第5話 帰ってきた

 はじめに握られた手が、じんわりと熱かった。掌が汗で濡れているのが申し訳なくて恥ずかしくて、千早ちはやは彼の一歩後ろを歩いている。吉原の喧騒はもはや遠く、夜の帳の向こうに消えた。ふたりはもはや、人の世を離れてあやかしの世に──戻っている。風が草葉を揺らす音と、微かな虫の音のほかにはふたり分の足音が響くだけ。その静けさも居たたまれなくて、千早は問われる前から言い訳がましく口を開いた。


寿々すずお嬢様──前にいた見世のお嬢様が、心配してるって言われたんです。お嬢様は私を逃がしてくれたから、怒られたりしていないかって……お礼も言いたかったし……」

「里見はあの通り狐が本性だから。獣の姿なら花蝶かちょう屋の庭先に忍び込むことも容易いだろう。家人の話を盗み聞いて一計を講じた、というところじゃないかな」

「……そうだったんですね……」


 ちらりと振り向いた朔の口元は微笑んでいて、千早を責める気配はない。でも、馬鹿な真似をしたことは、彼女が一番よく分かっている。朔や四郎に相談していたら、最初から分かっていたことだったのだ。


「勝手なことをして──」

「客に注意するとしたら、喰われるとか化かされるとか、そういう方向でしか考えていなかった。人の世に通じるあやかしもいると、知っていたのにな。配慮が足りなかったのは、こちらの落ち度でもある」


 謝罪の言葉を遮られて、千早は目を見開いた。


「どうして、そんなに……?」


 優しくしてくれるんですか、と。これもまた、自ら言うには図々しい気がして口ごもってしまう。でも、朔は言葉にならない思いを聞き取ってくれたようだった。


「千早は俺を頼ってくれただろう。人の願いはとても久しぶりだったから、張り切ってしまう」

「頼る……願う……?」


 それは、一番最初に月虹げっこう楼に飛び込んだ時のことだろうか。花蝶屋の若い衆に追われていた、あの時の千早は確かに必死で──何に、誰に祈っただろうか。


(神様、仏様……?)


 心に念じたことを完全に思い出す前に、朔は軽く千早の手を引っ張った。空いている方の手で、前方を示す。そこには、温かく心強い灯りが煌々と点っていた。


「ああ、着いたぞ」


 月虹楼の灯りだった。吉原の裏路地で言われた通り、「帰って」来たのだ。ここは、今の千早の家なのだ。

 安堵の息を吐いた千早の耳に、ぱたぱたという軽い足音が迫った。


「千早、千早ぁ!」

「よく戻りんしたなあ」


 瑠璃るりは青、珊瑚さんごは桃色、それぞれの名の振袖の袖を翻して、子猫の禿たちが飛びついてきたのだ。可愛らしい顔が、どういう訳か涙に汚れてぐしゃぐしゃになっている。


「ど、どうしたの……?」

葛葉くずのは姐さんに叱られえした」

「外に、千早と里見さとみ様の匂いが残っていたから」


 朔と繋いだ手を放してふたりを抱き留めると、大きな目に涙を浮かべて、鼻をすんすんと鳴らしながら交互に訴えてくる。


「千早の姿が見えぬと騒ぎになって、隠し切れぬで」

「ああ、でも、隠せなくて良かったやもだけど」

「でもでも、そもそもわっちらが止めていれば」

「すまぬなあ、千早ぁ」


 左右から聞こえる切れ切れの情報を繋ぎ合わせて、何があったかはだいたい想像がついた。幼い禿たちでは、千早の不在を誤魔化しきることができなかったのだろう。子供たちに隠し事をさせた、これも彼女の迂闊さで勝手さだった。瑠璃と珊瑚が気に病むことではないと、抱き締めることで伝えながら、千早は分からないところを埋めようとする。


「えっと……葛葉姐さんが、なんで?」


 月虹楼の御職の花魁は、とても綺麗で、とても怖い。それはこの短い間でもよく分かっていることだ。


(私のせいで、怒られたの……?)


 早く謝らなければ、執り成さなければと思うのに、禿たちがしっかりとしがみついてくるから身動きが取れそうにない。瑠璃と珊瑚は、千早の着物で涙と鼻水を拭いているような有り様で、言葉も意味をなさなくなりつつある。


「月虹楼でかどわかしなど前代未聞。しかもそれをしたのがわっちの客だったなど、御職の花魁の立つ瀬がありいせん」


 だから、教えてくれたのは凛と通る女の声だった。千早がはっと顔を上げると、葛葉花魁が暖簾を掲げた格好で佇んでいる。高く立兵庫に結った髪やかんざしこうがいが引っかからないように軽く頭を下げて、首を傾けて──そんなさりげない一瞬を切り抜いても、美女はそれだけでも実に絵になる。眉を寄せる姿は西施せいしさながらに憂いを帯びて色香を帯びている。


「──葛葉姐さん、あの」


 見蕩れて言葉を失うこと数秒、千早がようやく口を動かすことを思い出した。でも、ごめんなさい、はまたも言わせてもらえない。


「楼主様が間に合うて、良かった」


 葛葉は早口に囁くと、大股に千早のほうへと歩いてきた。花魁なら三枚歯の高下駄を履くものだろうに、屋内用の草履を突っかけただけの姿だ。朔と同じく、この人も千早を心配して待っていてくれたのだ。不意に気付いて、千早の目と胸の奥が熱くなった。


 葛葉は、千早に抱き着く瑠璃と珊瑚を、ひとりずつ襟首を掴んで引き離した。吊り上がった切れ長の目が、きっと千早を睨む──ううん、見つめる。


「追い出したとはいえ、里見はわっちの客で同胞だもの。わっちにも狐火が使えれば、焼き殺してやったのに……!」

「そ、そこまでしなくて良いです……!」


 葛葉に抱き締められると、椿油と何かの香の香りが千早の鼻をくすぐった。上客しか味わえない花魁の香りだ、と思うと女ながらどきりとしてしまう。それと──あやかしだからなのか夢中だからなのか、葛葉はとても力が強くて苦しかった。身体の前で結んだ緞子の帯が、千早のお腹に刺さるのも、痛い。


 口をぱくぱくさせる千早を助けてくれたのは、朔だった。


「葛葉、千早を休ませておやり。怪我はないが、疲れただろうから」

「ああ、わっちとしたことが──あい。ささ、千早、早うお入り。わっちが介抱してやりんしょう」


 苦笑する楼主に促されて、葛葉は千早の手を取った。花魁だけあって、甲をなぞって指を絡める仕草がまた色っぽくて心臓に悪い。それに、今、何て言っただろう。


「え──座敷を放っちゃ駄目ですよ……!?」

「なんの、それくらいせねば申し訳が立ちいせん。今宵のわっちは主の貸し切りじゃ」


 顔を覗き込まれて蕩けるような声と眼差しで微笑まれると、もう何も言えなかった。確かに千早は疲れていた。心も、身体も。贅沢なことだとは思うけれど、柔らかい布団が恋しくてしかたない。


「見世のことは気にしないで良い。うちは借金を負わせて働かせている訳でもないし」

「あ、ありがとうございます……!」


 楼主直々の寛大な言葉に甘えて、葛葉に腰を抱かれるようにして、千早は月虹楼の暖簾を潜った。出かけてから戻るまでに南刻も経っていないだろうに、束稲の紋を見るとひどくほっとした。


「おや、千早、帰ったのかい」

「無事で良かった」


 見世先でのひと騒ぎを聞きつけたのか、遊女や若い衆も笑いかけてくれるのが嬉しかった。入ったばかりの人間の小娘を、受け入れて気にかけてくれるなんて。


「ゆっくり話もしたいから、そのためにも休んで欲しいな」

「はい……」


 この見世はとても優しくて温かい。だから、朔の話というのが注意や叱責だったとしても甘んじて受けようと、思ったのだけれど──


「里見はあやかしらしくなく目端が利くんだ……娘ひとり売り飛ばすくらいの金で動くとも思えないのだが。何があるのだろうな……?」

「…………」


 彼が独り言のように呟いたのは、千早には答えようがなく、しかも改めて言われるともっともな疑問だった。


(懸賞金もかけられている、って……私はそんなに『高く』売れるの……?)


 月虹楼に帰った安堵も束の間、千早の胸に不安という名の暗雲が広がっていた。

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