第2話 御礼を言ってばかりなのは
「ええと……でも、油断できない方だということですから」
昨日の今日だから、そもそもその話をしたかったのかもしれない。つまりは、
(そもそも私は神隠しに遭ったんじゃ、って言われているみたいだし……)
人の世から
子爵や、その家中の者の目の前で、千早は神ならぬあやかしに攫われるのだ。姐さんたちや若い衆に、それこそ花魁道中さながらに、思い切り派手に着飾ってもらって。明治の世にだって、電気にもガス灯にも照らすことのできない闇があるのだと、科学で解き明かせない不思議があるのだと世間に見せつけよう。
(そうすれば、あやかしにも少しは居心地の良い世界になるかしら)
鬼やのっぺらぼうや狐や狸が本当にいると知ったら、明治の人でも夜や闇を恐れるようになるだろう。少なくとも、当分は。千早の案に、月虹楼のあやかしたちは面白がって飛びついてくれた。それなら飛び切り恐ろしくおどろおどろしくしなくては。いや、仮にも遊郭なのだから、美しさも譲れない──昨晩は
「
衣装や髪の結い方を考えて楽しそうだった
「私も、役に立てなくて申し訳ないです。……だからあの、お互いさまということで」
問題は、千早も朔も、月虹楼の誰も、渋江子爵の居どころを知らないことだ。街に出て人に聞けば分かるのだろうけれど、追われる身の千早が動けないのはもちろんのこと、あやかしたちはまだ明治の世に慣れていない。あの男たちはまた見世の周りをうろつくのかもしれないけれど、いつになるか分からないものを待つのも具合が悪い。里見に聞くのは、葛葉の機嫌を考えるとできそうにない。ならば残る心当たりは寿々だけだ。ちょうど良くというか何というか、今日、また会う約束をしていることでもあるし。快く教えてくれるのかどうかは、千早にも分からないのだけれど。
「油断できぬのは
「はい。分かっているんですけど……でも、確かめたいので」
寿々が優しさだけで千早を助けてくれた訳ではないのは、さすがにもう分かっている。華族の家に迎えられるのは、普通なら良い話なのだから。一番最初に逃がしてくれた時は早とちりもあり得たかもしれないけれど、昨日の隅田川のほとりで教えてくれなかったのは──その理由もまた、千早には分からない。少しばかり成長して、しっかりしたような気がしても、手が届かないことばかりだ。
(裏切られた、のかしら……? 私は、お嬢様をずっと信じていた……)
でも、辛いとか悲しいとか、まして悔しいだなんて思わない。良い思い出があるからか──そんな甘い考えも、葛葉あたりならお人好しだと眉を顰めそうだけど──それとも、千早はすでにあやかしに馴染み切っているからだろうか。人の世はもう彼女の居場所ではないから。「こちら」に、温かく迎えてくれるあやかしたちがいるから。だから、何があっても大丈夫。……少なくとも、今はそう思えている。
決して強がりなんかではなく、千早は芝鶴に微笑みかけることができた。
「子爵様より、お嬢様が何を考えていたかのほうが気になるくらいなんです。それさえ分かれば、人の世にはもう何の心残りもありません」
「そう、かえ」
芝鶴がふ、と目元を和ませるだけで、良い香りが漂う心地がした。この姐さんは、狸ではなくて実は月下美人の化身ではないかと思うほど。
「楼主様がついていれば大事はないとは思うけれど。気を付けるので、ありんすよ?」
綺麗な人が、指を伸ばして頬を撫でてくれたものだから、千早の心臓は破裂しそうになってしまう。初心な田舎者のように、花魁の眼差しと指先だけで翻弄されて、熱く茹ったような頭の片隅で、ふと思う。
(芝鶴姐さん……私を、心配してくれたの……?)
もちろん、それを口に出して尋ねることも、怖くてできなかったけれど。きっと、心外、と言わんばかりに目を見開いて、小娘が思い上がって云々とちくちく刺されるのだろうから。そんな無粋な真似をしたら、花魁の気遣いを無にするのも同然だ。
「はい。ありがとうございます……!」
「まあ、大げさなこと。主が頼りないから言うただけなのに」
大きな声で礼を言うと、芝鶴は煩そうに軽く眉を寄せた。けれど口の端が緩んでいたから、きっと機嫌は良いのだろうと思えた。
* * *
「寿々なる娘はだいぶ気が強いようだから」
「千早はぼんやりしているもの、負けないようにしないと」
そう言うふたりが選んだのは、季節に合った
帯を締められる心地良い圧迫を感じながら、お針のふたりの評に千早は苦笑した。
「ぼんやり……していますか?」
思えば、
(でも、だいぶマシになったと思うんだけどなあ)
自分の将来について。誰のために何をしたいかについて。ぼんやりしているなりに、考え始めたつもりなのに。千早の軽い抗議を受けて、織衣と白糸は首を傾げて笑いあった。
「おっとりというか──」
「鷹揚というか?」
「だからねえ、昨夜は驚いたけれど。でも、すっとしたわ」
「そうねえ。姐さんたちの衣装を考えるのも楽しみよ」
例の「神隠し作戦」のことだ。あれが着たい、こんな趣向を試したいと、女たちは期待と想像を巡らせている。千早のために手を動かしながら、お針のふたりは相談に乗ったりもしたのかもしれない。
「おふたりの腕だもの。きっと、素敵な花魁道中になります」
「ええ、きっと」
そろって頷くと、織衣と白糸は微笑んだ。着つけも髪型も、思った通りの出来になったらしい。差し出された鏡を覗けば、今日もどこのお嬢さんかと思うような可愛らしい娘が目を瞠っている。
「気を付けて、行って来なさい」
「言われたらちゃんと言い返すのよ?」
ふたりはどこまでも心配顔だけど、千早もよくよく覚悟していることだ。流されるままだったかつての自分から変わるためにも、寿々お嬢様にだって堂々と対峙しなければ。
(言いたいことも、聞きたいこともたくさんあるし……!)
それでも気後れはしてしまうから、深呼吸して──千早は、笑おうとした。
「大丈夫……だと、思います。頑張ります。あの、ありがとうございます」
朝の芝鶴に対してといい、月虹楼にいると御礼を言うことばかりだ。つまりはそれだけ素敵な人たちの素敵な心に囲まれているということで。だからこそ、千早はこの見世を守りたいのだ。
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