第4話 闇に消える尻尾
まさか、と思った。助けて欲しいなんて、願ってはいけないと思ったばかりだったのに。見世の者だなんて、迷い込んだ人間の娘を、そう呼んでくれるなんて。あやかしの遊郭の楼主である、とても綺麗なあの人が。
「ああ……お早いお出ましで」
(怒られる……!?)
勝手に見世を抜け出したから。仕事を怠けて、挙句の果てに攫われて、楼主の手を煩わせることになったから。千早が今まで生きてきた世界はそういう理屈で動いていた。花蝶屋の楼主の怒りで赤く染まった顔や、振り上げられた手が見える気がして、思わずぎゅっと目を瞑るけれど──
「お宅様の見世の者に手を出したりはしませんよ。
里見の声は悪びれず、飄々としたものだ。千早を捕らえる手は油断せず力強く、背中に感じる彼の身体は緊張で強張ってはいるようだけど。まんまと騙された身で言うのもなんだけれど、人攫いの癖によくもまあこんなに堂々としていられるものだ。朔も同じように感じたのだろうか、低く小さく、唸るような声が聞こえた。
「だが、俺に祈って俺が守ると決めた。見世にとっても必要な存在だ」
「え──」
この上なく不機嫌そうでもこの上なく綺麗な声は、信じられない言葉を紡いだ。目を見開いた千早の視界に映るのは、抜き身の刃の鋭さを湛えた切れ長の目。でも、朔が睨んでいるのは千早ではない。彼の怒りは、里見に向いている、のだろうか。狐のあやかしは、なおも不敵に忍び笑いを漏らしながら、それでもじり、と重心を後ろに傾けたようだった。軽口も、先ほどよりは焦りが滲んでいるような。
「見世、ね……。時代遅れのモノをいつまでも後生大事に──おっとぉ」
里見が小さく叫んだのは、一瞬だけ、辺りを真昼の明るさが包んだからだ。光の源は、虚空から現われた炎。太陽が地上に降りて来たかのような熱と光が、千早の目を焼き頬を焦がす。里見が飛び跳ねなかったら、たぶん、彼の髪や洋套も燃えていたのだろう。抱えられたままの千早の視界は激しく揺れて、火の粉が眩い蛍のように闇の中に軌跡を描く。目を瞬かせていると、里見は千早を荷物のように投げ出した。
「きゃ……っ」
痛みに身体を丸めたところに、里見の捨て台詞が降って来る。
「しがない狐じゃあお宅様には叶いませんからね、今日は退散いたしますよ。その娘の居場所が
また、辺りが明るく熱くなった。地べたに転がる千早の目の前にも、火花が散る。里見の放言に、朔がお灸を据えたらしい。不思議なことが起きているのに当たり前のようにそう理解している自分に気付いて、千早は愕然とする。
とにかく──先ほどちらりと見えた眼差しだけでなく、朔の声も冷え冷えとして鋭かった。
「出直したところで同じことだ。お前の登楼は二度と許さない」
「でしょうねえ。まあ、良いですよ。葛葉はいずれ返してもらいますからね」
里見の声がやけに低いところから聞こえたので首を捻ると、ふさふさとした金色の尻尾が路地の隙間に消えていくのが見えた。瑠璃や珊瑚のそれとも違う、お嬢様の晴れ着に合わせるような──狐の、尻尾。
(尻尾……本当に、狐なんだ……)
本性を現して逃げたのだとしたら、彼が来ていた帽子や洋服はどこに消えたのだろう。昔話のように、葉っぱを変化させて纏っていたとか? でも、布地の感触がしっかりとしたのに? 埒もないことを考えながら、あちこちが痛み軋むのを感じながら起き上がろうとすると──不意に、千早の身体がしっかりと支えられた。
「大丈夫か?」
朔だ。里見を睨めつけていたのが嘘のように、もう優しい顔をしているのに驚く。少し眉を寄せているけれど、それは心配のためだと分かった。
「は、はい。あの……ご、ごめんなさい……」
彼は、着流しだけの姿だった。内所で寛いでいたところを駆けつけたのだろう。例によって上質な紬の生地が、無造作に膝をつくから砂に塗れてしまっている。空の月を、地に落としてしまったような気がして、居たたまれなさに千早は俯く──と、彼女の視界に白い手が差し伸べられた。
「さて、帰ろうか」
「帰る……?」
どこに? と、戸惑う想いが滲んだのを聞き取ってくれたのだろう。朔はこともなげに答えた。
「月虹楼に。皆、心配している」
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