あやかし遊郭の居候 ~明治吉原夢幻譚~

悠井すみれ

一章 逃げ込んだのはあやかしの世界

第1話 真昼の吉原で、途方に暮れて

 間近を駆け抜けた人力車の勢いに、千早ちはやは思わずよろめいた。


「危ねえな!ぼうっとするんじゃねえ!」

「ご、ごめんなさい」


 慌てて頭を下げた時には、人力車は既に自らが巻き起こした土埃の遥か彼方に過ぎ去っていた。ほろを下ろしたふたり掛けの車の座席を、悠々とひとりで占めていたのは、洋装の紳士だったような。浅草辺りから足を延ばした物見遊山の客が、昼の吉原よしわらを見物しようとでもしていたのだろうか。


(怒鳴られるだけで済んで良かった、けど……)


 木綿の着物の裾を汚した塵をそっと掃って、わずかばかりの荷物を抱え直して、千早は途方に暮れた。籠の鳥とはよく言ったもので、吉原では若い娘がひとり歩きなどしないものだ。千早は鑑札をもらった娼妓しょうぎではないけれど、自由の身というわけでもない。見世から離れてうろうろしているのを見咎められたら、警察に連れていかれても文句が言えないところだった。


(どうしよう……どうすれば良いの……?)


 日が落ちれば不夜の明るさと賑わいを誇る仲の町通りも、今の時間はまだ比較的人通りが少ない。花見の季節が終わって、桜並木が片付けられた後で良かった。見世のお遣いだとでも思われているのか、きょろきょろと辺りを見渡す千早の不安顔を、不審に思う者はいないようだ。……今のところは。


 でも、だからといって油断は決してできない。


 彼女が姿を消したことに、いつ、誰が気付くか知れないのだから。


      * * *


 千早は、吉原生まれの吉原育ちだ。幼いころに死別した母は娼妓、父はその客だったらしい。らしい、というのはどこの誰だか知れないからだ。唯一の形見の煙草入れは蒔絵細工の見事なものだ。千早が生まれるまで母を援助していたであろうことといい、だから裕福な商人や、もしかしたら華族じゃないか、だとか言う人もいるけれど、どうだろう。身重の母を捨てたことに代わりはないから、知ってもどうしようもない類のことだと、千早は思う。金が尽きたか心変わりか、あるいは身内に女遊びを咎められたか。御一新の前から今に至るまで、吉原ではよくある話だ。


 母が最後に落ち着いた花蝶かちょう屋が、千早の実家のようなものだった。娼妓見習いの下新造したしんぞうということになってはいるけれど、要は下働きの何でも屋だ。何しろ、彼女の背には母が返しきれなかった借金が負わされているから否やは言えない。楼主の娘の寿々すずお嬢様の遊び相手に、使い走り。姐さんたちの着つけや化粧を手伝うこともあれば、掃除や炊事、針仕事を命じられることもある。その合間には、唄や踊りや三味線の稽古も。吉原で金を稼ぐと言ったら、やはりまず「そういうこと」になるのだろうから。


「千早は本当に可哀想ねえ。親の顔も知らないで、学校にも行けないで、ずっと働き詰めなんて」


 当世風に矢絣の小袖に袴を纏い、足元は編み上げのブーツを光らせて。寿々お嬢様は、よく哀れんでくれたものだけれど。千早は自分の境遇をそれほど気にしていなかった。艶やかな黒髪にリボンを結んで、さっそうと女学校に通うお嬢様のことが、羨ましくないといえば嘘になる。でも、上を見上げればきりがないのと同様に、千早よりもずっと苦しく悲しい思いをしている人たちもたくさんいる。少なくとも、千早は親がいなくて寂しい恋しいと思うことはなかった。そもそも、可愛がられた記憶というものがないのだから悲しみようがない。だから、田舎から売られてきて泣く子を慰めることもできた。楼主に女将おかみさんにり手のおばさんに──見世の人の性格もよく見知っていたから、人より怒られる回数は幾らか少なかったと思う。


 だから──千早は、何もかも仕方のないことだと思っていた。屋根があるところで寝起きできて、とりあえず飢えることがないだけ幸せなのだと。多くを望まず、与えられたものに満足していれば良い。どうせ、娼妓の子なんてほかに行くあてはないのだから。そう思ってこの十六年ほどを過ごしていた。


 今朝、までは。


「大変よ、千早。逃げないと。今、すぐに!」


 昨夜の座敷を片付けて、客を見送る姐さんたちの横で頭を下げて。ようやく朝寝を許されて横になっていた千早は、襖をがらりと開ける音で叩き起こされた。重い目蓋を懸命に持ち上げると、袴姿の寿々お嬢様が仁王立ちしていた。勝気な表情も強い言葉も、お嬢様にはいつものこと。だけど、今日に限っては何か鬼気迫る気配を感じ取って、千早は慌てて身体を起こした。その枕元に、お嬢様は素早く駆け寄って膝をつき、低い声で囁いた。


「お父さんとお母さんが話しているのを聞いたのよ。あんたを売り飛ばすって! 怪しい人も来てたのよ。おかしな見世に売られたら、その日から客を取らされるわよ!?」

「え、ええ──」


 昨晩も、遅くまで膳や酒肴を運んで階段を上り下りしていたのだ。眠気と疲れで、最初は何を言われているのか分からなくて、千早は目を瞬かせた。その鈍さに苛立ったように、寿々お嬢様は布団を剥ぎ取り、風呂敷の包みを彼女に押し付けた。


「はい、あんたの荷物。お小遣いも入れてあげたわ。さっさと着替えなさい」


 言われるがままに荷物を受け取って、小袖を羽織って、お嬢様に──いつもとは逆に──帯を締めてもらううちに、千早の耳にも楼主が呼ばわるのが聞こえて来た。


「千早はどこだ? あいつを育てといて良かった。恩を返してもらえるぞ──」


 それを聞いて、千早の目もやっと覚めた。妓楼の主に負った恩といえば、つまりは借金のことだ。千早は、母の借りを返すのを、ずっと待ってもらっているということになっている。彼女の衣食に稽古の掛かりも、みんなみんな、後々返さなければならないものだった。


「お嬢様……!」


 客を取らされる。余所の見世か、好事家に売られる。帯を解いて裸になって──色々なことを、する。される。させられる。

 絶対に嫌だ、無理だ、と思った。

 姐さんたちもしているのだから当たり前のことだと思っていたことが、実はそうではなかった。現実に迫ったと知ったとたんに、おぞましく恐ろしいことだと、千早は気付いてしまったのだ。


 青褪めた千早の震える手を、寿々お嬢様はしっかりと握って見世の裏口まで連れて行ってくれた。


「ね、言ったでしょ。お父さんたちには上手く誤魔化して時間を稼ぐわ。だから、早く!」

「は、はい……」


 裏通りに飛び出した千早の背に、火打石を打ち合わせる音が高く聞こえた。お嬢様が切火きりびを切ってくれたのだ。妓楼では、何かと験を担ぐもの。見世に出る時、検診を受ける時。色々な時に色々な場所で聞こえる、三味線などとはまた違った、吉原では馴染みの音だ。


 借金を返さず身ひとつで逃げ出すという、ここではあるまじき行いをする時にまで、その音が追いかけてくるのがほんの少しだけおかしかった。

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