む朝日が、瞬く間にエルド公の狩小屋を照らし出す。

 エルド公の狩小屋の前には二頭の跳び馬がつながれ、元気な声と凛とした声が、風にそよぐ静かな朝の草原に響き渡った。


「お早う、キリカ殿、シュトゥーカ殿」


 部屋着の上に白地の淡く輝くガウンを羽織り、薄い金色の長い髪を一つに結んだエルド公が、玄関に二人を出迎えた。キリカ、シュトーカと呼ばれた二人の女性が恭しく一礼する。


「わざわざ、こんな辺鄙な狩小屋まで来てくれて申し訳ない。明日の朝には、私もグルカンに戻るのに」

 

 エルド公の言葉に、年配と思われる女性がにっこり微笑んだ。


「いいえ、何を仰るのです。エルド公の身の回りのお世話をするのが、私共の務めですから。本当は私もこちらに住まわせて頂きたいくらいです。供も付けずに、ひと月も一人でこちらにいらっしゃるなんて」


 ここシュスカ高原は、周囲を険しい山脈に囲まれた緑豊かな土地だ。

 高原の真ん中には大きな森があり、周囲の山脈頂上に積もる雪からもたらされる湧き水が、あちらこちらに清らかな泉を作っている。この高原を見下ろす山脈から落ちる滝は、ゆっくり蛇行しながら横切り、端で大きな川となり、他の地方へと落ちていく。

 謂わばここいら一体の水源地であり、別名『水の森』と呼ばれる美しい土地だ。


「キリカ殿、心配させてすまないね。私としては気を使わせたくなくて、こっそりこちらに来たんだけど」

「エルド公、そのようなお気遣いは、無用ですよ。昨日は、オルドゥン様もいらしてたんでしょう」

「ああ。どうしてそれを」

「オルドゥン様は、貴方様のご友人ですし」


 キリカと呼んだ年配の女性に頭が上がらないのか、エルド公は苦笑いした。


「……判った。では、今日一日よろしく頼む。ただし、午後の休息が終わり次第、貴女方はグルカンに戻るように。そして、シュトゥーカ」

「はい!」


 まだ十代くらいだろうか。若い娘が元気よく声をあげた。


「久しいね、元気そうだ。神殿では皆と仲良くやっているかい?」

「はい、仲良くさせて頂いてます! 今日は、キリカ叔母様がエルド様のところへ行くと言うので、お手伝いのため同行しました!」


 そうか、とエルド公は優しく微笑む。シュトゥーカは、ぱっと頬を赤らめ、俯いてしまった。


「ではエルド様、私共はこれで」

「ああ」


 エルド公は二人に微笑み、また書斎に戻っていった。




 斉藤明は、小鳥の囀りで目が覚めた。

 目を閉じているせいか、時間がよくわからない。目を開けようとして、ふと昨日の出来事を思い出す。

 

 これまで、目が覚めたら夢だったという事はよくあった。

 会社でヘマした夢、芸能人と付き合う夢、交通事故にあう夢など色々見たが、その度に夢の内容をなぞることで、『あり得ない事』なんだと理解した。

 もう一度、目を開ける前に、今回の一連の出来事を脳内でゆっくり反芻する。


 まず、自身がまな板であったという事。


 もう、この時点で『夢』確定である。

 あとは、ライオン頭の獣人がいること、そして何故か、意志疎通出来る中華包丁がいること。これだけでも『夢』だと判るが、『まな板』。

 この1点だけで、もう『夢』確定だ。


 夢なのだから、後は目を開けて周囲を確認すればいい。何だかやけに鳥の囀りが聞こえるが、多分気のせいだろう。身体も心なしか動かない気がするが、気のせいだ、気のせい。

 目を開けよう。そうすれば、こんな変な夢覚めるに決まって―――



「叔母様、やっぱりエルド公って素敵ですね!」

「シュトゥーカ、大声出さないの。はしたないですよ」

「はあい」


 二人の声にはっと目を開いた明の前に、二人の女性らしき人物が立っていた。

 一人は、五十代中頃だろうか。微かに銀色に輝く金茶色の髪を、柔らかく一つにまとめている。丸みを帯びた顔立ちだが、目はぱっちりと輝き、薄い翡翠色の瞳が輝いていた。柔和な表情とは裏腹に、唇は柔らかく、だがしっかりと結ばれている。そして、尖った耳。


「エルド様、書斎に戻りましたよね。お仕事で、ずっと起きていたのかな」

「そうでしょう。今、色々と忙しいから……。

 さあ、そうとなれば急いで支度しましょう。採れたてのキャベツがあるから、スープを作って、パンと果物。今朝は卵もゆでましょう。お茶も準備ね」

「はい!」


 てきぱきとした指示に、もう一人のシュトゥーカと呼ばれた娘が元気よく返事を返した。濃い金色の巻き毛を一つに束ね、食事に入らないよう白い三角巾で覆っている。動きも弾むようで、ちょっとつつけば、どこまでも転がっていきそうだ。そして、この娘も尖った耳を持っていた。


「私、パンを焼きますね」

「頼んだわ」


 唖然とする明の目の前で、シュトゥーカが荷物の中からパンのタネらしき白い塊を取り出した。大理石の作業台にぱっと打粉をまき、パンの材料を捏ね始めた。ここに来るまでの時間を利用して発酵させていたのだろう。手早くちぎって小さな塊をいくつも作っている。


 その向こう側、壁際のかまどでは、こちらに背を向けたキリカが火を起こす準備をしているようだ。薪らしきものを重ねて置く音がする。何かカチカチと硬い石のようなものを打ち鳴らす音が聞こえた。


「火の精よ、踊っておくれ」


 小さく何か呟く声とともに、火が薪を燃やす音と熱がかまどからあふれてきた。かまどの上で鍋が湧いてきたのか、台所の中も少し蒸して来た。

 パン生地の塊を作り終わったシュトゥーカが、何か袋を持ち、明の斜め横に弾むように近寄ってくる。何をするのかと明は必死で体の横に視点を動かした。


 明の置かれている作業台の横に、勝手口らしきドアがあった。

 シュトゥーカが、ドアについている施錠を外し、外に大きく開く。そこには小さな岩を積み、漆喰で固めたかまどがもう一つあった。

 シュトゥーカは、そのかまどに付いている黒い鉄の小さな扉を軽々と開き、その中に手に持った袋を逆さまにし、何か石のようなものを転がし入れているようだ。石炭だろうか、ぶつかりあう音は硬く澄んでいる。


「火の精よ、踊っておくれ!」


 シュトゥーカが、跳ねるような仕草でかまどの中を指さし、呪文を唱えた。

 が、今回は何も起こらない。きょとんとしたシュトゥーカは、もう一度唱えるが、かまどの中からは何かかちかちと小さくぶつかり合う音がするのみだ。先ほどのキリカと同じ事をしているはずなのだが。


 この娘、ちょっとできないコなんだろうか。


 明は、状況を忘れてシュトゥーカの様子をうかがう。


「もう、またできないわ。どうしたの? くっつき過ぎ?」


 今度は、火かき棒だろうか。側に立てかけてあった黒い鉄らしき棒を手にとり、かまどの中をつつき始めた。


「シュトゥーカ、石炭は均等にね。あと、発音に注意よ」


 いきなり側でキリカの声が降ってきたので、明は驚いて視線を正面に戻すと、女性の胸が目の前にあった。

 一瞬無心で胸のあたりを見ていたが、次の瞬間身体を掴まれ、また昨夜のように作業台に仰向けに寝かされた。そしてその腹の上に、何か野菜らしきものがどんと置かれる。


 またか!!


 あの時、あのライオン男に腹の上で色々な物を切られたのだった。腹にくる打撃はきつかった。


(待って、ちょっと、優しくして!!)


 傍から聞くと、何事かと振り返りそうな叫び声をあげ、明は身をよじる。よじろうとしたが、やはり身体はぴくりとも動かない。

 キリカが包丁を取り出した。昨日の中華包丁ではない、短い刀のような包丁だ。露骨に刀なので、明は震え上がった。


(待って、それ、どうなるの、俺、どうなるの!)


 外からシュトゥーカがもう一度「火の精よ、踊っておくれ!」と呪文を唱えていた。何か悪戯っぽい笑い声とともに、ぽんっと何かが爆ぜる音がする。

 気をつけなさい、とシュトゥーカに声を掛けながら、キリカが丸々としたキャベツに刃をあて、ゆっくりと切り下した。キャベツを切り分けた刃が明の身体に当たった瞬間、明は悲鳴を上げて気を失った。




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