第2話 窮鳥、懐に入る?

 切火きりびの音ならぬ鐘の音が耳に届いて、千早は、はっと我に返った。


 眠る吉原の町を起こすような高らかな鐘の音は、角海老かどえび楼の機械時計が時を告げているのだ。吉原屈指の大見世が、三階建ての壮麗な建物に据え付けた、ご自慢の西洋式の時計。これもまた、吉原育ちの千早にとっては耳慣れた調べだ。花蝶屋の中で聞くなら時刻を知らせてくれるだけの音だけど、今はまた違った響きで彼女を追い立てる。見世を抜け出してから、何も意味がある行動を取れていないと思い知らされるようで、焦りが募った。


(止まっていてもどうにもならない……どこかへ、行かないと)


 裏通りに入って大門を目指す千早の耳に、寿々お嬢様に言い聞かされた言葉が蘇る。


「大門を出たら、鉄道馬車に乗るのよ。新橋でも上野でも品川でも──とにかく、吉原から離れるの」


 大門を出ること自体は不可能ではない、と思う。徳川の御代の時のように、大門に番所があって同心が詰めている、ということはもうない。入り鉄砲に出女よろしく厳しく見張られて、特別に渡される切手がなければ女は出入りできないなんてことは、明治の御代ではもうないのだ。千早の髪型は素人臭い束髪で、まだ娼妓ではないことは傍目には明らかだろうから。ちゃんと用事があるんです、という顔で堂々と出て行けば、居並ぶ茶屋や芸者置屋の者に通報されることもないかもしれない。


 鉄道馬車、というものがあるのも知っている。線路に載せた車両を馬に曳かせるもので、蹴られそうになったとか馬糞を踏んだとかは座敷でも話の種だから。姐さんたちや遣り手のおばさんに連れられての浅草寺参りの時に見かけたから、浅草のどこかで乗れるらしいということも。浅草は──吉原からそう遠くない。顔を上げれば、壮麗な凌雲閣りょううんかくが、その名の通り雲を突き抜けてそびえている。十二階建ての物見の塔を目印にすれば、不慣れな千早ひとりでも迷うことはないだろう。


 でも、その後は?


 千早は、鉄道馬車の乗り方を知らない。切符は幾らなのか。どの駅で降りればどこへ行けるのか。新橋だの品川だのの地名について知っていることといえば、そこにも花街があるということくらい。千早の知識は、吉原のお歯黒どぶの内側のこと以外は、もっぱら客と姐さんたちの噂やまた聞きから得たことに限られる。


(私……今まで何をして生きてきたんだろう)


 彼女には、何もない。吉原の外で生き抜く知恵も、何になりたい、どうしたいという願いも。そうと気付いて、千早の足が止まってしまう。

 花蝶かちょう屋に戻れば、という考えまで頭を過ぎる。折檻はされるだろうし数日は食事抜きかもしれないけれど、帰る場所は失わずに済む、だろうか。


(ううん……駄目!)


 楼主は千早をどこかへ売り飛ばすつもりなのだ。一度逃げたことで、よりひどいところに売られるかも。何より、寿々お嬢様の手引きを無駄にはできない。

 たとえ最後は捕まるとしても、足掻くのだ。


「……行かなきゃ」


 決意を声に出した瞬間だった。荒々しい男の足音が幾つか、長屋を幾つか隔てたあたりから聞こえて来た。それに、声高な話し声が。


「花蝶さんじゃないか。どうしたんだい、慌てて」

「いや、下新したしんの姿が見えなくてね。ちょっと散歩くらいなら目くじら立てることもないんだが……」

「ああ、借りも返さず逃げられたんじゃ堪らねえよなあ」

「だろう。育ててやったのが丸損だ」


 こぼれそうになった悲鳴を、千早は掌を噛んでどうにか呑み込んだ。見世の者が、もう探しに出向いているのだ。話し相手は、別の妓楼の者か、芸者置屋の者か──いずれにしても、千早を庇ってくれる気配は、ない。当然だ。娼妓は牛馬同然の「商品」で、家畜が逃げたなら探して持ち主に返してやるのが道理というものだ。


「どんな娘だい。探してやるよ」

「背丈はこれくらい。着物は、たぶん──」


 すべてを聞いていることなんてできなくて、千早はよろめいた。じゃり、と草履が滑る音を聞いて、辛うじて踏みとどまる。さらに気力を集めて、足を踏み出す。


「嫌──」


 目立つかどうか、大門を通れるかどうかなんて、考える余裕もなく、彼女は駆け出していた。

 そもそも立ち止まって思い悩んでいる暇なんてなかったのだ。何となくぼんやりと生きてきた癖に、先の希望も楽しみもない癖に、捕まって連れ戻されるのだけは嫌だった。


(神様、仏様……!)


 ろくに祈ったこともない神仏に、必死に助けを請い、願う。これからはもっと一生懸命生きますから。一日一日、一瞬一瞬をもっと大事にしますから。だから、その機会を与えてください。訳の分からないままに籠から出されて、そしてすぐにまた捕まるなんて、ひどい仕打ちはやめてください。


「お、あいつか!?」

「大門に人をやれ! 通すなよ!」


 でも、吉原で女の願いを叶える神も仏もきっといないのだ。浅草寺はあんなに近くにあって、あまたの人の信仰を集めているというのに、ここでは女は泣いてばかりなのだから。


(でも……それでも──)


「待て、こいつ……!」


 背後に、男の重く荒っぽい足音と息遣いが迫る。股引姿の男たちのほうが、千早よりずっと足が早いのだ。すぐに追いつかれる──そうでなくても、大門にはもう話が行っているだろう。息を切らせて走っても、怖い思いをしても、きっと無駄なのだ。諦めてしまうほうが、苦しい思いをしないで済む、だろうか。さっさと捕まったほうが、楼主の怒りも小さくて済む?


 違う。そんなことは間違っている。確かに千早はこれまで流されるままに生きてきて、それもまた間違ってはいたけれど、だからといって理不尽な扱いを受け入れるのは、おかしい。


「助けて……っ」


 喘いだ瞬間、力が入らなくなっていた足が滑る。身体の均衡が崩れる。転んでしまって──捕まってしまう、と。血が凍る思いをした千早を受け止めたのは、でも、冷たく硬い地面ではなかった。


「──助けを求めたか?」

「え?」


 耳元で聞こえた低く柔らかい声に、彼女を抱き止めた腕の頼もしさと温もりに、千早は思わず声を漏らしていた。


 顔を上げた先には、とても綺麗な顔をした男の人が、ひたと彼女を見下ろしていた。吸い込まれそうな夜の色の目に、ただでさえ上がった息がますます苦しくなってしまう。抜けるように白い肌に、射干玉の黒髪も艶々として──花蝶屋で御職を張っていた清花きよはな姐さんより、寿々すずお嬢様より、ずっと綺麗。大島紬の袷に羽織を合わせた出で立ちも、すっきりと様になっている。


 ううん、そんなことよりも。


(どうして? 私、真っ直ぐに走っていたのに……)


 男の人の後ろに、暖簾が見える。されにその奥に見え隠れするのは、見世の二階に上がるための、遊郭にはつきものの階段だ。どうみても遊郭の玄関にしか見えないけれど──でも、通りに並んだ戸口に助けを求めよう、なんて発想は千早にはなかった。貧相な小娘を匿うより、追手に突き出して謝礼をもらったほうがよほど得だ。女を売り買いするのが倣いの色街で、そのていどの計算ができない者がいるはずがない。だから、ひたすら大門を目指して駆けていたのに──どうしてこんなところで、こんな人に抱き止められているのだろう。


 とはいえ呆然としたのも一瞬のこと、千早はぼんやりしている暇はないのを思い出した。


「あの、私、売られてしまうところで……! どうか、隠れさせてください……!」


 男の人の袖を掴んで訴えると、絹のひんやりと滑らかな感触がこんな時でも心地良かった。日ごろから着こなして、肌に馴染んだ証だろう。遠目には無地の鉄紺色に見えた生地は、間近に見れば細かな亀甲紋が織り出されている。とても手のかかった、上等の生地だ。


「ああ……追われているのか」

「私、親もいなくて行くあてもないんです。どうか……」


 千早の後ろを見て目を細める男の人に、必死に訴えながら。千早は胸の中で首を傾げていた。


(何を言っているの、私……?)


 この綺麗な人だって、吉原の人なのだろう。こんなに洒落た格好をしているということは、女の涙に心を動かされる甘さも優しさもとうに擦り切れているはず。どんなに必死に願っても、どうせ無駄なのに。

 男の人の腕に力が籠るのを感じて、千早は身体を強張らせた。掴まれて、突き出されるのだと思ったから。でも──


「分かった」


 男の人は、あっさりと頷くと千早を背中に隠して庇ってくれた。

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