第6話 抱きしめてみろ
その夜。眠る前くらいにトシヤは、カホがもしあのまま消されていたらと考えると、眠れなくなった。カホとはもう赤の他人。一緒に住んでいても、それは大魔王が来たせいであって、カホの望んでいたことではない。でも、だからこそ思う。もっと大事にしていれば良かったと。世界が終わる最後の瞬間くらい、もっと互いに心を通じ合わせたかったと。トシヤはずっとそんなことを考えて、一時間以上経ってからようやく眠りについた。
そして夜中に目が覚めた。眠りが浅いのだろうか。トシヤは薄暗い中、寝ぼけ眼でとりあえずトイレに向かったが、短い廊下でカホに出くわした。
カホはなぜか廊下の真ん中で立ち尽くしていた。いつもはポニーテールにしているが、寝るときだけは髪を下ろしている。そのためトシヤは一瞬これがカホなのかどうかわからなかった。だがモコモコした青いカーディガンを着ているのでわかった。これは指先まで隠れそうな大きさのカーディガンで、いつも彼女が着ているものだった。
カホは後ろにいるトシヤに全く気付いていなかった。トシヤは、もしここで後ろからカホを抱きしめたならどうなるだろうと思った。自分は本当は大好きなのに、別れを切り出されてしまった。そうして世界が終わるまであと数日。そんな中で愛しい人に触れ合いたいと思うのは間違ったことだろうか。
しかしその姿が急に振り返り、トシヤに言った。
「何のつもりだ、貴様」
「え」トシヤが驚いて言った。「大魔王様ですか?」
「そうだ」
確かに腕輪があるはずの部分がカーディガンで隠れているから、わからなかった。二人はしばらく言葉もなく、互いに目を見合わせているだけだ。
「どうしてその服を?」と少ししてトシヤが言った。
「置いてあったのだ。寒かったから着た」
「そうですか」トシヤはがっかりして言った。
カホにしか見えないその顔がこちらを睨んでいる。薄暗い中だが、その顔はちゃんと見える。
「貴様、何をするつもりだったのだ」
「いえ」
「言ってみろ。いや、言え」
下らない反抗をして今ここで消されても困るので、トシヤは正直に言うことにした。
「えっと、こう」ジェスチャーでもってトシヤは示してみせた。「抱きしめようと」
するとその睨んだままのその顔から、意外な言葉が出てきた。
「何だそれは。やってみろ」
「え、やってみろ?」思わずトシヤは聞き返した。
だが相手に返事はない。とにかくやってみろと言いたいのだろう。
トシヤは複雑な気持ちだった。抱きしめたいのは大魔王でなくカホだったが、相手はカホと全く同じ見た目をしている。だがどちらにせよ断ることなどできない。結局トシヤは言う通りにした。後ろからその体をそっと両手で抱きしめる。するとやっぱりカホのにおいがした。大魔王はシャンプーもカホと同じものを使っている。体もカホなのだから同じにおいがするのは当然なのだが、それでもトシヤは自分の鼓動が速くなるのを感じた。まるで本当のカホみたいだ。トシヤは思わず少し強く抱きしめた。今だけは本物のカホだと思って抱きしめているのである。
「貴様。なぜこんなことをしたいと思うのだ?」
その質問でトシヤは現実に引き戻される。
「なぜというか、わからないですけど」とトシヤは抱きしめたまま答えた。「そういう気持ちが溢れてというか」
するとそこでトシヤに変化が現れた。少し前から感じてはいたのだが、何やら目の奥が熱くなり、そうして目を閉じると、自然と涙が一粒こぼれ落ちた。一粒二粒と落ち、それが次第に止まらなくなった。考えてみればこんなのはすごく久し振りで、もう二度と訪れないことだと思っていた。だからこそ感情の昂ぶりを抑えられなかったのだ。涙が相手の肩を濡らすのと、息づかいでわかったのだろう。トシヤのちょうど耳元くらいで声がした。心なしか穏やかな声にさえトシヤには聞こえていた。
「なぜ泣いている」
「いえ」と言ったもののトシヤは何も言えなかった。
どれだけそうしていただろう。だが、しばらくしてからまた自分の耳元で声がした。
「おい、もう離せ」
トシヤは言われた通りにした。そうして離れた目の前の顔に、表情らしい表情は無かった。
「さっさと消えろ」
出てきた言葉はそれだった。
トシヤはそこでようやくトイレに行くつもりだったことを思い出し、トイレに向かった。が、入る前に一言だけお願いをした。
「すみません。このことはカホには内緒にして下さい」
「言う気も起きない」そう言ってさっさと和室の方へと歩いていく。
その後ろ姿を見届けてトシヤはトイレに入った。
その一方で和室に戻ろうと見せかけたその足が止まり、背後でトイレのドアがちゃんと閉まっていることを確認する。そうするとその足が和室ではなく、こっそりリビングの方へ歩いていったかと思うと、少し盛り上がっているだけで誰も寝ていない自分の布団へと戻った。その腕には当然腕輪などついていない。そして何事もなかったようにそのまま眠りにつこうとするのだが、そう簡単には眠れない。トシヤが同じリビングに入ってきて、何も気付かず寝てしまうまで、ずっとカホは寝ているフリをしているほか無かったのだ。
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