第3話 月が沈むころ
「甘いのう」
「美味じゃのう」
ふた粒ずつを瑠璃と珊瑚に分けると、ひと粒を口に入れ、もうひと粒を胸に抱えて畳の上でころんころんと転がっている。またたびを嗅いだ本物の猫もかくや、の蕩けようだった。着付けや髷が崩れないかひやひやさせられるけれど、悶えるほどの美味しさなのは、
「少しだけ、外すけど──あの、ほかの人たちには黙っていてね?」
もらいもの菓子で口止めするのは、いかがなものだろう。というか、そもそもこのふたりに後を任せて大丈夫なものかどうか──はなはだ、心元ないのだけれど。でも、千早にはほかの手段を思いつくことができなかった。
「『きゃらめる』の恩じゃ。いたし方ないの」
「姐さんがたにはわっちらが上手く言うてやろう!」
「ありがとう……ごめんなさい。すぐに戻るから」
千早は、
(あの人は
(あやかしの人なら大丈夫、なのよね……? たぶん……)
里見は洋装だったし、近ごろの人の世にも慣れていそうだった。もしかすると、世間知らずの千早よりも、ずっと。
(まずは帰れるかどうかを確かめてからよ。帰りも送ってもらえると言ってくれなきゃついて行ったりしないんだから)
自分に言い聞かせながら、千早はできるだけそっと、月虹楼の暖簾をくぐって外に出た。今日の夜は、満月から何日か過ぎて少し痩せた
毎夜の宴の喧騒を背に、月虹楼の暖簾をくぐって外に出ると、急に闇と沈黙に包まれた気分になった。吉原を歩く人もあやかしも、今宵の
(あの人は……?)
心細い思いで千早がきょろきょろとしていると、ふいに、闇の一角から人の姿が浮かび上がった。糸のように細く笑った目、裂けたように笑う口──里見だ。
「やあ、こんばんは。来てくれたんだね」
彼は今宵も洋装だった。細かな格子柄の上下に、昨日と同じらしい黒の洋套と山高帽。手にはステッキまで持って、足もとには磨かれた革靴が月の光に煌めいている。たぶん、洒落者なのだろう。吉原よりも、横浜あたりの居留地を闊歩しているほうが似合いそうな。
「さあ、行こうか」
挨拶もそこそこに、里見はステッキを持っていないほうの手で千早の手を取った。つられて踏み出しかけた足を必死に踏ん張って、千早は用意していたことを訴える。
「あ、あの……っ。私は、お嬢様にご挨拶したいだけで──ここに、また戻れるんです、よね……?」
「もちろんだとも。ずいぶん急に逃げ出したようじゃないか? 色々心残りもあったろうねえ」
同情するように眉を下げながら、里見は大股で歩き出している。手はもちろん千早から離していないから、否応なく、一歩、二歩と月虹楼から遠ざかってしまう。
「はい……そう、なんですけど」
如才ない語り口に、どうにも良いように転がされている気がしてならなかった。でも、にこやかな笑顔を向けてくる相手に、これ以上どう食い下がれば良いか分からない。会ってたったの二度目だし、隙のない洋装は何だか怖いし。
「私は月虹楼の馴染みなんだよ。葛葉ともご楼主とも古い付き合いでねえ。道に迷ったりしないから──おいで」
「……はい」
渋々と頷いて、千早は里見に手を引かれたまま、歩き出した。全身の神経を尖らせながらの深夜の道行きだったけれど──やがて、辺りの情景にも変化が現れた。
「あ、
夜空を切り取る漆黒の巨塔の影は、現世のものに間違いなかった。思わず呟くと、里見が振り返って、笑う。
「ほら、見慣れた場所だろう。花蝶屋もすぐそこだ」
確かに、千早は今や人の世の吉原にいた。四方から三味線の音や唄声や怒鳴り声、千早が聞いたことがない
でも──千早は、ぴたりと足を止めた。里見は、彼女の手を引いて大股に歩き続けていたから、腕がぴんと張って、痛いけれど。身体を斜めにして足を踏ん張って、これ以上動くことを、拒む。
「……違う。花蝶屋の方向じゃない」
「君の知らない裏道かな。もともと籠の鳥の身の上だろう」
里見の口調は、まだ優しげなものだった。でも、声と表情には明らかに苛立ちが滲んでいる。
(馬鹿にしているんだわ。何も知らないと思って……!)
世間知らずの籠の鳥でも、あるいはだからこそ。籠の中のことなら自分の手足の
(ここから花蝶屋に行くには、仲の町通りを横切らなければならないでしょう……!?)
なのに、里見は、明るさから遠ざかるほうに千早を引っ張っていた。
「絶対違います。どこに行こうとしているの!?」
声も手足も震えそうになるのを堪えて、精いっぱい、里見を睨む。お嬢様の名前に釣られてのこのこと出てきた自分の馬鹿さ加減に泣きたくなるけど。
(助けて、って……願ったら、また来てくれる……?)
駄目だ。居候に毛が生えたていどの雑用の分際で、楼主に助けてもらおうだなんて。
(獣……!?)
あやかしの本性を垣間見て千早が怯んだ隙に、里見は半人半獣の手で彼女の腕を強く掴んだ。鋭い爪が着物を貫き、皮膚に刺さる痛みに悲鳴を──上げることはできなかった。毛だらけの手が、千早の口を塞いだから。
「良いから来いよ。声を上げるか? 人が来て困るのはあんたのほうだろう?」
千早を間近に見下ろすぎらぎらとした目は、金色。瞳孔は、猫のように縦に裂けている。弧を描く口元からは牙が覗いていて。言葉以上に雄弁に、黙れと脅してくる。
「そん、な──」
「あんたにとっても悪い話じゃないんだ。いずれ俺に感謝する」
言い捨てて歩き始めた里見の横顔は、人間の紳士に戻っていた。でも、きっと手は獣の鉤爪を残したままなのだろう。千早の腕にがっちりと食い込んだ彼の指は枷のようで、振り払えそうにない。声を上げるのも、できない。里見も怖いし、人が来たところで千早を売ろうとする者しかいないだろうから。
闇の中に引きずられていくしかないのだと、千早の心も昏い淵に沈みかけていた。明るさに背を向けているからだけでなく、目の前が真っ暗になるような。
底の知れない闇の中に、ちらりと銀色の光が煌めいた、気がした。本当のところ、それは目ではなく耳で感じた光明だったのだけれど。銀の鈴を振るような、新雪を花と散らせる風のような、涼やかな声が、千早の背中から聞こえたのだ。
「──見世の者を
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