六章 人の願い 神の願い
第1話 今も昔も人の世は
最初に声を発したのは、
「わっちらの力を借りる、とは──いかにして? 何をさせようというのでありんしょう?」
おっとりと穏やかなようでいて、やっぱりこの姐さんは、怖い。くだらないことに巻き込もうとは言わせないぞ、という言外の圧力をひしひしと感じて、いつまでも畳の目を見つめていたい気分にもなってしまう。でも、その圧を跳ね返して、
(大丈夫。芝鶴姐さんは怒ってはいない……!)
怖いだけでなく優しい人──あやかしであることを、千早はもう分かっている。鋭い視線で彼女を見つめる葛葉花魁だって、そうだ。花魁の矜持からか、何ができるのか、だなんて真っ直ぐに尋ねたりはしないけれど、千早を案じてくれているのだ。その上で、花魁に相応しい役を、相応しい言葉で乞うのだと命じているのだろうと思う。この、とても綺麗なあやかしたちにしかできないような、華やかな役どころ──気に入ってもらえると、良いのだけれど。
「私は、子爵様の御家に入るつもりはありません。でも、言ったところで聞いてもらえないと思います。さっきみたいな人たちにずっとつきまとわれたら──
「それは、確かに」
稼業をもっとも心配する立場なのか、番頭の
「だから」
言いながら、千早は月虹楼のあやかしたちを見渡した。花蝶屋でふわふわと過ごしていたころの彼女がこの場に紛れ込んでいたら、悲鳴を上げていただろうか。瑠璃や珊瑚のように可愛らしいあやかしだけでなく、ろくろ首やひとつ目や鬼娘、明らかな異形の者もたくさんいるから。食べられてしまう、とでも思っていたかも。でも、今は違う。どんな姿かたちでも、千早は彼ら彼女らが大好きだった。家族で仲間──と、言うにはまだ図々しいかもしれないけれど。
(でも、そうなれたら良いな……)
それもまた、千早の心からの願いだった。朔に頼らなくても、自分の力で叶えたい。そのためには、求めたこともない肉親とやらとの縁は、きれいさっぱり断ち切らなくては。
「私、神隠しに遭おうと思うんです」
にこやかに晴れやかに、きっぱりと──千早は言い切った。
* * *
翌朝、月虹楼の暖簾を出てみると空は青く晴れていた。人の世の吉原はどうかは分からないけれど、千早の心を映したように、どこまでも曇りなくて広くて清々しい。
(うん、今日も元気……!)
店先をひと通り掃き清めて、千早は大きく伸びをした。ふつか続けてゆっくり寝させてもらったおかげで、身体も軽いし気分も爽快だ。
昨晩の月虹楼は、結局あの後、見世じまいになってしまった。千早の出自が知れて、今後の「計画」を話し合うので誰もが手いっぱいというか頭がいっぱいになってしまったのだ。すでに登楼していた客は早々に帰されたし、例のまやかしの術で新しい客も遠ざけられた、らしい。千早のせいで商売ができなくて、まことに申し訳ないことではあるのだけれど──でも、女たちも若い衆も、楼主の
「千早、早いの」
と、背中から声をかけられて、千早は小さく飛び跳ねた。朝の爽やかな空気には似合わない、しっとりと艶やかなその声の主は──
「芝鶴姐さんこそ……あ、あの、おはようございます!」
雑用とは無縁で、いつもなら昼過ぎまで夢の名残を愉しむはずの花魁が、朝の陽射しに手をかざしているのだ。まずは驚きの声が漏れた後、千早は慌てて頭を下げた。いついかなる時でも、礼儀をおろそかにして良いはずがない。幸い、芝鶴花魁は挨拶が遅いとは思わないくれたようだった。にこやかに気さくに、千早に話しかけてくれる。
「見世がないと久しぶりに目が覚めてのう。……うん、たまには陽の光も良いものじゃ」
「はい……姐さんは、いつ見てもとてもお綺麗で」
月虹楼の花魁が相手だと、お世辞なんて必要がなかった。口をついて出る誉め言葉は、すべて心からの本音になるから。重たげな
「ふふ、正直な娘でありんすなあ」
もちろん、長々と言葉にして語った訳ではなかったのだけれど。千早の目に宿る羨望と称賛に、芝鶴は気を良くしたようだった。流れる髪を軽くかき上げ、覗いた項の白さと細さで千早の息を止めさせてから、時刻に似合わぬ艶やかな人は、そっと目を伏せた。
「主には礼を言わねばなりいせん。こうして見世の外に出ようなどと思えたのは、二十年振りじゃ」
わずかな目線の違いは、花魁にとっては頭を下げるのに等しいことらしい、と。気付いて千早は慌てた。箒を取り落としかけて、あわあわとみっともない踊りのような動きをしてから──芝鶴の言葉に、引っかかるものがあるのに気付く。月虹楼は庭も広いから、あえて外に出なくても日々の暮らしには支障はない。まして芝鶴は御職の花魁で、禿にも若い衆にもかしずかれて、箸より重いものを持つ必要がないくらいだろう。でも、今の言い方は──
「……あの、姐さんも、今の人の世が──」
怖いんですか、だなんて聞けるはずがない。
「訳の分からぬことばかりと、思うておった。狸の、獣の身で見上げた江戸の街よりも、今の明治の東京は、どこもかしこも眩しくて目が潰れそうだと」
青空に輝く太陽を見上げて、芝鶴は細い眉を寄せていた。眩しく地上を照らすけれど、直に見つめれば目を痛める──あやかしたちは、今の世では炎天下に炙られて干乾びる思いなのかもしれない。
江戸の世はおろか、ご一新の騒動さえ知らない千早には、何もかける言葉が見つからなかったのだけれど。芝鶴は目を瞬かせると、にこりと艶やかに微笑んだ。
「したが、
そう──よくある話だと、千早も思ったのだ。お芝居だったら、あまりにもありきたりで、飽き飽きするようなもの。そんな話に振り回されたと知って、千早は奮起したようなものだった。芝鶴は、同じ話を聞いて吹っ切れた、ということなのだろうか。それ自体は、とても良いことだと思うけれど。
「そんな……私は、何も」
はにかんで首を振ろうとすると──芝鶴の目が、ふ、と真剣な色を帯びた。真剣というか、凄みというか鋭さというか。
「葛葉さんには口が裂けても漏らしてはなりいせんよ?」
「は、はい。絶対……!」
おっとりと優しげに見えた表情が、一瞬にして剣呑な「怖さ」を漂わせて千早を震えあがらせた。葛葉姐さんも怖いって言っていましたよ、だなんて言えるはずもなく、赤べこのように勢いよく何度も首を縦に振ると、芝鶴はまたふんわりと微笑んでくれた。十分に脅したと思ったのだろう。花から花へと飛び移る蝶のように、美しいあやかしは気まぐれに話題を変えた。
「その葛葉さんも、聞かぬお人だけれど、のう。里見様に聞くのが一番早いというに」
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