六日目⑧


 ……疲れた。黒咲と言い争った時よりも疲れた。


 あの時は怒りといった感情に身を任せていたけど、今度は違った。逆に感情や欲望を抑え、理性を保たなければならなかったから。



「お待たせしました……」


(着替えるにしては少し長かったな……)


 頭に浮かんだ疑問は直ぐに消えた。叡蘭学園の制服に着替えた黒咲は、手に何も持たずに脱衣所から出てきた。気の所為か、少し汗ばんでいる?


「あれ? 前の服はどうしましたか?」


「……ゴミ箱があったので、そこに叩き捨てました。八つ当たりも甚だしいですが、そうしなければ気が収まらなかったので」


「そうですか……」


 僕の脳裏に、ローションをゴミ箱に叩きつけた際のシーンが蘇った。捨てるものは違えど、互いに叩き捨てたという点で不思議な縁を感じる。



 それはさておき、僕と黒咲は机を挟むようにして椅子に座った。これまでのことと、これからのことを相談するために。


「ではまず私から。改めて、先程までの横暴についての謝罪を……本当に申し訳ございませんでした」


 黒咲は頭を深く下げた。


「いえ、僕に被害はありませんでしたし、もう気にしないで下さい。ただ……何故黒咲さんがあのような所業に至ったのか、詳しい理由が知りたい」


 僕の知っている黒咲ならば、たとえ動揺した状態であっても、あのような奇行に移らなかったはずだ。水に流す前に、動機が知りたかった。


 訊ねると、彼女は顔を俯かせる。口を小さく開き、小さな声で話し始めた。


「……そ、その……実は最近はずっと……そのっ、じ……」


「じ?」


「じ……自分を慰めていなかったもので……溜まっていたのです」


「……?」



「ですからっ、せっ、性欲が溜まり過ぎて精神が昂っていたのですよッ!!」



 ヤケになって大声で言った。そこでようやく気付いた。彼女は単に言いたくなくて顔を俯かせていたのではない。……羞恥に染まった顔を見られたくなかったからなのだ。


「は、はぁ……なるほど」


(え? え? 黒咲の口から”性欲”とか”自分を慰める”とかいうワードが出てきた? だとしたらつまり溜まりすぎておかしくなっちゃったってことだよな? じゃあ昨日の俺と同じ現象……マジで!?)


 平然を装った返事をしながらも、僕の脳内は荒れ狂っていた。予想外すぎる言葉に理解が遅れる。


「先程着替えるついでに解消して参りました! なのでもう大丈夫です!」


 センシティブな内容を続けざまに告白する黒咲。余計に思考が乱される。なるほど汗ばんでいるように見えたのは、そういうことだったのか……。


「ふぅ……ふぅ……ご理解いただけましたか?」


 息絶え絶えな黒咲。顔は依然赤く染まっている。


「――完璧に理解しました」


 突然スッと情報が整理された。なんだ簡単な話じゃないか……昨日の僕と重ねれば良い。性欲に体が支配されかけたあの時の僕と。


 ただ、僕の場合と違うのは、身体を交わせばこの部屋から出られる可能性があるという情報が突然に入り混乱してしまったこと。それが原因で不安定な状態がエスカレートしてしまい、ファッションショーやロープ事件に至ったのだ。


「あぁ、性欲を発散したことで冷静になってしまいました……あの時の私は一体何を考えていたのでしょうか!?」


 再びのお祈り。今度こそ黒の制服なので、素晴らしい聖女感が出ている。……聖女感ってなんだろうね。


「まぁまぁ落ち着いて下さい。幸い、貴方の奇行を目撃したのは僕だけです。黒咲さんが言った通り、僕と貴方が黙っていればここで起きたことは外にはバレませんよ」


「……本当ですか? 内緒にしてくださるんですか?」


「はい。勿論僕は決して口外しません」


 あの姿と行動は記憶の中に留めておくだけでもキツいのに、大衆に暴露するなど、逆にこっちの精神が保たない。外に出た後の彼女の身を案じる意図もあったが、理由の七割は前者だ。


「ありがとうございます……。多々良部さんは終始通して誠実であってくださったのに、私といえば……はぁ」


『ごめんなさい。実は僕も性欲が溜まってた時があったんです……』


 なんてこと、溜め息をつく黒咲の前で言えるはずもない。


「欲望に負けて男性を襲いかけるなど、母にもシスターにも決して話せない内容です。……まさか性欲が突然にやってくるなど、誰が予想できたことでしょうか」


「生理現象は自分で制御し難いですし、しょうがないですよ。大事なのは、黒咲さんが自分の行いを自覚し静止できたことですから」


「……あまつさえ被害者の方に慰められるなんて。気遣いはありがたいのですが、今は心の傷に塩を塗ってますよ……」


「あ、あはは……」


(流石に励まし過ぎたか……?)


 更に黒咲の肩が落ちていく様子を見て、少し反省する。慰めも丁度良いラインがあるのだと学んだ。


「……でもやはり、多々良部さんのお言葉に救われています」


 一転、少しだけ元気を取り戻した。喜怒哀楽が激しくなっている……精神状態が落ち着いたと彼女は言うが、自覚しているほど収まっていないのだろう。それを相手するのが面倒だと感じるのは簡単だが、黒咲をこうさせた出来事に関与している以上、付き合わなければならないのだ。


 しかし……羞恥とは違った赤色に染まっている黒咲の顔、勇気を出して何かを言おうとしている口元を見れば、嫌な予感がして止まない。


「……えぇ、そうですとも。私、マーガレット・黒咲は多々良部さんに何度も救われました。なので、貴方を想うこの感情は――」


「黒咲さん。もう気付けば夜ですよ? 早くご飯を食べて寝ましょう」


「……私の話のまだ途中なのですが」


「――今日はいろんなことがあって、もう疲れたと思います。今日はここまで。その話はまた明日にお願いします」


(訳:今日は疲れたから、それについて聞きたくない)


「でっ、ですが……いえ、分かりました」


 有無を言わさない僕の表情に気圧されたのか、またはロープ事件の後ろめたさか……黒咲はそれ以上何も言わずに口をつぐんだ。


 音を立てて椅子から立ち上がり、発言通りに夕飯の支度を始める。黒咲は席に座ったまま、何かを考え込んでいた。


 ……黒咲の話を中断させた理由は、単に疲れたからだけじゃない。ロープ事件の最中に彼女が発した言葉を思い返すと、僕にとってはかなり重すぎるので、それについて掘り返させないためだった。


とか……ロープに意識を割いてたけど、思い出せばサラッととんでもないこと言ってるよね)


「はぁ……」


 今日だけで面倒な出来事が山程あった。もしかすると、この部屋から出た後も付き合わなければいけない問題もあるかもしれない。そのことが億劫で……彼女に気付かれないような、小さな溜め息をついた。




 まぁその後は特におかしなこともなく、自然に会話しながら夕食を楽しんだ。お風呂も普通に入り、普通に少しだけゲームして、普通に消灯した。


「「おやすみなさい」」


「また明日……話しましょうね」


 黒咲の言葉が耳に入ると同時に、僕の意識は夢の中へと入っていった。



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