第5話 私にできること
「さて──」
月虹楼の内所は、先ほどと同じくあやかしであふれそうだった。登楼した客は、今宵に限ってはほったらかしにされているのではないかと思うほど、御職の花魁だけでなく、番頭の
「どうしたものかな」
涼やかなもの、艶やかなもの、鋭く縦に切れた瞳孔のものや、鏡のように表情が窺えないもの──あやかしたちの視線を浴びて、朔は困ったように首を傾げた。
「私は」
彼が言いそうなことを察して、千早は慌てて口を開いた。
「あの人たちについて行ったりはしません」
「千早。だが──」
苦笑を浮かべて言い淀んだ朔を見れば分かる。千早の予想は、たぶん的中していたのだ。
(華族のお嬢様になったほうが良いとか、きっとそんなことを……!)
でも、千早の言葉の常にない力強さに、慌てて呑み込んだのだろう。彼女の反応が意外だったのか、芝鶴もふんわりと首を傾げた。あれだけ客を呑ませておいて、酒の香りが少しも漂ってこないのが不思議なほど、花魁が纏く空気は清々しいままだった。
「女郎の娘が旗本家のご落胤、などと──歌舞伎の筋書きのようでありんすに。それこそ里見様が仰せえす
「いいえ!」
きっと、先ほどの一幕と同じだった。芝鶴は、思ってもいないことをあえて口にして、話を進める切っ掛けにしてくれている。その気遣いに感謝しながら、千早は身を乗り出して主張した。
「父親と言っても会ったことのない人で、お母さんに何もしてくれなかった人です。まして、殿様も奥方様も、私のことはお嫌いだと思います」
芝鶴だけでなく、朔のほうも。交互にきっと見つめて断言すると、濡れたような黒い目が気まずげに伏せられた。白皙の頬に濃く落ちる、長い睫毛の影にどきりとするけれど──今は、そんな場合ではない。千早は、畳に指をついて深々と頭を下げた。
「姐さんたちも、ありがとうございました」
その娘ならこの見世に、だなんて言わないでいてくれて。朔が思っているかもしれないように、血の繋がった「家族」のもとに行くのが幸せだとは、花魁たちは思わないでくれたのだ。
たっぷりと時間を置いてから頭を上げると、葛葉はふいとそっぽを向いていた。白い項と形の良い耳──禿たちと違って人間の形の──が赤く染まっているのは、もしかしたら照れているのかもしれない。葛葉の切れ長の目がきょろりと動いて、横目で朔を睨む。
「千早の意志を聞かぬで、頷けるはずもありいんせん。……あれで良い話などと思うたならば、楼主様も分からぬお人じゃ」
「葛葉までそういうのか。あながち人攫いとも言い切れないと思ったのだが……」
「金で娘の身柄をどうこうしようというのでありんすよ? 人攫いでござんしょう」
口元こそ微笑んでいるけれど、芝鶴も手厳しい。きっと、花魁たちは男たちの主張を間近に聞いたからだ。おだてて話を聞き出しながら、内心では眉を顰めていたのだろう。だから、千早の肩を持ってくれるのだ。
渋江家の動向を知れば、千早が花蝶屋を逃げ出した経緯の裏側も見えた。子爵家の人脈はさすがと言うべきで、母の足取りを辿るところまではできたらしいのだ。こういう風体の子連れの娼妓がいなかったか、形見の品にこういう家紋のものは──と、聞いた瞬間に花蝶屋の楼主は狂喜した、らしい。葛葉花魁たちとは違って、はい、確かにうちの娘です、とその場で断言したのだとか。
『我が子同然に大切に養育したとか申したそうだが、さてどうだか……!』
『謝金を釣り上げたいがための大言ではないのかと、殿さまもお疑いになっている』
あの男たちは、いかにも不満げに酒を呷っていた。実際に千早が引き渡されないのだから、まあ当然のことではある。
『あまつさえ、病気だから医者代だの薬代だのを無心されては、な』
『そこへ、御子はほかの見世にいるとの注進よ。ならば直接そちらに出向いたほうが早かろう』
話が里見に繋がって、葛葉の機嫌が傾いて、そうしてまたひやりとする場面もあったのだけれど。
(楼主様は、医者代といってもらったお金を私の懸賞金にした……里見様は、花蝶屋の内情を知って、私が月虹楼にいることを渋江様に密告した……)
悪い話ではないと言っていた里見は、嘘のつもりではなかったのだろう。華族の令嬢に収まれるのは願ってもない話だと、今の朔のように考えたのだ。そして、彼がそうした理由も明らかだ。「ご落胤」を探し出した謝礼はもちろんのこと、華族の御家に恩を売れるなど、人の世で商売をする者にとっては見逃すことのできない好機だったのだろう。
分かってしまえば、何も驚くような話ではない。そうなるのも道理の、当たり前の話ではある、けれど──
(私は、売り物じゃないわ……!)
だからといって、納得できるかどうかは話が別だ。膝の上で拳を握り、千早は朔に訴える。
「楼主様は、私の願いを叶えてくださると仰いましたよね!?」
「それは……そうだが。慎重に、冷静に考えたほうが良いのではないか?」
「ずっと考えていたことです。私に何ができるのか、何がしたいのか──」
千早の出自を知るその前から、ずっと。期せずして籠から出ることを許されて、不意に手中に転がり込んできた自由をどのように使うべきなのか。自身の無能も世間知らずも百も承知。朔に出会えた幸運を良いことに、我が儘を通すのは、行儀の良いことではないだろう。でも──真昼の吉原に放り出されて途方に暮れた時に決めたはずだ。もっと一生懸命に、自分の考えを持って生きるのだ、と。
「私は、この見世にいたい、です」
だから、はっきりと宣言する。震えそうになる声を叱咤して、ゆっくりと。朔の目を見つめながら。
「良くしてもらったからだけでは、なくて! そうしたいんです。私は、この見世がなくなってしまうのは、嫌だから──明治の御代にあやかしの居場所がないというなら、作りたい。そのために人間がいなくてはいけないなら、私がその役目を果たします。人とあやかしを結ぶにはどうしたら良いか──これからはそれを考えたいし、そのために頑張りたいと思いました。……思い、ます!」
言い切った後、しん、と沈黙が降りた。ただ、客を迎えた数少ない座敷から聞こえる三味線の音や笑い声だけが遠くに聞こえる。それに、千早自身の心臓の音が、耳元でどくどくとなってうるさいほど。
(え、偉そうじゃなかったかしら……偉そう、よね……?)
それぞれに美しく、不可思議な力を持ったあやかしのまえで、人間の小娘が大見得を切ったのだから。笑われるか窘められるか──眉を顰める者がいても当然だと、思ったのだけれど。
最初に彼女が認識した反応は、男の人の明るい軽やかな声だった。
「──これは、願ってもないことじゃないですか。ねえ、楼主様?」
「四郎」
馴れ馴れしい口調と態度でも叱られることがないのが、四郎の不思議なところだった。客に対しても、楼主に対しても。あやかしに言うのもおかしいけれど、これも人徳、なのだろうか。朔が眉を寄せただけで何も言わないのを良いことに、四郎は自分の顔を撫でる仕草で、目鼻や口をふき取って見せた。
「今の世の中、のっぺらぼうが食っていけるほど優しくないですからねえ。私としても月虹楼を畳むなんて言い出されては困るんですよ」
のっぺらぼうを見て驚いたり怖がったりするのは暗い夜道ならではのことで──確かに彼は、食いはぐれるのかもしれない。言われて不安に思ったのか、瑠璃と珊瑚も四郎の後ろからひょこりと頭を覗かせた。
「わっちらも追い出されたくはござんせん」
「野良猫ではありいせんもの、屋根のないところでは暮らせえせん」
ふたりの大きな目は涙に濡れて、いつもはぴんと立った耳も頼りなくふるふると震えている。まさしく捨てられた子猫のような哀れっぽい眼差しに、傍で見ている千早の胸は──可哀想だと思いつつ──ときめいてしまう。だって、とても可愛いから。
「何も、今日明日にも見世を畳むつもりも、追い出す訳もないんだが……」
子猫の懇願は、一も二もなくそんなことはしないから、と言ってあげたくなる健気さだった。朔も心を動かしたのだろうか。ふう、と溜息をついた後は、彼の表情もどこか覚悟を決めたようにさっぱりとしていた。
「俺は、願いを叶えるために在るものだ。人もあやかしも、祈りを寄せるものならば」
それはつまり、千早は月虹楼にいて良いし、見世も続けるということだ。千早と、あやかしたちの吐いた息が騒めいて、内所の空気を揺らす。
「千早が望むならばいつまででも隠すことはできるが──渋江子爵とやらが諦めるか世を去るまで待つか?」
「いえ……それでは、いつになるか分からないので」
渋江子爵は、たぶんもう高齢なのだろう。だから焦っている面もあるのかもしれない。でも、今日の騒ぎを思えば、何か月も何年も警戒を続ける訳にもいかない。月虹楼に、そんな迷惑をかけられない。それに、何より──
「子爵様に、はっきりとお断りしたいと思います」
千早のことなのだから、彼女自身が決着をつけるべきだろう。はた迷惑な祖父母に、ひと言言わなければ収まらない肚でもあるし。
「そのために、皆さんの力もお借りしたいです。どうか──お願いします」
もう、居候だからと遠慮をするようなことはしない。引け目を感じることなく月虹楼にいられるかどうかの、瀬戸際でもあるはず。面白がるような、問いかけるような──様々な形の目に、様々な表情を浮かべたあやかしたちに、千早は深々と頭を下げた。
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