第二章
登校①
慕っている女性がいた。でもその人はあっさりと僕から、いやこの世から姿を消してしまった。人間はこうも簡単に死ぬのだと、心の奥底で思った。
そりゃ当時は悲しんださ。泣いて、悲しんで、思い返してはまた泣いて。
――そして僕は最低なことに、傷つくことを止めてしまった。痛いのが嫌で、苦しいのが嫌で。出来るだけ思い出さないように、心が傷つかないように。それは故人を忘れることに等しく、まさしく最低な行為だ。
でもあの部屋で黒咲と出会い、古傷が痛んだ。……あの人のことを一瞬だけでも思い出してしまったんだ。
ベクトルは全く違えどトラウマを抱えていたという点において、僕は黒咲に対してある種のシンパシーを感じた。それが彼女の心を傷つけさせまいと誓った理由。彼女の言ったヘタレというのは、その後付けに過ぎない。
まぁ、それに加えてあと一つ、理由があるのだけれども。というかこれの延長線上に、ヘタレの枠組みを置いたのだけれども。
とにかく、傷つけないと銀城さんとも約束した。だというのに黒咲は――
目を開ける。
差し込んだ朝日が眩しい。起床が容易なのは嬉しいことだけれども、もっと寝たいと思う時にはありがた迷惑なことだ。まぁ今日は起きなければならない日なのだが。
というわけでベッドから立ち上がる。いつもならこのまま洗面台に向かい、顔を洗うはずだった。しかし、今日も周りを見渡し自分の部屋であることを確認した。
朝のルーティンに”自分の部屋だと確認する”項目が追加されてしまったのは、つい三日前から。帰り際に黒咲からからかわれたあの日の翌日からだ。
あの部屋での生活。体感で七日というのは意外に長かった。目覚めるたびに、ここがあの部屋なのか自室なのか、分からなくなる。自身が持てなくて、確かめてしまう。
――”胡蝶の夢”という話がある。
男が蝶になる夢を見て、目覚める。すると蝶になる夢を見ていたのか、はたまた蝶が人間になる夢を見ているのか分からなくなっていた、という中国に伝わる説話。
なるほど限りなく現実に近い夢を見るというのは、存外に恐ろしく感じる。今だって、本当の現実はあの部屋で、僕は外に出られたという夢を見ているのかもしれない。
もし今が現実だと仮定して、実際には存在しない七日分の記憶が僕には残されている。そう考えると、たった三日程度の、限りなく現実に近い夢を見続けることなど容易に感じてしまうだろう。
つまり、現実の区別がつかないということ。
「……っ」
冷房を効かせ過ぎたのか、ぶるりと体が震えた。……いや、”今”が夢なのだという想像に恐怖したのだ。それくらい分かっている。分かっているのだけれども……どうしても今が現実だと信じたい自分がいる。
何故自分がそう思うのか、そればかりは自分も確信が持てなかった。銀城さんという新しい出会いに感激したのか、自分でも気付かず朱李との再会に歓喜したのか、それとも――
そんなことを取り留めもなく考えながら、クローゼットの中のシャツを手に取りかけて、止めた。
「そうだった。今日から夏服だ」
クリーニングに出していた夏服をタンスから取り出し、袋から開けて早速着る。二の腕より先が衣服から開放された感覚が心地よい。先程までの恐怖が薄れていった。
制服に着替えると、部屋を出ていつものように朝食を食べる。いつものように、父さんは居なかった。先週の日曜日は帰ってきてたから、家から出ていったわけではないのだが。
ベーコンエッグを口に運びながら、朝のニュースを眺める。
『次のニュースです。
女性にとっては恐ろしい事件だ。まだ捕まっていないというのは恐怖感を煽られる。……そういえば、終礼で担任は何か言っていたような気がする。不審者には気を付けろとか……今思えば、この三日間は先生方の巡回を何度も見かけた。
と、気付けば家を出る時間だ。鞄を手に持ち、ドアを開けて、家に向かって誰もいない虚空へと言う。
「いってきます」
電車を降りて学園に向かう。その間、特に何もなかった。席に座れないお爺さんがいたりとか、痴漢の目撃とか、そういったものは一切無い。学生的なイベントの多くは、所詮作り話の中だけ――
「おいおい、今日も黒聖女様綺麗だわぁ〜」
「騎士様もふつくしい……あっ、今私に向けて手を振ったよね!?」
「はぁ? 私達に向けたんでしょ」
「あ゛? 私に決まってんでしょうが」
「お前ら喧嘩はやめろって。黒聖女の蔑んだ視線が見れないだろうが」
「「てめぇが一番黙ってろ」」
「酷い!」
――訂正しよう。学園の美少女は、現実にもいた。
男女学年問わず大人気な二人は、片方は明朗に手を振り、もう片方は無表情で周りの集団には目もくれず、素っ気ない態度で歩いていく。中には両方ともに興奮している輩もいるようだが……どちらにせよ、有名かつ人気なのに変わりない。なるほど二つ名が付く理由も納得だ。だからこそ、今話しかけるべきでない。
話は変わるが、僕はそんな人達と知り合いだということが、嬉しく思う。……彼女らの肩書きや人気を我が物として誇っているのではなく、あくまで素晴らしい二人と心を通わせられたという事実が誇らしいのだ。
黒咲にせよ銀城さんにせよ、あの人気と引き換えに日常での疲れが少なからずあるはずだ。実際に黒咲は過去の出来事から、男に話しかけられる、いや関与されることまでもを嫌っていた。初対面で僕も、散々に言われた。あの時のことは忘れていない。
それが今では、なんと僕に名前の愛称で呼べと要求してくるまでになってしまった。そうなった原因は、前述の”あの部屋”にあるのだが。
……まぁ長々としたことを考えてしまったが、要するにこの空気であの時の態度を取られたら、間違いなく僕に矢が飛んでくるということ。それも特大の矢が、波状になって。
そもそも彼女らはそこまで社交的な立場ではない。黒咲は少数の女子と仲良くしているものの、男に関しては完璧に排他的なコミュニティを築いているし、聞いたところによると銀城さんも、ファンサはするものの特定のグループを作ったりしているわけではないそうだ。だからこそ、学園の生徒が安心して推せているのだろうが。
……そんな中、冴えない編入生である僕が突然入ってきたらどうよ?
間違いなく、悪目立ちする。今でこそ穏やかな目で見られているが、唯ですら編入初期は朱李と親しくしていることでクラスメイトの男子から嫉妬の籠もった目で見られていたのだ。ならば黒咲と銀城さんの場合、女子も追加されるので約一クラス分。単純計算で”6(クラス)”✕”3(学年)”✕”2(中等部、高等部)”=36クラス分の視線を浴びることになる。
自意識過剰と思われるかもしれないが、目の前の光景はそう思わせるほどに、二人の人気を表しているから。
三日前に友人になったばかりの黒咲には申し訳ないが、今話しかけるような勇気は持ち合わせていないし、そういう空気でもない。僕はスタスタと玄関に向かって歩いた。
そして視線を前だけに向かせる直前、ふと黒咲の翠緑の目が僕の目線と合ってしまった。直ぐに視線を逸し、黙って校舎へ――
――だが、そうは問屋が卸さない女子がいた。
「多々良部さん?」
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