第3話 神様の願いごと

「わっちらもついて行っては……いけえせんよなあ?」


 切り火を切るための火打石を抱えた瑠璃るり珊瑚さんごが、千早ちはやを見上げて首を傾げた。例によって、ふたごの子猫の動作は一々鏡合わせのようにそろっていて、同じ角度に傾いた白と黒の三角耳が触りたくなるほど可愛らしい。可愛らしいのだけれど、その耳も、ふたりの背でひょいひょいと揺れる尻尾も、人ならざる存在であることを明らかに示すものだ。


「うーん、その耳と尻尾があると、目立っちゃうから……。姐さんたちみたいに、完全に人の姿になることはできないの?」


 白黒の耳が悲しげに垂れたので、言葉で聞くまでもなく、千早はふたりの答えを知った。


「未熟者ゆえできいせんのじゃ……」

「やはり、いけえせんか」


 顔を見合わせて溜息を吐くふたりが可哀想で可愛らしくて、千早は同じく出かける支度を整えたはじめを見上げる。昨日の書生風の出で立ちとは違って、今日はつむぎの着流しに羽織を重ねている。人の世に紛れるというよりは、楼主として見世のために行くのだ、という気持ちの表れなのかもしれない。


「人の世界に興味を持ったのか。珍しいな」


 千早よりも禿かむろたちをよく知るはずの朔にも、突然の申し出を不思議に思ったようだ。身をかがめて覗き込まれて、少し背伸びした瑠璃と珊瑚は代わる代わる楼主に訴える。


「昨日の千早からは、猫の匂いがいたしんした」

「前の見世では猫を飼っていたとも聞きいしたゆえ」


 言われて、千早も思い出す。目の前のふたりとはまた違う猫のことを。人の形をしていたりはしなくて、茶色と黒と白が混ざり合った毛皮の、お嬢様の少し太った愛猫の──


「若菜のこと? でも、お嬢様だって連れ回したりはしてないよ?」

「さようでありんすか……」

「若菜はお嬢様の猫だし、瑠璃と珊瑚のほうが可愛いよ」

「それは、間違いございいせんが」


 余所の猫が気になって妬いているのか、とも思ったけれど、頭を撫でてみてもふたりの反応は今ひとつ鈍い。もう一度朔のほうを窺って助けを求めると、彼も手を伸ばして黒と白の三角耳を代わる代わる掌で倒した。撫でられること事態は嬉しいのか、喉を鳴らす音が重なって響く。


「……今日は大事な用だ。落ち着いた後にまた会えるなら、その……猫とも遊んでもらう機会もあるのではないか?」


 朔の言葉は心もとなげで、本心からのものではないのだろうと聞こえた。彼は、寿々お嬢様のことをあまり信用してくれていないのだ。というか、もう二度と会えないかも、と言ったのはお嬢様本人だ。


(やっぱり、私とは会いたくないってことなの……?)


 千早の顔に憂いの翳が落ちたのを見て取ったのか、瑠璃と珊瑚が慌てたようにぴん、と尻尾を立てた。


「……あい、楼主様の仰せえす通りに」

「どうぞどうぞ、お気をつけてくださんし」


 ふたりの禿は可愛らしく笑うと、小さな手で火打石を打ち鳴らした。明るい中で一瞬だけ煌めいて消えた火花は、厄除けのための験担ぎだ。菖蒲の柄の着物と同様に、あやかしたちは千早の無事を願って送り出してくれているのだ。


      * * *


 昨日と同じ朱塗りの鳥居を、千早は昨日と同じく朔に手を引かれて潜った。若い男女の逢引のような格好の恥ずかしさ──でも、千早の胸が高鳴るのはときめきによってだけではない。寿々お嬢様と対峙することを思うと、一歩一歩が鉄の鎖を嵌められたように重かった。自然、歩みも遅れがちになって、朔と繋いだほうの腕が伸び切ってしまう。


「あの、ご、ごめんなさい」


 重りになってしまっていることを詫びながら、慌てて足を急がせる──と、苔むした石段に滑って視界がぐらりと揺れる。


(落ち──)


 痛みを覚悟してぎゅっと目を瞑る。でも、千早を受け止めたのは硬い石や地面ではなく、温かく柔らかいものだった。恐る恐る目蓋を持ち上げると、朔の端整な顔が間近に彼女を見下ろしている。


「大丈夫か?」

「は、はい……はい!?」


 社に休む鴉を驚かせる素っ頓狂な声が、自分のものだとは思いたくなかった。どくどくとなる心臓の音がうるさくて、朔に聞こえてはいないかと心配になるくらいだし、真っ赤になったであろう頬も、どっと流れる冷や汗が額に滲むのも、みっともなくて消え入りたい。なのに、朔はどこまでも丁寧に千早が自分の足で立つまで待ってくれた。


「上の空にはなっていないか? 気を付けるんだ」

「はい……ごめんなさい……」


 寿々お嬢様と話したいのは、千早の都合だ。朔なり四郎なりに会ってもらうほうが安全だっただろうに、今日も出向くのは彼女が気持ちの区切りをつけたかったから。なのにこの有り様では、朔は内心ではさぞ呆れているだろう。でも、俯く彼女の旋毛に降ってくるのは、穏やかな微笑の気配だけだった。


「昨日も言ったんだが──千早には何度礼を言っても足りないな」

「え?」


 何のことだろう、と首を傾げる間に、朔はまた歩き出していた。とはいえ強引に引っ張るようなことはなくて、優しい眼差しで千早を促し、見守ってくれる。


「俺は──さほどの力も持たない神は、人やあやかしのささやかな願いを叶えるので手いっぱいだ。それさえままならないことばかりだし、まして俺自身の願いを顧みる者はいなかった。考える余裕もなかった。だから……気付かせてくれて、ありがとう」


 千早の手を握る朔のそれに力がこもって、また彼女を慌てさせた。整った眉が寄せられるのも、黒曜石の目がどこか手の届かない遠くを見る。その表情が少し怖くて、そして心配で。人間の小娘が、なんて思う暇もなく、急いで彼の傍に寄る。この方は支えてあげなければいけないんじゃないか、と思ったからだけど──でも、儚げに見えたのも一瞬のこと、朔の目は、しっかりと千早を捉えていてくれる。


「皆の居場所を守りたい──千早の願いは、俺のものでもあった。俺も、願って良かったんだな」

「そう……そうですよ」


 とてつもなく綺麗な人──というか神様と見つめ合うことへの気恥ずかしさは、どこかへ消えた。それよりも何よりも、朔が同じ気持ちになってくれたことが嬉しかった。移り行く人の世を眺めて、ずっと不安げなもの言いだったのに、今はこんなに晴れやかな笑顔を見せてくれたのだから。繋いだ手に、もう片方の手も添えて、千早は朔の目を覗き込んだ。昂ぶる思いのままに、力強く宣言する。


「見世と、皆さんのためだもの。皆さんもきっと同じ願いで──だから、絶対に叶えましょうね!」

「ああ」


 朔もまた大きく頷くと、空いていた手を千早のそれに重ねてくれた。両手を握り合う格好になったことに気付いて、千早の体温はいっそう上がったけれど、彼女が口をぱくぱくさせても手を暴れさせようとしても、朔はしばらくの間、解放してはくれなかった。


      * * *


 両国橋りょうごくばしたもとには、時間通りに着いた。これもまた昨日と同じく、浅草参りか相撲見物か、隅田川の両岸を行き交う人波は賑やかで、しかもその表情は明るいものばかり。初夏の麗らかな時期だけに、目的はなくとも青空の下で爽やかな風を楽しもうとそぞろ歩きをしようという人も多いのだろう。


 そんな中で、「その人」の姿はよく目立った。ぱりっとした袴姿に、風に遊ぶ艶やかな黒髪。白い額や頬の眩しさに、弧を描く唇が浮かべる、晴れやかな笑み。──そう、その人は笑っているのに。なぜか、千早は足を半歩、後ろに退いてしまった。その動きでかえって注意を惹いたのか、その人はいっそう笑みを深めると、こちらに向けて大きく手を振った。


「千早。来てくれたのね」

「寿々お嬢様……」


 弾んだ声も、軽やかな足取りも、約束通りにまた会えて嬉しいからだと思えるはずだった。でも、寿々お嬢様の目だけが笑っていなくて、怖い。どこか思い詰めたようで、何かしらの強い気迫を奥底に秘めているようで。ふるりと震えた千早の背を、朔がそっと支えてくれた。

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