第3話 神様の願いごと
「わっちらもついて行っては……いけえせんよなあ?」
切り火を切るための火打石を抱えた
「うーん、その耳と尻尾があると、目立っちゃうから……。姐さんたちみたいに、完全に人の姿になることはできないの?」
白黒の耳が悲しげに垂れたので、言葉で聞くまでもなく、千早はふたりの答えを知った。
「未熟者ゆえできいせんのじゃ……」
「やはり、いけえせんか」
顔を見合わせて溜息を吐くふたりが可哀想で可愛らしくて、千早は同じく出かける支度を整えた
「人の世界に興味を持ったのか。珍しいな」
千早よりも
「昨日の千早からは、猫の匂いがいたしんした」
「前の見世では猫を飼っていたとも聞きいしたゆえ」
言われて、千早も思い出す。目の前のふたりとはまた違う猫のことを。人の形をしていたりはしなくて、茶色と黒と白が混ざり合った毛皮の、お嬢様の少し太った愛猫の──
「若菜のこと? でも、お嬢様だって連れ回したりはしてないよ?」
「さようでありんすか……」
「若菜はお嬢様の猫だし、瑠璃と珊瑚のほうが可愛いよ」
「それは、間違いございいせんが」
余所の猫が気になって妬いているのか、とも思ったけれど、頭を撫でてみてもふたりの反応は今ひとつ鈍い。もう一度朔のほうを窺って助けを求めると、彼も手を伸ばして黒と白の三角耳を代わる代わる掌で倒した。撫でられること事態は嬉しいのか、喉を鳴らす音が重なって響く。
「……今日は大事な用だ。落ち着いた後にまた会えるなら、その……猫とも遊んでもらう機会もあるのではないか?」
朔の言葉は心もとなげで、本心からのものではないのだろうと聞こえた。彼は、寿々お嬢様のことをあまり信用してくれていないのだ。というか、もう二度と会えないかも、と言ったのはお嬢様本人だ。
(やっぱり、私とは会いたくないってことなの……?)
千早の顔に憂いの翳が落ちたのを見て取ったのか、瑠璃と珊瑚が慌てたようにぴん、と尻尾を立てた。
「……あい、楼主様の仰せえす通りに」
「どうぞどうぞ、お気をつけてくださんし」
ふたりの禿は可愛らしく笑うと、小さな手で火打石を打ち鳴らした。明るい中で一瞬だけ煌めいて消えた火花は、厄除けのための験担ぎだ。菖蒲の柄の着物と同様に、あやかしたちは千早の無事を願って送り出してくれているのだ。
* * *
昨日と同じ朱塗りの鳥居を、千早は昨日と同じく朔に手を引かれて潜った。若い男女の逢引のような格好の恥ずかしさ──でも、千早の胸が高鳴るのはときめきによってだけではない。寿々お嬢様と対峙することを思うと、一歩一歩が鉄の鎖を嵌められたように重かった。自然、歩みも遅れがちになって、朔と繋いだほうの腕が伸び切ってしまう。
「あの、ご、ごめんなさい」
重りになってしまっていることを詫びながら、慌てて足を急がせる──と、苔むした石段に滑って視界がぐらりと揺れる。
(落ち──)
痛みを覚悟してぎゅっと目を瞑る。でも、千早を受け止めたのは硬い石や地面ではなく、温かく柔らかいものだった。恐る恐る目蓋を持ち上げると、朔の端整な顔が間近に彼女を見下ろしている。
「大丈夫か?」
「は、はい……はい!?」
社に休む鴉を驚かせる素っ頓狂な声が、自分のものだとは思いたくなかった。どくどくとなる心臓の音がうるさくて、朔に聞こえてはいないかと心配になるくらいだし、真っ赤になったであろう頬も、どっと流れる冷や汗が額に滲むのも、みっともなくて消え入りたい。なのに、朔はどこまでも丁寧に千早が自分の足で立つまで待ってくれた。
「上の空にはなっていないか? 気を付けるんだ」
「はい……ごめんなさい……」
寿々お嬢様と話したいのは、千早の都合だ。朔なり四郎なりに会ってもらうほうが安全だっただろうに、今日も出向くのは彼女が気持ちの区切りをつけたかったから。なのにこの有り様では、朔は内心ではさぞ呆れているだろう。でも、俯く彼女の旋毛に降ってくるのは、穏やかな微笑の気配だけだった。
「昨日も言ったんだが──千早には何度礼を言っても足りないな」
「え?」
何のことだろう、と首を傾げる間に、朔はまた歩き出していた。とはいえ強引に引っ張るようなことはなくて、優しい眼差しで千早を促し、見守ってくれる。
「俺は──さほどの力も持たない神は、人やあやかしのささやかな願いを叶えるので手いっぱいだ。それさえままならないことばかりだし、まして俺自身の願いを顧みる者はいなかった。考える余裕もなかった。だから……気付かせてくれて、ありがとう」
千早の手を握る朔のそれに力がこもって、また彼女を慌てさせた。整った眉が寄せられるのも、黒曜石の目がどこか手の届かない遠くを見る。その表情が少し怖くて、そして心配で。人間の小娘が、なんて思う暇もなく、急いで彼の傍に寄る。この方は支えてあげなければいけないんじゃないか、と思ったからだけど──でも、儚げに見えたのも一瞬のこと、朔の目は、しっかりと千早を捉えていてくれる。
「皆の居場所を守りたい──千早の願いは、俺のものでもあった。俺も、願って良かったんだな」
「そう……そうですよ」
とてつもなく綺麗な人──というか神様と見つめ合うことへの気恥ずかしさは、どこかへ消えた。それよりも何よりも、朔が同じ気持ちになってくれたことが嬉しかった。移り行く人の世を眺めて、ずっと不安げなもの言いだったのに、今はこんなに晴れやかな笑顔を見せてくれたのだから。繋いだ手に、もう片方の手も添えて、千早は朔の目を覗き込んだ。昂ぶる思いのままに、力強く宣言する。
「見世と、皆さんのためだもの。皆さんもきっと同じ願いで──だから、絶対に叶えましょうね!」
「ああ」
朔もまた大きく頷くと、空いていた手を千早のそれに重ねてくれた。両手を握り合う格好になったことに気付いて、千早の体温はいっそう上がったけれど、彼女が口をぱくぱくさせても手を暴れさせようとしても、朔はしばらくの間、解放してはくれなかった。
* * *
そんな中で、「その人」の姿はよく目立った。ぱりっとした袴姿に、風に遊ぶ艶やかな黒髪。白い額や頬の眩しさに、弧を描く唇が浮かべる、晴れやかな笑み。──そう、その人は笑っているのに。なぜか、千早は足を半歩、後ろに退いてしまった。その動きでかえって注意を惹いたのか、その人はいっそう笑みを深めると、こちらに向けて大きく手を振った。
「千早。来てくれたのね」
「寿々お嬢様……」
弾んだ声も、軽やかな足取りも、約束通りにまた会えて嬉しいからだと思えるはずだった。でも、寿々お嬢様の目だけが笑っていなくて、怖い。どこか思い詰めたようで、何かしらの強い気迫を奥底に秘めているようで。ふるりと震えた千早の背を、朔がそっと支えてくれた。
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