四章 隅田川のほとりにて

第1話 好きいせん

 夜の闇の中ではじめを見ると、月が落ちてきた、と思ったものだった。では、着飾ったままの御職おしょくの花魁が同じ部屋にいると──太陽が間近に輝いていて畏れ多くて眩しすぎる、という感じだろうか。


 しかも、日ごろ高飛車な葛葉くずのはが、甘やかに微笑みかけてくれるているのだ。布団に押し込まれた千早ちはやの背中は、変な種類の汗で濡れていた。


「雪女の六花りっかに造らせたぞ。さあ、おあがりなんせ」


 ふわふわの氷に、黒蜜ときなこをかけた贅沢な品を、葛葉はひと口ずつ匙で千早の口元に運んでくれる。食べたいと思ってすぐに食べられるようなものではない、とても貴重なものなのは重々承知しているのだけれど──


(あ、味が分からない……!)


 せっかくの蜜の甘さも氷の冷たさも、十分に味わえないのが無念でならなかった。自室の布団に落ち着くまでにも、着替えて身体を拭いて、髪を梳いてと、葛葉は甲斐甲斐しく千早の世話を焼いてくれた。同族の里見の所業を気にしてくれてのことだというけれど、千早にしてみれば勝手に出かけた自分にこそ非があると思うのに。

 それでも、喉を滑り落ちる氷は千早の気力をいくらか回復させてくれた。恐縮したり謝ったりしても葛葉が聞かないことはもう分かっているから、間を持たせるために必死に話題を探して──


「里見……様は──洋装のあやかしも、いるんですね……この見世にいると、意外でした」


 見つけた話題が間違っていたのは、葛葉がはっきりと眉を顰めたのを見てからだった。里見が狐の尻尾を振って退散するのを見たからか、一瞬だけ、ぶわりと毛を逆立てる優美な金色の獣が見えたような。次のひと匙は少し多めに氷が乗っていて、しかも、やや乱暴に千早の口に突っ込まれた。


「『アレ』はのう、昔から新しもの好きだったから。わっちはほら、着物が着たい、髪を結いたいで人の町に降りたのだけれどねえ」


 氷の冷たさが、頭に刺さって千早は鋭い痛みに悶えた。彼女の頭上に、葛葉の溜息のような愚痴のような声が降って来る。


「米相場に金貸しに──ないところから金が湧き出るのが面白い、人は狐よりもよほど化かし上手だ、などと言うてなあ。かつては札差の真似事もしておりいしたなあ。で、御一新の後は西洋人相手に何やら商売をしているとか。それであの被れようという訳だの」


 札差──武家を相手の金貸しは、かつての吉原を代表する上客で、風流を好む通人が揃っていたと噂には聞く。


(あの人も、月代さかやきを剃っていたりしたのかしら……?)


 そのころだったら、里見と葛葉は似合いの夫婦のようでもあったのだろうか。だからこそ、里見の所業を他人事と切り捨てられないのだろうか。遠い御代に思いを馳せながら、千早はふたりの「狐」の言葉の矛盾に気付いてしまう。


「あの……お金には興味がないと言っていたんですけど」


 あやかしだから千早を売ることはないと言われて、それで丸めこまれたところもあったのに。それでは里見は、あんなにこやかな笑顔でさらりと嘘を吐いていたのだろうか。


 恐る恐る口を挟んでみると、葛葉は切れ長の目をまん丸く見開いた。そして、ふ、と口元を綻ばせる。大輪の牡丹や芍薬が花開くような艶やかな──でも、どこか苦々しさを堪えるような表情だった。


「何じゃ、ぬしもまんまと騙されたのう。生き馬の目を抜くとは、まったくアレのためにある言葉でありんすに。アレは油断ならなくて狡賢くて──怖いというに」

「怖い……姐さんが?」


 葛葉が里見を階段から蹴り落としたのは、つい昨日のことだ。啖呵を切って追い出していたし──何も恐れていないような、強気で美しくて堂々とした葛葉が、とても不思議なことを言う。


「アレは人のようになってしまったからの。人の世は目まぐるしく変わって訳が分からない。だからもう、好きいせん。変わってしまったアレも──」


 漏れ聞こえたやり取りによると、里見は葛葉に洋装を勧めて逆鱗に触れたということだった。


(葛葉姐さんなら洋装もきっと似合うのに……)


 人の世に憧れて月虹楼に来たというなら、お針の白糸や織衣と同じことのはずなのに。あのふたりなら、西洋の着物について何と言うのだろう。美しいあやかしの女たちの言うことも考えることも、人間の小娘には計り知れない。そして、葛葉は教えてくれるつもりはないようだった。千早の目には疑問が渦巻いているのだろうに、謗らぬ振りで傾国けいこくの笑みを浮かべるだけなのだから。


「酒ではのうて白湯ではあるが──ささ、一献。茶は、目が冴えてしまうからのう」

「あ……ありがとう、ございます」


 酌をするような優雅な所作で、葛葉は湯呑に白湯を注いでくれた。見た目には清酒と変わらないから、味も香りもしないことに少し頭が混乱してしまう。


「食べたいものがあるならくりやに取りに行きんしょう。……わっちを給仕に使うなど、またとない機会でありんすよ?」

「い、いえ! 大丈夫です……!」


 これ以上花魁の奉仕を受けてしまったら、かえって気を遣って倒れてしまいそうだ。激しく首を振ると、葛葉は掛け布団を引き上げて千早の身体を寝かせた。ぽんぽんと、布団の綿を均す手つきは子供を寝かしつけるときの優しいものだ。


「では、お休みなんせ。楼主様が話があるとおっせえしていたからの。明日には、いつも通りに起きねばなりいせん」

「はい。必ず!」


 今夜は、結局見世の仕事を何ひとつできていない。その分を取り戻すのだと意気込むと、葛葉満足そうに笑い──涼やかな目に、ちらりと凄みを浮かべた。


「良い子じゃ。……禿かむろどもにも手本を見せなんせ。菓子での口止めも隠し事も、わっちは二度は許しいせんよ」

「は、はい……」


 瑠璃るり珊瑚さんごを巻き込んだことについて、きっちりと釘を刺されたことになる。言葉に潜んだ静かな怒りも鋭い棘も怖かったけれど──でも、これでこそ葛葉だった。


(明日からは、また頑張ろう……)


 だから、千早はいっそ安心して目を閉じた。彼女の目蓋を、葛葉のひんやりとした指先が撫でる。これも狐の技なのか、疲れのゆえか、千早はすぐに泥のような眠りに落ちた。

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