第2話 馬子にも衣装

 目蓋の裏に朝の光を感じて、千早ちはやは目を覚ました。あやかしの世でも、人の世と同じように太陽が沈んでは昇り、夜の帳が降りては上がるのだ。


「ん……っ」


 布団の中で伸びをする。手足に痛みやだるさは、ない。夜見世を手伝うこともなくひと晩ゆっくり休ませてもらったからか、葛葉の介抱のお陰なのか。とにかく、昨晩の埋め合わせのつもりでしっかり働かないと。決意しながら千早が起き上がると──


「あ、おはよう、千早」

白糸しらいとさん、織衣おりえさん──おはよう、ございます……?」


 お針のふたりと、目が合った。光の差し具合からして、決して寝坊をした訳ではないはずなのに、ふたりとも眠気の欠片もなく端然と座っているから、なぜか申し訳なくなってしまう。


「えっと、今日は繕い物があるとか……? 衣替えは、したばかりですよね。いえ、何でも、何枚でも、やります……!」


 気を取り直して、意気込みを見せようとしたのだけれど。羽化したばかりの蝶のような、雫を煌めかせる雨上がりの蜘蛛の巣のような、清らな風情をまとったふたりは、くすくすと笑いながら首を振った。


「ありがとう。でも、違うのよ、千早」

「あたしたちねえ、昨日のうちにこれを仕立てていたの」


 白糸と織衣は、せえの、と声をかけ合うと、「何か」を摘まんだ手をそれぞれ掲げた。正座したふたりの間に畳んであったらしい着物だった。


「わ、素敵──」


 青紫の地に、白藤色の丸をずらして重ねた、七宝しっぽう模様尽くし。丸が重なり合って描く模様は、星にも花にも見える。この爽やかな色なら朝顔だろうか。白藤色の線はところどころ銀に煌めいているのは、白糸と織衣が、自らの紡ぐ糸で刺繍を施したのではないかと思う。


芝鶴しかく姐さんが着たら、きっとすごく艶っぽいわ……葛葉姐さんなら、思い切り派手な帯を合わせそう……)


 花魁の夜見世の装いには少し地味かもしれないけれど。夏の宵に、さらりと纏って庭に出るのも粋なのではないだろうか。とても仲睦まじい客とふたりきりで、酒杯を傾けるとか星を眺めるとか──広げたところを見ただけでもそんな空想がありありと浮かぶくらい、素敵な色と模様の素敵な着物だった。すぐに見蕩れてしまったから、どうして見せられたのかを疑問に思う暇もなかったのだけど──


「気に入ってくれて良かった」

「朝餉を終えたら着てちょうだい」

「丈は合っていると思うのだけど」

「やっぱり実際着ないとねえ」


 おっとりと微笑みながら頷き合う白糸と織衣のやり取りを聞いて、千早は慌てて布団の中から──まだ足を突っ込んだままになっていたので──飛び出した。布団の上、ふたりの前に正座して、あわあわと手を振り回す。


「これ──わ、私に……?」


 触れようにも、触れるのがもったいないと思ってしまう。生地は、絹に麻を混ぜたさらりとしたもので、花魁が纏う繻子しゅす綸子りんずに比べれば、それは安価なものではあるけれど──こんな真新しいぱりっとした着物なんて、千早は今まで着たことがない。

 信じられなくて、もったいなくて。絶句する千早に、ふたりはあくまでも微笑みを絶やさなかった。


「そうよ?」

「今日は楼主様とお出かけでしょう」

「いつもの格好ではねえ、月とすっぽんでしょう」

「化粧も髪もちゃんとしてあげるから、安心してね」


 しかも、さらに耳を疑うようなことを言われたような。いや、朔が月なら千早はすっぽん、どころかその辺の蟻とか羽虫だという点は、まったく異議がないのだけれど。


(私が、楼主様と? どうして? どこへ?)


 すっきりとした目覚めの爽やかさはどこへやら、混乱した千早には、とにかくもったいない、としか考えられなかった。この着物も、朔も、彼女には。


「こ、これは馬子にも衣裳、だと思います……!」


 子供の──それこそ瑠璃や珊瑚のように嫌々と首を振ると、ふう、と寂しげな溜息がふたつ、千早の胸にちくちくと刺さる。


「あら、あたしたちが夜なべした着物を着てくれないの?」

「若い娘が着たきり雀は、気の毒だと思ったのに」

「う、うぅ……」


 整った顔の女たちが、悲しげに目元を袂で抑えるのを見て、千早は言葉に詰まる。ふたりの腕前を知ってはいても、たとえ糸を操るあやかしでも、ひと晩で着物を仕立てるのは簡単なことではないだろう。とても素敵な着物だとは思うしとても惹かれるし──だからこそ、千早なんかに、とも思うのだけれど。でも、白糸の細い肩が震えるのを見ては意地を張ることもできなくて。


「あの……すみません。ありがとう、ございます……? えっと、よ、喜んで着させてもらえたら……嬉しい、です」


 と、言った瞬間に、白糸と織衣はぱっと顔を上げた。機械仕掛けのからくりのように、ぴたりと揃った動きだった。袂を下ろしたふたりの顔は──輝くばかりの笑顔だった。涙の翳りなど、ひと筋たりとも見えはしない。


「まあ、ほんと?」

「では、急いで顔を洗って。朝餉を食べて」


 その言葉を待っていた、と言わんばかりに、ふたりはうきうきと千早の手を取った。


(う、上手く乗せられたような……)


 座席に出ることはなくても、彼女たちも立派な妓楼の女だったらしい。


      * * *


「楼主様、お待たせしました。いつでも出発できます」

「いや、待つというほどのこともなかったが──」


 月虹楼の、内所にて。着替えを済ませた千早を見て、朔は目を細めた。ほんの少し表情を緩めるだけで、花が咲いたように辺りが華やいで良い香りが漂う気さえする──こんな綺麗な男の人がいるなんて、いまだに信じられなかった。


「白糸と織衣はさすがだな。よく似合っている」

「あ、ありがとうございます……」


 しかも、そんな人が千早を褒めてくれるなんて。例によって長火鉢を前に煙管を構える朔を前に、千早のお尻はむずむずと落ち着かない。馬子にも衣裳、とまたも口から飛び出しかけるけれど、謙遜をたしなめられたばかりとあって、どうにか呑み込むことに成功した。


 それに──確かに千早は今の自分の格好がとても気に入った。調子に乗っているとも言われかねないけれど、浮かれていた。


 お針のふたりが仕立ててくれた七宝尽くしの紫の小袖に、合わせる帯は可憐な薄紅色。可愛らしくも品がある色合わせだ。髪は、後ろに纏めておさげに編んでから折り曲げてリボンで留める「まがれいと」にしてもらった。リボンは帯と同じ薄紅のを、二か所に結んで。


(可愛くて綺麗で……ドキドキする!)


 花蝶かちょう屋でも髪の結い方や化粧の手ほどきを受けることはあったけれど、あくまでもいつか見世に出る時のため、だった。こんな風に普通の──それどころか良家のお嬢さんのように着飾らせてもらったことはない。まるで、まったく違う「自分」になれたようで嬉しくて、心が弾むままに、朔にも気後れせずに話しかけることができそうだった。


「あの、今日はどこに行くんですか? 私は、何をすれば良いんでしょう?」


 朔と並ぶと月とすっぽんだ、という思いは変わらない。でも、すっぽんはすっぽんでも格好は綺麗なのだから、いつもより堂々としていても良いのではないか、とも思う。


(荷物持ちでも、草履取りでも、あやかしが相手でも、どれだけ歩くのでも大丈夫……!)


 朔と似合いに、なんて始めから思ってもいないのだから。何が何だか分からないけれど、月虹楼での仕事の一環で、思わぬ役得がもらえただけだと思う。ならば、誠心誠意、役目を果たさなければならない。でも、意気込む千早に、朔は笑って首を振った。


「俺にもまだ分からない。どこに行くかは、千早に聞こうと思っていた」

「え……?」


 顔ばかりに意識が向いて気付かなかったけれど──改めて見ると、そういえば朔の装いも普段とは違う。古風な妓楼に似合う、質も品も良い羽織姿ではなくて。丸襟の洋襦袢シャツに着物を重ねて、下には袴を穿いているようだ。妓楼の主には不似合いな──書生か学生か、といった出で立ちだった。もちろん、こんなに綺麗で色香漂う書生がそうそういるはずもないのだけれど。


(この格好で、どこに行くのかしら……?)


 謎めいたもの言いと見慣れぬ姿はどういうことか、と。千早が首を傾げていると、朔は微笑に悪戯っぽい表情を滲ませて、答えを教えてくれた。


寿々すず、と言ったか。花蝶屋の娘に会いに行こうと思った。千早を逃がしてくれたというし、事情を聞けば教えてくれるのではないか?」

「あ──会えるんですか、お嬢様に……!?」


 昨夜、里見に騙されたのも、寿々お嬢様の様子を確かめたいと思ったからこそ、だった。ひと晩明けても、その思いは変わっていない。でも、叶わないだろうと諦め始めてもいた。あやかしにさえ噂が広まっているなら、迂闊に歩くことはできないだろうから、と。


(あ──だからこの格好? 逃げた娼妓見習いじゃなくて、どこかのお嬢さんに見えるように……?)


 身寄りのない小娘が、何週間も姿を消していたら。身を持ち崩したり、飢えて汚れたりしているものだと普通は考えるのだろう。書生風の男もついていたら、素知らぬ顔で堂々と歩いていたら──期待と不安に、千早の鼓動が速まり、頬に血が上って熱くなる。朔の前で顔が赤くなっていたら恥ずかしい、と思うけれど止められない。千早の顔色なんてどうでも良いのか、朔の優しく穏やかな表情は、変わらなかったけれど。


「里見を出入り禁止にしてしまったからな。聞くことができる、会える相手というとほかにいないだろう。とはいえ花蝶屋に出向く訳にもいかないから──」

「じゃあ、女学校の帰り、ですね! 吉原に入る前にお嬢様を見つけて、話せたら……!」


 自分の視野の狭さにまたも赤面しながら、それでも千早の声は弾む。そうだ、寿々お嬢様に会うのに必ずしも花蝶屋に行く必要はない。娼妓たちと違って、お嬢様は籠の鳥ではないのだから。毎日同じ時間、同じ道で学校に通っているのだから、吉原の者に気付かれずに会うことだって十分可能だろう。


「そうなるな。その娘がどこに通っているかは、分かるか?」


 朔に促されて、千早は懸命に記憶を探った。歳が近いだけに、寿々お嬢様とは雑談を交わした機会も多かった。雨の日や雪の日は通学を面倒がることもあったし、春は桜並木があるとも言っていたような。学校の所在は──たとえ聞いていても、千早には見当がつかないのだけれど。


「……すみません、詳しくは──えっと、神田の学校で、隅田川沿いに歩いていくって、言っていたと思います」


 このていどの頼りない情報で、分かるものだろうか。申し訳なく思いつつ朔の顔を伺うと、けれど彼はしっかりと頷いた。


「では、両国橋の辺りで待ってみるか。吉原からも学校からも、近すぎないほうが良いだろうから」


 千早を狙う者に見つかってはならないし、お嬢様のほうだって、おかしな噂の種にはなりたくないだろう。両国橋がどこにあるかは分からないながら、もっともな配慮だった。


「はい。……でも、どうやって吉原を出るんでしょうか。昼間だから、人は少ないかもしれないですけど……」


 吉原の外に出る、と考えるだけでもさらに胸が浮き立つけれど、まだまだ心配ごとは尽きなかった。千早は上手く変装できたかもしれないけれど、花蝶屋の熱の入った探し方からして、人相書きくらい出回っていそうだった。


「何を言っている。吉原を通って出かける必要はない」

 

不安に目を伏せる千早を余所に、朔の笑みが陰ることはなかった。


「あやかしの世と人の世の繋がり方は一定ではない。──その辺りも、そろそろ話しておいたほうが良いだろう」


 またも謎めいた言葉を口にして、涼やかな眼差しで千早の言葉を失わせて、朔は立ち上がった。

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